第二十一話『お父様』
どれくらい歩いただろうか。そう考えてしまうほど広い王宮内で、ウィリアムは『ここでございます。リンコ様』と、大きな扉に向かって手のひらを向ける。
その瞬間──わたしの心臓が張り裂けそうになった。なんで元々住んでいた王宮なのに、『住む世界が違う』と思ってしまうのだろう? なんで父親と久しぶりの再会なのに、こんなに分厚い壁があるのだろう? なんでわたしは今ここにいるんだろう? とんでもない自己嫌悪と、今すぐにこの王宮から出たいという気持ちが沸いてきてしまった。頭の先からつま先まで、わたしはここに居て良い人間ではないと思ってしまう。
「リンコ様」
すると、わたしの肩をポンと優しく叩く感触。
「あまり肩肘をはらず、気楽にしてください。リンコ様──。メストル様は、あれからお変わりになられました」
変わった? どういうことだろう?
「どういう意味?」
「お会いすれば分かります。わたしから余計なことを言うのも憚られますので」
もう後には戻れない。早くなった心臓の鼓動を抑えるために、大きく深呼吸する。頭の中を空っぽに、まっさらな気持ちで。今までのことはなかったことにしよう。そう自分に何度も言い聞かす。
わたしはどうにでもなれ──という思いで、その大きな扉のドアノブに手をかける。ギィィというきしむ音、最後にバタンッと音を響かせ、その扉は完全に開いた。
扉の向こうは、それまでの絢爛豪華な大広間とは全く異なる、異様な静寂と光に満ちていた。
広大な部屋の床は、鏡面のように磨き上げられた大理石。一歩踏み出すたびに、頭上の景色が上下反転して足元に映り込み、まるで底なしの黄金の深淵の上を歩いているかのような錯覚を覚えさせる。
高い窓からは、暴力的なまでの強烈な光の筋がいくつも差し込んでいた。その光の明暗の中で、空気中に漂う無数のきらびやかな塵──錬金術によって精錬されたオリハルコンの微粒子が、意志を持つかのように妖しく舞い踊っている。部屋全体が目も眩むような黄金の輝きに包まれているにもかかわらず、肌を刺す空気は、氷のように冷え切っていた。
そして、その光の焦点、部屋の最奥に鎮座しているのが──『玉座』だ。
燃え盛る炎を象ったかのような、禍々しくも美しい黄金の彫刻。その中心には、乾いた血の色を思わせる、重厚な深紅色のクッションが据えられている。窓からの強烈な逆光のせいで、玉座の周辺は巨大な影の輪郭となって浮かび上がり、近づく者を拒絶するような圧倒的な絶対権力の威圧感を放っていた。
わたしの背後にいるウィリアムは『では』といって、部屋から退出する。
そして、その陰の輪郭が、わたしにある言葉を投げかけてきた。
「今までのことはすまなかった。リンコ」
その声は記憶の断片にあった、父メストルの声と一致していた──
徐々にその陰の輪郭が浮かび上がり、わたしの記憶の断片にあった父親が再構築されていく。そこには十年分の月日を経て、少し年老いた、しかしあの時のままの表情で鎮座する紛れもない『父親』の姿があった。
「お……とう……さま……」
一度も呼んでくれたことのない名前。わたしの名前。
「リンコ。これまでわたしがしてきたこと。最後にお前にしたこと。一生をかけても償い切れないと思っている」
やめて。そんな。
「かつてわたしはこう言った。格付を上げ、王宮に貢献することが人間の価値だ。それ以外の人間には価値はないと。だがリンコ。お前には価値があった。初めから価値のある大切な娘だ。わたしはそれに気づくのに十年も費やしてしまった」
嫌な奴でいてくれた方が──
「あれから大変だったろう。特殊部隊の入隊を特待生で合格したそうだな。よく頑張った。さすがはわたしの娘だ」
その方が──まだ良かったかもしれない。わたしを捨てて十年、どういう神経をしていたら、そんな虫の良いことが言えるのだろう。わたしはこの目の前の状況に、何か裏があるのかと疑ってしまう。だがそれとは裏腹に父は立ち上がり、わたしに近づくこともせず、玉座の前で、
──頭を下げた。
「許してもらえるとは思っていない。都合がいいとも思うだろう。しかし──、リンコ」
「…………っ」
「今の特殊部隊でお前をすぐ『総司令官』にしてやることなら償いとしてまず出来る。今のわたしが父親としてできる精一杯の償いだ。地下街の暴徒をわたしたちと一緒に、その手で始末してくれないか?」
「お父様、なぜ?」
「五年前──お前の孤児院に勤めているシスターライラが地下街の暴徒によって殺された。わたしは胸の痛い思いをしたよ。その時あたりだ。わたしが、お前の母──妻を失ったのは」
「お母様が!?!?」
「病で床に臥して、そのまま逝ってしまった。そばにいる人を失ったときに、はじめて人間の価値が分かった。格付を上げ、王宮に貢献することが人間の価値だと思っていたわたしは間違っていた」
父は再び深く頭を下げ
「すまなかった──」とわたしに、震える声で言った。
わたしはそれでも許せないという気持ちに支配された。当初ここにきた理由は、嫌な奴のままで、あの時のままの父を見返して一泡吹かせてやろうと思っていたからだ。そしてまた、嫌な人間として、わたしの目の前に立ちはだかり、わたしの向上心を掻き立ててほしかった。こんな望んでもいない謝罪をされると拍子抜けしてしまう。ここに来るまで、わたしは自分の気持ちがまるで分かっていなかった。目の前で謝罪されると、その本当の思いが浮き彫りになっていく。
「お父様。正直あなたのやったことは許せません」
なぜこんな奴に敬語を使っているのだろう? なぜ『様』などと尊敬しているように話すのだろう。しかし──、わたしは生まれ持った王家の血筋で、自動的に、機械的に、王家の娘として振舞ってしまう。
「ああ。その通りだ。許せなくて当然だ」
「……っ」
もう何も話せない。くだらない薄っぺらい血だけ繋がった親子の会話。十年も月日を経た現実感のない謝罪。わたしはこんな状況を捨てて、一刻も早くセネカに会いたかった。だけど──
コイツのことが嫌いでも、ライラの死の真相を知るために特殊部隊の総司令官になる条件は、かなり魅力的に思えた。
だがその条件は……。
「特殊部隊の総司令官として、王宮に帰ってきてほしい」
「!?!?!?」
「父親としてわたしを見ることができないのは重々承知だ。だが、ここには生活の保障がある。孤児院で過ごすよりも遥かに高い配給で、毎月のデジタルポイントで苦も無く生活できるだろう」
どこまで王族の人間は都合が良すぎるのだろう。『お金』という甘い蜜で、人の心の弱みに付け込む、あまりにもスムーズに。
これがもしも何か裏があるなら……。
「今までのわたしがあまりにも酷かったから、疑念を抱くのも無理はない」
だけど、ライラの死の真相を知るための近道になるということ、これから毎月、デジタルポイントを気にせず生活できること。それでもうわたしの心は揺らぎ、一つの答えに収束した。
「分かりました。王宮へ帰って、総司令官になります」
「ああ、ありがとう」




