第二十九話『シュレディンガーの猫』
オレはさっき、リンコの偽のインプラント記憶を剥がした時に、リンコの今まで見てきた過去が大まかに分かった。もちろんプライバシーに触れるような内容にはプロテクトがかかっているので、その全貌を知ることはできないようになっている。
大切なシスターがいたこと、キメラ『セネカ』との日々、学校での記憶、特殊部隊の総司令官になった経緯。だが、どうしても分からなかったのは、コイツが王宮の図書室で『何を』見たのかという空白の歴史だった。都市伝説が好きなオレでもどんなことがあったのかは、皆目見当もつかない。
アジトの蛍光灯がジィィというノイズを鳴らす。冷却ダクトの冷気が少し寒くなってきたから設定温度を上げる。アジトにはオイルの独特な匂いと二人の少女の香水の匂いが混ざり合って異様な空気感を漂わせていた。
リンコはパニックを起こしていたが、オレが『絶対大丈夫だから』と落ち着かせ、ギルには大まかな事情を説明した。
とりあえず、冷たい麦茶をみんなに出す。そんな呑気でいいのか──? と一瞬思ったが、こういう時ほど取り乱すのはよくないということをオレは知っている。
「落ち着いたか?」
「落ち着けるわけないでしょ! バカ」
「まあそうだよな。オレがなんとかする」
「…………っ」
セネカは麦茶を飲もうとしてグラスを掴もうとするが、すり抜けてしまい『リンコ様~掴めません!』と、涙目で訴えている。このセネカって子は、案外大丈夫そうだな。自分が消えかかっているのに、いつもと同じような喋りぶりだ。
「セネカ。お前は大丈夫なのか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。もともと奴隷でいつ死んでもおかしくない環境で育ったから。大抵のことには動揺しないっていうか……。あ! でもリンコ様に何かあったら死ぬ! マジで死ぬ!」
と、余裕そうだった。マジでなんなんだ。調子狂う……。
ギルはというと、この状況を無言で観察しながら、ソファーでタバコを吸っていた。
「わたしが……セネカと出会ったのは……どこまでが嘘で……。ライラとの記憶も……」
青ざめた顔で、リンコは何度も何度も自問自答している。
「リンコ様──。大丈夫ですか!?!? わたしがそばに!」
セネカがそう言ってリンコに近づこうとする。
が──
「待て」
と、オレはセネカの腕掴もうとする。
半透明なので掴めないが──
「触んな! ゴミ虫!」
「話を聞け」
オレが神妙な面持ちでそう言うと、セネカは状況を把握したのか、
「で、にゃに? リンコ様とわたしの時間を奪う理由は? 正当な理由じゃないと怒るよ?」
「お前がリンコのことを大切に思うのは分かるが、今のリンコには逆効果なこともあるってことだ」
オレがそう言うと、リンコは椅子から立ち上がる。
「ごめん……セネカ……。一人にして……」
そう言ってアジトから出ていくと、セネカは『ぐっ──』と悔しそうな顔で眉間にしわを寄せて、その去っていく背中を見つめていた。
まあ、パニックにもなるわな。仕方がない。
今のふたりが密接に関わってしまうと、リンコがパニックを起こしてセネカの存在証明があやふやになる。最悪の場合、この宇宙に、初めからセネカという存在はありませんでしたってことにもなりかねない。
今まで友達と思っていた存在が、不確実な存在になるんだ。もしかしたら、自分の頭の中で作り上げたものかもしれないとか、変な方向に思い詰めそうだし。あいつは。
まあでも──
それは違うんだよ。リンコ。
これはまあ、差し詰め、物理学でいうと、シュレディンガーの猫ってとこだな。




