第五十三話『狂った天動説』
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このアトランティスでは、狂った天動説が絶対の真理として君臨している。
地球を中心にして太陽が回っているというだけではない。この宇宙には地球と太陽、それ以外の天体は一切存在しないという傲慢な仮説が、ベリアル聖教の絶対的なドグマとして人々の脳に焼き付けられていた。
王宮が掲げるその定説に疑いを持つこと、あるいはそれを覆すような研究を行うことは、この世界において最大の『大逆』を意味する。それらはすべて『星を騙る狂信』として、ベリアル聖教の異端審問会によって無慈悲に裁かれる運命にあった。
ここは、人工太陽の光が絶対に届かない地底の奥底の一つ。地下街の異端者たちを拉致し、その肉体と精神を徹底的に破壊するために作られた『異端審問所』である。
そこを照らすのは淡いエーテル光のみである。
冷たい石造りの壁には、錆びついた拘束具と、幾度となく流された血がどす黒くこびりついて剥がれ落ちている。部屋の中央に置かれた鉄製の椅子には、一人の地下街の青年が縛り付けられていた。彼の衣服はボロ切れのように裂け、全身から滲み出た赤黒い血が床に小さな水溜りを作っている。
「──無駄な抵抗はよせ、下層のゴミ虫が」
冷徹な声が、尋問室の低い天井に響く。
声を放ったのは、純白の防護服と白衣を身に纏い、その上にベリアル聖教の紋章を掲げた審問官だった。彼の瞳には、目の前で血を流す人間への憐れみなど微塵もない。ただ、顕微鏡の先にある無機質な細胞を観察するかのような、ゾッとするほどの静寂だけがあった。
審問官の傍らのテーブルには、数々の実験器具が秩序正しく並べられている。薬品の入った試験管、異常な数値を刻み続けるモニター、そしてエーテルを強制的に肉体へ注入するための無骨な注射器。
「お前たちが地下街のゴミ溜めで、夜な夜な集まり何をしていたかは全て把握している。何が『星空』だ。何が『重力関数』だ。王宮が定めた宇宙の真理をハッキングし、存在しない天体の軌道を計算しようなどと、身の程を知れ」
審問官の細い指先が、青年が大切に隠し持っていた数枚の汚れた紙を掴み、目の前でパラパラと落とした。
そこには、地下街の学者や若者たちが限られたエーテルを分け合い、文字通り血の滲むような切磋琢磨の末に導き出した、宇宙の重力関数の解析データがびっしりと書き込まれていた。
地底に閉じ込められた彼らにとって、星空を夢見ることは、ただのロマンではなかった。王宮の絶対的な支配体制、その欺瞞を暴くための唯一の『知性の武器』だったのだ。
「……言え。この計算式を完成させたハッカーは誰だ。脳の松果体をクリスタルに変えられ、マザーラボのキメラの餌になりたくはなかろう」
審問官が冷たく微笑み、青年の剥き出しになった爪に、エーテル電流を流すための端子を近づける。
青年の身体が、恐怖と激痛の予感でガタガタと震える。呼吸は荒く、心臓の鼓動は痛いほどに高いビープ音をモニターに刻んでいる。
だが、その濁った瞳の奥にある光だけは、決して消えていなかった。彼らの脳は確かに虐げられていたが、その思考まで王宮のドグマに洗脳されてはいない。
「……ハ、……ハハ……」
青年は、割れた唇から血を吐き出しながら、低く笑った。
「言わせたいなら……お前たちのその腐った天動説で……オレの脳波をハッキングしてみろよ……。地下街のヤツらはなぁ……誰も口を割らねえよ。オレたちは……本物の星を見るんだ……っ!」
「愚者が」
審問官の合図と共に、冷酷な機械の駆動音が室内に響き渡る。
青年の絶叫が防音の壁に吸い込まれていく中、ベリアル聖教の異端審問所は、ただ淡々とその『処理』を継続していく。
人間の尊厳を、知性を、命の尊さを何とも思わない絶対的な支配。
しかし、異端者にとってそれは『まだ、』生ぬるい拷問にすぎない。
その時──尋問室の重厚な鉄扉が、地鳴りのような音を立てて外側から狂暴に押し開けられた。
入ってきたのは、尋問室の低い天井がさらに低く感じられるほどの巨躯。漆黒の軍服の上から、血の匂いが染みついた重厚な外骨格装甲を纏う男──アトランティスを支配する十人王の一人であり、オリハルコン鉱山とキメラ兵器を牛耳る、ムネセウスであった。
「……ム、ムネセウス様!」
白衣の審問官が、慌てて顕微鏡から目を離し、直立不動の姿勢で頭を垂れる。
ムネセウスは審問官に視線すら呉れず、鉄の椅子で電流に四肢を痙攣させている青年へと歩み寄った。床に溜まった血溜まりを、容赦なく硬質な軍靴が踏み荒らす。
「形ばかりの思想統制なんてまどろっこしいシステムを頼るから、いつまで経ってもゴミ処理が終わらんのだ」
地響きのような低い声が、青年の鼓膜を直接震わせる。円卓会議でメストルを嘲笑った時と同じ、恐怖と暴力のコードを絶対とする者の口調だった。
ムネセウスは、床に散らばった重力関数の解析データが書かれた汚れた紙切れを、大きな手で乱暴に拾い上げた。そこに並ぶ無数の数式と、地底の人間たちが命を削って導き出した執念の計算式を、つまらなそうに一瞥する。
「宇宙の重力関数、か。王宮の目を盗んでコソコソと星の軌道を計算して何になる。人間なんてものは、ただ我らの鉱山を掘り進めるための動く生体パーツであれば十分。頭の中に余計な空を広げるから、バグを生む」
ムネセウスは、その屈強な指先にわずかに力を込めた。それだけで、地下街の学者たちが命がけで残した知性の結晶が、ミリミリと音を立ててただの塵へと握り潰される。
「ひ……っ、あ……あぁ……!」
それを見た青年が、肉体の激痛以上の絶望に、血の混じった悲鳴を漏らした。
「おい、下層のクズ。お前たちのコミュニティにいるという天才ハッカーの座標を吐け。あのメストルの飼い犬のインプラントを引きちぎったイレギュラーのガキの所在だ」
ムネセウスは青年を椅子の拘束具ごと片手で持ち上げ、その凶悪な顔を至近距離まで近づけた。男の身体からは、数え切れないほどの人間を実験体としてパージしてきた、濃厚な死と硝煙の匂いが立ち込めている。
「言わなければ、今すぐお前の脳波を強制フォーマットし、我がセクターの新型自律キメラ兵器の生体コアとして組み込んでやる。下層街ごと血の海に沈められる前に、その泥の詰まった口を開け」
喉を締め上げられ、青年のバイタルモニターが限界を示す警告音をけたたましく鳴らし始める。
だが、青年は狂った王の凄絶なプレッシャーを正面から浴びながらも、濁った瞳の奥で、なおも反逆の火を燃え立たせていた。
「……だ、誰が……言うかよ……。オレたち下層民は……お前たちの……家畜じゃねえ……!」
「そうか。ならば、これ以上の言語プロトコルは不要だな」
ムネセウスは、つまらなそうに青年を床へと投げ捨てた。
そして傍らのテーブルから、ベリアル聖教の紋章が刻まれた、禍々しい紫色の液体が満ちる特大の注射器を無造作に掴み取る。
「審問官、こいつの脳から直接ログを引っこ抜け。焼き切れて使い物にならなくなった肉体は、そのままマザーラボへパージしろ。一週間後の花火大会とやらで踊るネズミどもへ、良い見せしめになる」
ムネセウスの冷徹な命令と共に、実験器具が再び異常な駆動音を立てて作動し始める。
審問官は青年のうなじにプラグを接続し、その情報を異端審問所の最高性能を誇るPCへと接続させ、ログを解析させる。
「次だ」
ムネセウスはさっきの使い物にならなくなった青年を冷ややかな目で見ながら次の異端者に目を向ける。審問所の重たい鉄扉から、次の異端者が入ってくる。
鉄製の椅子に新たな異端者が座ると同時に、ムネセウスは淡々と次の拷問を始める。
審問官の手によって次の青年の爪へと容赦なく端子が突き立てられ、肉体が爆ぜるような電流の火花が尋問室を紫色に染め上げる。青年は絶叫することすらできず、白目を剥いて歯根が鳴るほどに全身を激しくのけ反らせた。バイタルモニターの数値が急速に乱れて死のフラットラインへと向かっていくのを、ムネセウスは冷ややかに見下ろしている。
「時間をかけるな。脳波ログを抽出したら、その肉塊もすぐにラボへ放り込め」
ムネセウスはそう言い残すと、血の匂いが充満する尋問室の鉄扉を乱暴に蹴り開け、背後の通路へと歩み出た。
異端審問所のさらに最深部には、王宮の一般階級はおろか、上級神官ですらその存在を知らされていない特異な昇降機が存在する。ムネセウスが肉厚な手のひらをオリハルコン製の認証パネルにかざすと、重低音とともに防壁がスライドし、底の見えない暗黒のシャフトが口を開けた。
ガガガ、と外骨格装甲の駆動音を響かせながらムネセウスが乗り込むと、昇降機は凄まじい重力加速度を伴って、アトランティスのさらに底、王宮の最暗部へと沈降していく。
──そこは、光と秩序を誇る地上世界の真下に広がる、最も不浄な胃袋。
通称、狂気の人体実験室『メデューサのマザーラボ』。
チーン、という無機質な電子音が響き、昇降機の扉が開いた瞬間、ムネセウスの鼻腔を突いたのは、異端審問所のものとは明らかに異なる、強烈な消毒液の臭気と、内臓を煮詰めたようなドス黒いエーテルの腐敗臭だった。
眼前に広がっていたのは、見渡す限りの巨大な硝子管が幾重にも並ぶ、死の工場である。
天井からは無数の黒い生体LANケーブルが蠢くヘビのように垂れ下がり、それぞれのカプセルにドロドロとした極彩色のエネルギーを供給していた。白衣を着たアンドロイドたちが、無表情のまま顕微鏡を覗き、シャーレの中の異常細胞を淡々と記録している。その駆動音と、心音モニターの冷徹なビープ音だけが、広大な空間を支配していた。
軍靴の音を響かせながら中央の通路を進むムネセウスの左右で、王宮の歪んだ『神の模倣』がその姿を現していく。
最初の区画に並んでいたのは、巨大なオリハルコンの拘束具に固定された『巨人』の群れだった。
それは単に巨大な人間ではない。下層街から拉致された屈強な鉱夫たちの肉体を、十数人単位で無理やり生体ハッキングによって継ぎ合わせ、一つの巨大な肉塊へと結合した異形だった。
拡張され続ける肉体の質量に骨格が耐えられないのか、彼らの肉からは常にミシミシ、バリバリと生々しい骨折音が響き、複数の口からは言葉にならない嗚咽が漏れ出ている。だが、その頭部に埋め込まれた制御チップが強制的に脳を覚醒させているため、彼らは気絶することすら許されず、ただ涙と血を流し続けていた。
「フン……。肉体強度の安定性が未だに足りん。これでは鉱山の最深部の重圧に耐えられんぞ」
ムネセウスがつまらなそうに吐き捨て、さらに奥の区画へと歩みを進める。
次に現れたのは、ガラス管の中で猛り狂う『ミノタウロス』だ。
王宮のドグマに反逆した思想犯たちの首から上が丸ごと切り落とされ、そこに雄牛の頭部が無理やりエーテル縫合されている。脳の松果体はすでに青白いクリスタルへと変えられており、自我は完全に消去されていた。彼らはただ、王宮の防衛ラインを破る侵入者を文字通り肉塊に変えるための、狂暴な破壊衝動だけをインプットされ、硝子を内側から狂ったように叩き割ろうとしている。
その隣の培養槽には、下層の少年たちの下半身を裂き、駿馬の遺伝子を無理やり接続された『ケンタウロス』たちが浮いていた。
人間の知性と馬の野生が脳内でシステムエラーを起こしているのだろう。彼らはカプセルの壁に自らの頭部を何度も何度も激しく打ち付け、その首元からは、切断された神経回路から漏れ出たエーテルの光が血とともに噴き出していた。
さらに進むと、巨大な水槽の区画へと入る。
そこには、王宮の美しい下層の少女たちの顔を持ったまま、胴体から下を醜悪な肉食魚の尾へと改造された『人魚』たちが、緑色の培養液の中で溺れるように喘いでいた。
その水槽のすぐ上には、少女の顔とライオンの胴体、そして猛禽類の翼を持った『スフィンクス』が、オリハルコンの鎖で吊るされている。彼女らは意思を奪われ、ただ王宮の暗号通信を脳内で中継する『生体ルーター』として機能させられていた。その瞳からは完全に光が消え失せ、網膜にはただ、システムエラーの冷たい文字列だけが明滅している。
「──ムネセウス様。お早いお着きで」
不意に、背後から声をかけたのは、ラボの管理を担当する白衣のアンドロイドだった。その手には、異常な薬品が満ちた試験管と特大の注射器が握られている。
「メストル様の飼い犬のインプラントを剥がした下層のネズミどもが、一週間後に地下街の第3パークで『花火大会』とやらを企画しているそうです」
ムネセウスは立ち止まり、頭上を見上げた。
そこには、天井から吊るされた無数の生体チューブの『根源』がある。すべてのケーブルを引き絞り、ラボ内の全キメラたちに狂気のエネルギーを供給している最奥の存在──。
その巨大な培養槽の中で、血濡れの白い翼を力なく広げ、ただ生存を維持されているだけの悍ましいキメラ、『ペガサス』が悲痛な瞳でムネセウスを見下ろしていた。そのペガサスの心臓から伸びる太い半透明のパイプは、このラボの最も深い闇へと繋がっている。
王宮が掲げる狂った真理、その欺瞞を維持するために、どれほどの命が『蓄電機』に変えられ、そのエネルギーを吸い尽くされているのか。
「泳がせておけ。あのメストルがどう動くかは知らんが、俺の新型キメラたちの実戦テストには、ちょうどいい舞台だ」
ムネセウスは、ガラス管の奥で蠢く異形たちの反射光を浴びながら、凶悪な笑みを深く刻んだ。
──下層街の住人たちが、本物の星空を夢見て、一週間後の夜に向けて笑顔で花火の準備を進めている、そのすぐ真下で。
彼らが決して知ってはならない、アトランティスの血塗られた支配のシステムが、着実にその爪を研ぎ澄ましていた。




