第三十話『迷子の猫』
どれだけの時間が経っただろうか? デジタル時計を見てもよかったが、地下街の空にある人工大陽が沈みかけてるのを見て、もう夕方だと判断する。人工で作られた風が地下街を吹きすさぶ。夏の涼しい夕方。オレはそろそろ一人になったリンコに伝えたいことがあるので、どこに行ったかを探しているところだ。
頭上を蠢くのは、血管のようにのたうつ巨大な円筒形のネオンチューブ。赤、紫、青の毒々しい光波が、オイルの錆びた臭いが立ち込めるアスファルトを淫らに照らし出している。遥か高層には、幾重にもレイヤー化された無骨なコンクリートの高架道路が交差し、王宮のきらびやかな空とは違う、圧殺的な重圧が街全体にのしかかっていた。
クラクションの代わりに、不快な電子重低音のノイズが鼓膜を震わせる。これを無音にさせて、もっと改良しないとな──と、自分の作った街の改善点など探しながら歩く。
行き交うビークルには、どれもタイヤなんて原始的なパーツはついていない。ジャンクパーツをツギハギした歪な金属の巨体が、路面から数十センチ浮き上がり、底面から妖しいネオンブルーの反重力プラズマを激しく吹き出しながら、低空を滑るように疾走していく。横断歩道の白線を超えるたび、その排熱がオレの肌を不快に焼いた。
すれ違う有象無象のインフラ、ホログラムの汚れた広告。
いつもなら『いいパーツが転がってやがる』とデバッガーの目が光るはずの景色が、今はただ、ひどく煩わしいノイズにしか見えなかった。
(──あいつ、どこ行ったんだ……!)
記憶の前提をブチ壊され、セネカとの思い出もあやふやにされた状態で、あの華奢な身体がこの混沌のどこかに紛れてる。
ポケットの中で、伸縮可能のバールの冷たい感触だけが、妙に生々しくオレの右手に馴染んでいた。
戻ってくるのに迷うと困るからそう遠くにはいってないはず。いくら地下街を殲滅するために遣わされた特殊部隊の隊長でも、オレよりはここの地理に詳しくないはずだ。その直感を頼りにゆっくりと歩いていく。大通りの喧騒から一本外れ、オレは細い路地へと滑り込んだ。
そこは、サイバーパンクの狂気から切り離された、奇妙なほど静かな空間だった。頭上の高架がネオンの光を完全に遮り、古びたレンガと無骨な石壁に挟まれた狭い通路が奥へとまっすぐに伸びている。地下街の排気熱を吸い込んだ石畳を踏み締めながら、低いアーチ状の石のトンネルをくぐり抜ける。
トンネルの先は、すり鉢状になった小さな中庭のようになっていた。
荒々しい石壁に囲まれたその場所には、誰が手入れしているのか、いくつもの鉢植えから青々とした植物の葉が伸び、場違いなほど穏やかな空気を醸し出している。
──そして、そこに置かれた鮮やかな青い木製ベンチに、彼女はいた。
リンコは、膝を抱えるようにしてベンチの隅に小さくうずくまっていた。
いつも傲慢に輝いていた瞳は、今はただ行き場をなくして石畳を見つめている。
すると、そんなリンコの横に、野良猫が『にゃぁ』と鳴いてすり寄ってきた。それに気づいたリンコは、『あんたも居場所がないのね。よしよし』とつぶやいて頭を撫でる。
自分の信じていた過去が嘘だったと知り、そのせいで唯一の味方だった少女が消えかけている。その不条理な現実に押し潰されそうになりながら、リンコは野良猫をじっと見つめていた。
「……見つけたぞ、迷子」
オレはバールを握る右手の力を少しだけ緩め、静寂に包まれた中庭へと一歩を踏み出す。
「い──今の見てないでしょうね?」
「なにが?」
「わ、わたしがネコと戯れてるところ」
よく見ると、リンコは頬を紅潮させ、照れくさそうにしている。正直にいうと、また突っかかてきそうなので『見てないけど……』と適当に返事する。
怪しそうにジロジロ見てきたが、それを一蹴して
『今度こそ落ち着いたか?』と訊いた。
「だから言ってるでしょ……落ち着けるわけないって。けど、今はただネコが可愛かったから」
リンコのその表情を見ると、疲れ切って消耗しているだけで、落ち着いたわけではないのが伝わってくる。
「わからない……わからないのよ……。お父様に捨てられた記憶も、学校での記憶も全部偽物だった……! だったら、わたしがセネカに食料庫で肉をあげた記憶はなんなの? お風呂で体を洗ってあげたセネカの温もりはどこから来たの? どこまでが嘘で、どこからが本物なのよ……! わたしの心は、最初から全部あの父親に作られた偽物だったんじゃないの……?」
再び絶望と混乱で自我がバラバラになりかけているリンコ。その涙で濡れた顔を、オレは真っ直ぐに見つめた。
「落ち着け。お前の脳がバグを起こしているのは、過去を『一択』で決めつけようとしてるからだ。オレが住んでた世界の話で、『シュレーディンガーの猫』って有名な思考実験がある」
「なに……それ……?」
「箱の中に猫を入れ、50%の確率で毒ガスが出る装置を仕掛ける。箱を開けて『観測』するまで、中の猫は【生きている状態】と【死んでいる状態】が、量子力学的に重なり合っているっていう話だ。──今のお前の脳内は、まさにその『開けられる前の箱』なんだよ」
「はぁ!? 開けられる前の箱? その思考実験とセネカとどう関係があんのよ!」
「いいから聞け」
オレはリンコの顔をじいっと見つめ、あくまで真剣であることを態度で分かってもらおうとする。リンコは渋々ながらもオレの話を最後まで聞く姿勢になってくれた。
「お前の偽の親父は、お前の脳にインプラントを植え付け、偽の過去を重ね合わせた。だけど、お前がセネカと出会い、肉を食わせ、お風呂で髪を洗ってやったという『出来事の事実』、『結果』だけは、脳の最深部に絶対的なデータとして刻まれて消えなかった。だからシステムは辻褄を合わせるために、【偽の親父に育てられてセネカのもとに迷い込んだ過去】と【自分の意志でセネカを救いに行った過去】の、両方の可能性を箱の中に閉じ込めたんだ」
「りょ……両方の、可能性……?」
「そう。お前がセネカと過ごした本物の思い出は、偽物の過去のルートを通っても、本物の過去のルートを通っても、どちらのルートからでも必ずそこに辿り着く、確定した未来だったんだよ。お前がライラを失って泣いていた時も、セネカを救おうと戦っていた時も、たとえ本物の親父と過ごした日々があっても、セネカを愛したその手つきの優しさだけは、ずっと箱の中で100%本物として生き続けてた!」
オレは淡々と、リンコが納得するように説明を続けた。
「偽の親父の洗脳が解けた今、箱は開いた。重ね合わせは終わりだ。死んだ猫……偽物の記憶は消え去り、生きた猫……本物の記憶だけがここに残る。お前があいつと紡いだ思い出は、どこも嘘なんかじゃない。偽物の過去に毒されてなお、お前の『本心の愛』が勝ち残って確定させた、【世界で唯一の、観測された真実】だ。──自分を疑うな。お前があいつを救ったんだよ」
「……っ」
リンコがほっと安堵したその瞬間──
「──って、なんか格好つけてるけど。なんで、あんたがわたしの記憶を知ってるわけ?」
と、オレの胸ぐらを掴み、眼光を飛ばしてきた。元気になったのは良かったけど、まずい。インプラント剥がすときに、リンコの記憶を垣間見たことがバレてしまう。別に隠すつもりはなかったが、面倒くさいことになるのは容易に想像できる……っ!
「その……まあ……」
頬をぽりぽり搔きながら、
「バールで接続したときにちょっと見ちゃった」
ボコォオオオ──腹部にコブシが突き刺さる音がする。
オレはそのままリンコの拳によって、背後の石壁に吹っ飛ばされた。
「人の記憶見るとかヘンタイ! 犯罪者!」
「待てって──。別にお前のプライバシーに触れることは」
「そんなのあんたの尺度でしょ!! わたしにとってはプライバシーになることがあるかもしれないのに!? あり得ない!」
「けど、お前の命を救うときに、絶対入ってくる情報で……作為的にやったとかでは」
「だとしても! 黙ってりゃいいじゃん! デリカシーなっっっっ。これだから地下街のゴミ虫って言われんのよ!」
ぷるぷると震えながら、涙目で下唇を噛んでオレを恨めしそうに見る。故意じゃなかったとはいえ、確かに黙っておけばこうなることはなかった。本当に申し訳ない。
「……すまん」
「…………っ」
オレが謝ってからしばらくすると、リンコは居たたまれない様子で口をモゴモゴさせながら──
「わたしも命救われておいて、言い過ぎた……。あと、殴ったのもごめん……っ」
と、明らかに今までとは違う態度をオレに見せてきた。
「……っ」
「……っ」
互いになんか気まずくなってきたので、さっきの話へと強制的に戻す。
「お前の偽のインプラント記憶は結局ガワだけしか外せなかった。コアの部分にSSS級のプロテクトがかかってる。それが本物の記憶だ。オレにもまだどういうことか分からない」
「そっか。それは後々分かったらいいの。今はセネカが……」
「心配なのは分かる。でも、お前がその、セネカと過ごした事実をこころの底から認めたら半透明じゃなくなるかもしれない。ギルにも聞いてみる」
「あ、うん……。あんたの話聞いてたらそういうことだろうなって気はしてた……」
ひどく思い詰めない限り、セネカが消えるなんてことは恐らくないだろう。まだ安心できないかもしれないが、考えすぎたり思い詰めすぎたりするのもよくない。それに、アジトに戻る前にもう一つ、コイツに確認しておかなければならないことがある。
「お前の記憶の中で大切にしていた私物なんかがあったら教えてくれ。それが今ココにあるかないかで、何か手がかりが掴めるかもしれない」
リンコはハッとした表情で、カバンからクリスタルを取り出し──
それを両手でぎゅっと握りしめ、ポロポロと急に涙を流し始めた──。
「おい。どうした?」
「──よかった……ライラ……」
よく見るとクリスタルには『都市伝説』という文字が彫られている。
なるほど……。
オレがそう思うのも束の間、リンコは急いで涙をぬぐい、別に今まで泣いていませんでしたけど? 何か? という冷徹な表情に戻る。いや、もう遅いけどと思いながら
「大切なシスターからもらったやつなのか?」
「ええ」
と、淡白な会話のラリーを行った。
「他には?」
「これ──」
次に見せてきたのは、懐中時計だった。古びた懐中時計で多分動かない。これも誰かにもらったやつなのだろうか?
「これも誰か大切な人に?」
「いや、これは覚えてないの。ずっと持ってて、なんで動かなくなったモノいつまでも持っているんだろうなって」
「不思議だな。覚えてないのに、インプラントを剥がしたあとにも残ってるのは」
「不思議……なのかな……。だって、逆に消えたもの何かあるかなって考えたらあまり思い当たらないし……また、あんたのアジトに戻ったらわたしの荷物置いてあるし探してみる」
「ああ、頼む。手がかりは多い方がいいからな」
そろそろ行くか──と言って、リンコと一緒に歩き出す。アジトにとりあえず戻って、セネカのようすがどうなってるか見たいしな。




