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アトランティスに転生したら現代よりも奴隷社会だった件  作者: 和子・F・和夫
第二章『シュレディンガーのサーベルタイガー』

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第四十二話『音楽祭の感動』

 

 ※※※


 ──わたしはかなり緊張していた。昨日のはじめての居酒屋に続き、はじめてのディスコである。ディスコってなに? っていう状態だが……。


 エントランスの重い遮音カーテンをくぐり抜けた瞬間──世界の色が、音立てて裏返った。


「……っ、あ……」


 押し寄せてきた光と音の質量に、わたしは息をすることさえ忘れて、その場に立ち尽くしてしまった。


 そこは、王宮のあの冷徹で、静寂に満ちた白茶けた世界とは100%対極にある、光の狂乱の海だった。


 見上げるほど高い漆黒の天井には直線的なブルーのネオンチューブが幾筋も走り、冷たい地下の空気を鮮やかなエレクトリック・ブルーに染め上げている。バーカウンターの奥で明滅するレトロゲーム風のドット絵や、ガラス瓶を透過する極彩色のアルコールの光が、水面のようにきらきらとフロアに反射していた。


 けれど、何よりもわたしの心を狂わせたのは、この場所に満ちている『音』だった。


 お腹の奥を直接太い指で掴んで揺さぶられるような、暴力的で、地響きのようなズンズンと鳴り響く規則的な重低音。


 王宮の礼拝堂で聴く、あの規律正しく凍りついた賛美歌とは何もかもが違っていた。あいつに記憶を剥がされた今になって振り返ると、正直地上の音楽がつまらないものに感じてしまう。


 わたしの前にいる下層の住人たちが、汗を飛び散らせながら影絵のように激しく跳ね踊り、まるで生きていることそのものを叫び散らすように、音の波に身を委ねている。


 剥き出しの、命の熱量。


 王宮が『不謹慎』と断じた地下街の毒々しいネオンの下で、彼女たちはこんなにも鮮やかに、自分の『可愛い』と『自由』を表現して生きている。


 視線をフロアの最奥へと向けると、そこには息をのむような光景がそびえ立っていた。


 宇宙船のコックピットをそのまま持ってきたかのような、鋼鉄の巨大なステージ。その背後と左右に広がる壁一面の超巨大LEDモニターには、青白い『稲妻』のエフェクトが縦横無尽にバチバチと狂い咲いている。まるで、この空間のボルテージそのものが物質化して激しく躍動しているみたいに、あまりにも綺麗で、ただただ圧倒される。


 デジタルマスクを外し、剥き出しになったわたしの肌に、大音響の振動とストロボの青い光がパチパチと心地よく突き刺さる。


 怖い、はずだった、メストルの教えに従うなら、ここは悍ましい悪党どもの巣窟で、わたしは今すぐ耳を塞いで逃げ出すべき汚れた場所。


 だけど、今は違う。


 胸の奥が、熱い何かで締め付けられるようだ。


 地上の退屈な教典しか知らなかったわたしの魂が、この暴力的なまでに美しい電子音楽のビートに、狂おしく、歓喜するように共鳴を始めていた──。


 自然と身体が揺れる。なにこれ。楽しい……。


 すると青いライトで明滅するレンが、わたしに近づいてきた。


 え、近い。近い。なに? 


「な………む……か………っ」


 なに。なむかって。


「の…………か……」


「え? なに?」


 レンの声がまったく聞き取れない。


 そのことを察知してレンがぐいっとわたしの手首を引っ張り、耳元で


『何か飲むか? 奢るわ』


 と、普段よりもなんか低い声で言ってきた。


 心臓に悪い……っ。


 至近距離で(しかも今は暑い時期なので薄着だから)肌と肌が密着する。あいつの熱い息が耳元にかかる。昨日のことを思い出し、心臓の鼓動が鳴り止まない。今、流れているこの曲の重低音の規則的な間隔と、自分の心臓の音がどちらなのか分からなくなってパニックになる。わたしはパニックになった状態で、あいつの耳元めがけて


『えっとお酒!』と、放った。


 昨日あんなことがあったのに、ここでお酒に頼ってしまうのが、情けない。本当に……。


「声デカッ──」


「うっさい!」


 こんな場所で話したことがないから声量のボリュームが分からない。わたしが昨日あんなことがあったのにも関わらず、お酒でいいのか? 今すぐにでもソフトドリンクにした方が……なんて逡巡(しゅんじゅん)しているうちに、レンはそそくさとバーカウンターの方へ去っていった。


 しばらく待っているとレンがグラスを持ってくる。また至近距離で密着して、


『なにがいいか聞くの忘れちったから、直感で選んでくれ』と言って、透明な炭酸にライムが入ったものと、琥珀色の炭酸にライムが入ったものをわたしの胸の前に突き出してきた。


 だから近いってば。


「じゃ……こっち……」


 わたしはわけも分からず、恐る恐る指を差す。酔えたらなんでもいいと思ってるわたしはもう手遅れなのだろうか……。


 すると、レンはニコッと笑って──


『そう言えばセネカは……?』と訊いてきた。


 あ、ディスコが衝撃的すぎて、はぐれたことに気づけてなかった!!!


「リンコ様に近づくなぁぁあああ! このゴミ虫!」


 セネカ? 


 フロアの奥──人の網目を掻き分けて走ってきたセネカは、そのままレンの手首にサーベルタイガーの牙(八重歯)をガブと突き立てた。


「いってぇええ。てめえ何しやがる!」


「リンコ様、こんなゴミ虫放っておいて、わたしとイチャイチャしましょ」


「あは……はは」


 なにこれ。こんな爆音が鳴ってるというのに、このコメディのノリだけは浮き彫りになったかのように聞こえてくる。これも周波数のマジックってやつだろうか。


「あ、ありがと……奢ってくれて……」


「おう、じゃあオレ行ってくるわ」


 レンはそう言うと、巨大なステージへと向かって行った。いったい何をするのだろう。ギルに聞かされてなかったから、どうなるか楽しみである。わたしが胸の高鳴りを感じていると、


『リンコ様、乾杯しましょー!』


 と言って、セネカがにじり寄ってきた。


 よく見るとセネカは丸いテーブルの上に、自分の飲みソフトドリンクを置いていたらしい。さっき見かけなかったのは恐らくお手洗いにでも行って、テーブルにドリンクを置いたのだろう。言ってくれればここで待ってたのに。


 わたしはセネカに乾杯を促され、手に持っている冷たい琥珀色の炭酸をセネカのグラスと重ね合わせる。


「「乾杯」」


 そういえば、なんでさっきエントランスで『半透明のセネカ』を見ても、それに対してあのギャルの女の子二人は触れなかったのだろう。まあ、これだけ熱気があって、盛り上がっていたら些細なことには触れないのだろう。


「リンコ様?」


「ううん。何でもない。ほら、なんかあいつがやるみたい」


 ステージに上がり、何やら準備をしているみたいだ。


 ステージの鉄の塊のような巨大な箱。その中央に立ったレンが、ヘッドフォンを片耳に当てながら、無数のツマミが並んだ機械に手をかけた。


 ──カチリ。


 彼が何か重いスイッチを入れた瞬間、背後の超巨大LEDモニターの蒼い稲妻が弾け、空間を塗り替えるように新しいホログラムの文字が浮かび上がった。


『TARGET:ROYAL RADAR(王宮追跡レーダー)』


『STATUS:SCANNING...(解析中)』


 その警告のようなホログラムにフロアがどよめいた次の瞬間、レンの右手が鋭く『何か』を振り下ろした。


 ドォン──……、ドォン──……。


 地鳴りのような、けれど、さっきまでの規則的な音よりもずっと、ゆったりとした重低音がフロアを支配する。


 脳内を心地よく引きずるような、気だるくて太いリズム。


「まずはこれだ。体を揺らすだけでいい、これが『ヒップホップ』ってやつだ!」


 マイクを通したレンの声が、スピーカーから爆音で降ってくる。


 ホログラムを見るとそこには音楽のジャンルが表示されている。


 《ジャンル:チル系ヒップホップ BPM80》 


 ゆったりとした、ピアノと雨音のような、朝のコーヒーのブレイクタイムのような雰囲気だ。今まで体験したことのない『本当の音楽』がわたしの目の前に広がっていた。


「なにこれ……」


 思わず呟く。


 さっきまでの激しい音と違って、今度は身体が自然と、横に、前後に、ゆったりと波打つように揺れてしまう。賛美歌のように直立不動で聴く必要なんてない。ただ、冷たい琥珀色の炭酸を口に含みながら、レンの刻む一定のテンポに身を委ねているだけで、頭の芯がじんわりと痺れるように気持ちよくなっていく。昨日のバカみたいな酔い方じゃない、お酒ってこんなに音楽と相性が良くて親和性があるんだ。


 ふと頭上のホログラムを見上げると、そこにはメストルたちの使う王宮システムのコードが、ノイズ混じりに高速でエラーを吐き出していた。


『BPM:80 未知の音波波形を検知──処理システム、解析を開始……』


 ──あいつの言う通りだ。


 王宮の機械は、この予測不能な『地球のビート』を必死に計算しようとして、完全に翻弄されている。


 フロアの住人たちが『おい、これマジで気持ちいいな!』『身体が勝手に動くぞ!』と歓声を上げ、思い思いのステップで揺れ始めた。その熱気がフロアのボルテージを一段階引き上げたのを見計らい、ステージの上のレンが不敵にニヤリと笑う。


「おいおい地下街のネズミども、まだまだこんなもんじゃねえぞ! 次はこれだ、脳ミソのセクターを切り替えろ!」


 レンがターンテーブルを激しく擦り、レコードがキュイイイイン!と悲鳴を上げる。


 瞬間、BPMカウンターの数字が【95】へと跳ね上がった。このBPMというのはなんだろう? どういう意味なのか分からないが、手を引かれるように別の世界へ連れて行ってくれることだけは分かった。


 《ジャンル:レゲエ BPM95》


「──さあ、まだまだ小気味よくいくぞ! お前らのビートを次のセクターへマージしろ!」


 レンがニヤリと笑って機械のつまみを回すと、低音の質感がガラリと変わった。


 ドッ、チャ、ドッ、チャ──。


 さっきまでの気だるい横の揺れとは違う、どこか陽気で、だけどとびきりスローで、独特な縦にもノリたくなるリズム。南国の温かい風がストリートを吹き抜けていくような、不思議なハネた音がフロアを包み込む。


(な、にこれ……? さっきの曲よりも……、今度はなんだか……膝の力が抜けちゃうような、おかしなリズム……)


 本当に不思議だった。王宮の賛美歌は、背筋を伸ばして神への畏怖を捧げるためのものだ。だけどこの音楽は、むしろ身体の力を完全に抜いて、南国の果実みたいな甘い気だるさに身を委ねろと誘いかけてくる。


 自然と、フロアのあちこちから『フゥー!』と陽気な歓声が上がり、住人たちがゆるやかに腰を揺らし始めた。


 頭上のホログラムに、王宮システムの新しいログが走る。


『BPM:95に推移。……警告。先ほどのヒップホップの波形モデル(予測)と不一致。システム、急激なリズムの『ハネ(裏打ち)』の処理に遅延が発生。再解析を要求……』


(すごい。音楽でこんなことができるなんて……)


 ただ音を変えるんじゃない。音楽の『ジャンル』そのものを次々に切り替えることで、王宮の高性能なAIの予測を完全に裏切り、無力化していく。


 ブースの上で、リズムに合わせて軽く頭を揺らしながら次のレコードに手をかけるレンの姿が、蒼いネオンの中で最高に不敵で、憎らしいほど輝いて見えた──。


(レゲエ?の気だるいハネるリズムの直後から──)


「──ストリートの波形をさらに重ねるぞ。地下街の夜は、ここからが本番だ」


 レンが流れるような手つきでツマミを絞り、同時に新しい音のレイヤーを滑り込ませた。


 BPMカウンターの数字が、さらに滑らかに加速して【100】を刻む。


 《ジャンル R&B/ネオ・ソウル BPM 100》


 途端に、これまでの楽器の音だけだった空間に、鳥肌が立つほどにソウルフルで、どこか切ない『人間の歌声』が多層的に折り重なって響き渡った。


 太く心地いい低音のビートの上を、美しく官能的なメロディが優しく包み込んでいく。


(綺麗……)


 冷たい琥珀色の炭酸を飲み干したばかりの喉の奥が、きゅっと熱くなった。


 王宮の聖歌隊が歌う賛美歌は、どこまでも厳かで、人間らしい感情を削ぎ落とした彫刻のようなものだ。だけど、スピーカーから降ってくるこの歌声は、まるで胸の奥に隠した一番柔らかい熱情を直接指先でなぞられているみたいに、生々しくて、ひどく切ない。


 さっき至近距離で触れたレンの肌の熱さ、耳元にかかった低い声の残響が、この大人っぽいメロディと混ざり合って、わたしの脳内へとドロドロに溶け出していく。


 もう、このお腹の底から湧き上がる激しい鼓動が、お酒のせいなのか、音楽のせいなのか、それとも──ステージの上で青いネオンを浴びているあいつのせいなのか、本当に分からなくなってしまう。


 ふと見上げたホログラムは、複雑に重なり合う美しい歌声の処理に追いつかず、完全にパニックを起こしていた。


『BPM:100を検知。……警告、未知の多重音声ボーカル・レイヤーを検出。システム、感情値の測定パラメーターが限界を突破。解析コードのシャットダウンを回避するため、データの再構築を開始します……』


(あいつ……本当に、王宮の冷たい機械に、人間の『感情の歌』をぶつけてバグらせてる……)


 フロアの住人たちも、このあまりにもエモーショナルで美しい音の波に完全に酔いしれ、うっとりと目を細めながら、お互いの身体を寄せ合ってゆったりとステップを踏んでいる。


 ステージの上のレンは、まるでこの空間のすべてを愛おしむようにヘッドフォンに手を当て、最高に優しい、だけどとびきり不敵な笑みを浮かべていた。その姿を見つめるわたしの胸の高鳴りは、もう誰にも止められそうにない──。


「──メロウな時間はここまでだ。地下街のネズミども、そろそろ本格的に足を動かす準備はいいか!?」


 レンがマイクに向かって不敵に吠え、機械を使ってこれまでの音を鋭く跳ね上げる。


 BPMカウンターのデジタル数字が、小気味よい駆動音を立てて【110】へと加速した。


 《ジャンル:ファンク / ニュージャックスウィング》


 ドンッ、タッ、ドッドッ、タッ──!


 流れてきたのは、さっきまでの切ないメロディの余韻を極上のスパイスに変えてしまうような、めちゃくちゃ煌びやかで軽快に跳ねるシンセサイザーの音。


 ドラムの音が、一打ごとに弾けるような強烈なスナップを伴って、フロアの床を激しく叩き始める。


「あ……っ、今度は、すごく楽しそうな音……!」


 お酒が回ってふわふわとした頭の中に、その小気味いいリズムが直接ステップの命令を送り込んでくるみたいだった。


 自然と、手に持った琥珀色のグラスを揺らす手首の動きが速くなる。隣を見ると、さっきまで怒っていたセネカまでもが、グラスを片手に『リンコ様! めちゃくちゃ楽しいですっ』と、メトロノームみたいに身体を揺らし、ピコピコと楽しそうにステップを踏み始めていた。


 わたしは音に合わせてトントン、と床を蹴る。王宮の重苦しい歩き方しか知らなかった足が、レンの刻む110のビートの上で、まるで重力から解放されたみたいに自由に、軽やかに躍動していく。


 見上げるホログラムは、この急激な『リズムの跳ね』についていけず、文字コードが激しくブレ始めていた。


『警告。テンポが110に上昇。さらにドラムパターンに予測不能な強烈なスナップ(跳ね)を検知。解析アルゴリズムがステップの規則性を処理できず、王宮追跡システムの計算速度が30%低下中……』


(すごい……あいつ、本当に音楽だけであの冷たい機械を翻弄し続けてる……)


 フロアを見渡せば、地下街の人たちも『これだよこれ!』『レン、最高の繋ぎだぜ!』と叫び声を上げ、さっきまでのウットリした空気から一転して、笑顔で激しくステップを踏み鳴らし始めている。


 ステージの上のレンは、フロアのボルテージが完全に自分の手のひらの上で踊っているのを確信したように、ヘッドフォンを首にかけ直し、次のさらなる爆発に向けて、不敵な牙を剥くようにギラギラとした笑顔を浮かべていた──。


「──よし、地下街のネズミども! ギアは完全に噛み合った。ここから一気に速度を同期させるぞ。前世の地球(テラ)が誇る、最高にお洒落な夜のステップに溺れな!!」


 レンが流れるような手つきでターンテーブルを滑らせ、機械のツマミを鮮やかに弾いた。


 BPMカウンターのデジタル数字が、【120】へと滑らかに到達する。


 《ジャンル:ジャズハウス BPM120》


 ──ドン。ドン。ドン。ドン。


 瞬間、フロアの空気が一変した。


 空間の四方八方から、まるでわたしの鼓動を優しく、だけど絶対に逆らえない力でリードするような、小気味よくてお洒落なベースビートが押し寄せてくる。


 その規則的な低音の合間を縫うように、ピアノの軽快で洗練された旋律が跳ね踊り、サックスの艶やかなメロディがネオンの海を滑るように駆け抜けていった。


(音が、波みたいに押し寄せてくる……っ)


 さっきまでの『跳ねる楽しさ』とはまた違う。まるで、このエーテルディスコの空間そのものが巨大な生き物になって、その脈動の中にわたし自身が溶けて、一体になっていくような感覚。


 お酒で熱くなった身体が、120の完璧なテンポに合わせて、自然と、それでいて最高に心地よくスウィングを始める。


 あ、そうか。このBPMってテンポのことなのか、と気づいたのは110を超えたあたりだった。


 見上げれば、頭上のホログラムが、信じられないほどの速度でエラーログを更新し、完全に狂い始めていた。


『BPM:120に固定。……警告。低音パルスが完全な等間隔に変異。データ密度が急上昇。王宮追跡システムの予測AIが、ピアノの変則的なサンプリング旋律の計算を拒絶──処理能力がさらに限界を突破、オーバーヒート中……』


(すごい……、本当にメストルたちのレーダーが、この綺麗な音のせいで何も見えなくなってる……)


「リンコ様! この音楽、癪ですけど……癪ですけどめちゃくちゃお洒落で格好いいですぅぅうう!」


 セネカも、持っていたソフトドリンクのグラスを掲げながら、フロアの住人たちと一緒に声を上げて激しく身体を揺らしている。セネカの笑顔が、ブルーのライトを浴びてキラキラと輝いていた。


 あの蒼い稲妻がバチバチと狂い咲く巨大モニターの前。


 無数のインジケーターが明滅するコックピットのようなブースの中で、フロア全体の熱量を完全に支配しているレンの姿から、どうしても目が離せない。


 王宮の退屈で冷酷な支配を、こんなにも美しく、スタイリッシュな電子のメロディで踏み潰し、バグらせていく。


 ヘッドフォンを片耳に当てながらフロアを見下ろすあいつの素顔が、蒼いストロボの光の中で、音楽に酔いしれているわたしの網膜に、狂おしいほど眩しく焼き付いていた──。


「──ハウスの時間は終わりだ。地下街のネズミども、ここからは脳ミソのセクターを完全に地球(テラ)の深淵へダイブさせるぞ! 魂の周波数をレン・ツキシマに完全同期しろォ!!」


 レンが吠えた瞬間、BPMカウンターが【130】へと滑らかに到達した。


 《ジャンル:トランス BPM130》


 ──ズン。ズン。ズン。ズン。


 鼓膜を、そして脳の髄までを直接太い指で掴んで揺さぶられるような、重くて、そして驚くほどクリアな低音。


 お洒落なハウスのノリは一瞬にして彼方へと吹き飛び、空間のすべてが、その規則的な脈動にジャックされる。


 そして、その低音の壁を突き破るように、漆黒の天井から、どこまでも広がっていくような壮大で、美しくて、そして狂おしいほど切ない『シンセサイザーのリフレイン』が降り注いできた。


 一瞬、目の前の景色がグニャリと歪んだ気がした。


 お酒の酔いと、空間全体の蒼いネオンのストロボが混ざり合い、自分の身体の境界線が融けて、この爆音の海の中に霧散していくような感覚。


 怖い、はずだった。メストルの冷たい嘘に支配されていた頃なら、この悍ましい電子音楽のトビに魂を融かされるなんて、絶対に許されない汚れた行為。


 なのに、今は違う──。


 きっとそれはセネカも同じ気持ちに違いない。奴隷のキメラとして生きてきたセネカと、王宮のルールにがんじがらめで生活していたわたし。今この二人は驚くほど軽やかで、地球の重力から解放されているように見えるだろう。


 頭上のホログラムは、もう何が起きているのかを処理しきれず、完全にエラーコードの洪水に陥っていた。


『警告。同一の電子周波数パターン(リフレイン)の無限ループを検知。システム、無限増殖するデータの処理ループに陥り、王宮追跡システムのCPUが熱暴走メルトダウンを開始──メモリーの100%が占有されました……!』


(…………っ)


 フロアを見渡せば、地下街の人たちも、笑顔で、だけどどこか恍惚とした表情で、お互いの身体を寄せ合い、魂の底から130の完璧なビートに身を委ねている。


「──脳ミソのダイブは十分だな!? ラストは地下街のギャル! おまえらのカルチャーだ、全員全力で跳ねろォォォォ!!!」


 レンが不敵な絶叫と共にターンテーブルを激しく揺らした。


 BPMカウンターのデジタル数字が、狂ったような速度で【140】へと跳ね上がる。


 《ジャンル ユーロビートBPM140》


 キュイイイイン──ドパパパパン!!!


 瞬間、さっきまでの青い静寂の宇宙をブチ破るように、鼓膜が震えるほど派手で、めちゃくちゃに疾走感のある『超高速シンセサイザーのメロディ』がフロアへ爆発的に雪崩れ込んできた。


 ダダダダダダダダ!と、地面を激しく叩きつけるような超高速のリズムが、フロアを文字通り物理的に揺らし始める。


(な、にこれ……! なにこれ、胸が、ものすごく熱い……っ!!)


 お酒で限界までトランスしていた脳ミソに、今度は純度100%の『興奮』がダイレクトに注入されたみたいだった。


 トビ狂うような心地よさから一転して、今度はただひたすらに、笑顔で、全力で、この最悪なディストピアを笑い飛ばして大暴れしたくなるような、圧倒的なポジティブのエネルギー。


「アハハ、ギルとレンの彼女ッぴ! これだよこれ! これがウチらの最強のビート!」


「リンコ様ぁ! もうわたし、我慢できませんんんん!」


 見れば、エントランスで一緒だったギャルの女の子二人組が、汗をキラキラと飛び散らせながら全力で両手を振って跳ね踊っている。セネカにいたっては、もう『にゃーーー!』と歓声を上げながら、猫科のステップでフロアの住人たちと肩を組んでめちゃくちゃにジャンプしていた。


 わたしも、もうまわりの目なんてどうでもよくなっていた。


 音に合わせて、狂ったように笑顔でステップを踏み鳴らす。楽しい、楽しい、楽しい! メストルの冷たい洗脳コードなんて、この140のビートの前にはゴミみたいなものだ。


 見上げるホログラムには、このフロア全員の『歓喜の熱量』を処理しきれず、完全にシステムがメルトダウンを起こしていた。


『警告、テンポ140を検知。……エラー、エラー! 周波数の情報がポジティブ(歓喜)のパルスに100%ジャックされました。王宮の奴隷統制コード(洗脳電波)がフロアの熱気と相殺、完全にシャットダウンしました──!』


(あいつ……! 本当に、街全体の周波数をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、王宮の裏をかいちゃった……)


 蒼いライトのストロボが激しく明滅する中、巨大なステージの真ん中で、最高にキレ狂った動きでフロアを煽りまくるレンの姿。


 偽りの太陽しか知らなかったこのアトランティスの底で、前世の豊かで、クレイジーで、最高に自由なカルチャーをぶち撒けるあいつの素顔は、間違いなくこの最悪な奴隷社会をブチ壊す、無敵のヒーローそのものだった──。認めざるを得ないのがちょっと癪だけど……。


「──これで、ラストだァァァァァアアアアア!!!!!」


 レンが吠え、無数のインジケーターが明滅する複雑な電子の盤面をガツンと引き下げると同時に、ターンテーブルの電源をブツ切りにした。


 キュウゥゥゥゥン……。


 歪んだ音を立てて、140の爆音ユーロビートが、まるで世界の終わりみたいにスパッと途切れる。


 一瞬にしてディスコ全体に押し寄せた、耳が痛くなるほどの、圧倒的な『無音』と『静寂』。


 フロアの誰もが、今の衝撃から冷めやらず、言葉も忘れて暗がりの中でただ息を呑んでいた。


 ステージの上のレンも、肩で激しく息をしながら、ヘッドフォンを首にかけ直して不敵に笑っている。


 終わった。


 そう思った、まさにその刹那だった。


「……っ! ……っ!?」


 ドクン!!! と。


 今までの人生で一度も感じたことのない、心臓を直接素手で握り潰されたかのような、あまりにも強烈で狂おしい『衝撃』が、わたしの胸の奥で爆発した。


 ハッ…………


 比喩じゃない。気のせいなんかじゃない。


 首から下げて、服の内側に隠していたあの鉄の塊──、『絶対に動かない懐中時計』のあたりが、あり得ないほどの異様な熱量を持ってドクドクと拍動していた。


 まるで、冷たく凍りついていた鉄の中に、今すぐ肌を焼き焦がさんばかりの溶岩が注ぎ込まれたみたいに。


 あまりの熱さと衝撃に、わたしは胸を強く押さえて、その場に膝をつきそうになる。


「な、に、これ……どうして……っ」


 メストルの教えのすべてが、わたしの魂の奥底でガラガラと音を立てて崩れていく。


 震える指先で、服の襟元からその時計を引きずり出した。


 ──息が、止まった。


 暗暗としたディスコの底で、その時計は、わたしの狂った鼓動と完全に同期しながら、ぽぅ、ぽぅ、と、見たこともないほど深くて美しい青白い光を明滅させていたのだ。


 レンの鳴らした音が、わたしの胸の奥に深く、深く突き刺さって。


 王宮が、メストルが、わたしの人生に施したはずの『SSS級の絶対的なプロテクト』。その冷酷な鉄格子の隙間を抉じ開けて、触れてはいけないはずのわたしの本当の核に、あいつの音楽が直接触れて、火を灯してしまったんだ──。


「……うそ……光って、いる……?」


 文字盤に刻まれた奇妙な記号が、まるで呼吸を取り戻したかのように、青いエーテルの光の中でかすかに脈動していた。


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