第8話:東京の空の下、冷たい棺
#サイコスリラー #都市伝説 #ネットストーキング #大学の闇 #復讐劇 #国際陰謀 #泣けるホラー #サスペンス
1月の夜は、あまりにも冷酷だった。私は正面を避け、非常経路を選んだ。暗闇の中に物言わぬ棺桶のように佇む黒いワゴン車の脇を抜け、外階段へと忍び寄る。激しさを増す雨と、吹き荒れる1月の夜風の中、その車の影は巨大な墓標のように見えた。
私は錆びついた鉄製の非常階段を登り始めた。雨のせいで足をかける踏み板は酷く滑る。凍りついた手で鉄の欄干を掴むたび、芯まで刺すような冷気が骨に染みた。厚手の冬物コートの内側に隠したボルトカッターの重みが、一歩進むごとに私の残された体力を削り取る肉体的な拷問のように感じられた。
ようやく屋上に足を踏み入れたとき、そこは完全な暗闇だった。私はスマートフォンのライトを点け、雨から守るように手のひらで覆った。光の束が、巨大な貯水タンクの蓋を厳重に縛り付けている太い鎖を照らし出す。そこには、新しく取り付けられた真鍮の南京錠が生々しく濡れて光っていた。
私はコートの裏から、赤い柄のボルトカッターを引き抜いた。手が激しく震えている――それは2度という極限の寒さのせいだけではなく、昼間に組み立てた己の仮説が「正解」であることへの、圧倒的な恐怖のせいだった。刃を南京錠の根元に噛み合わせる。残された全ての力と体重をかけ、私はその柄を全力で押し込んだ。
――ガキンッ!
金属が破断し、コンクリートの床に落ちた高い音が不気味に響き渡った。その音はキミ旅館の木壁の間でこだまし、激しい雨音に吸い込まれて消えた。それは、私の人生における最後の希望が完全に打ち砕かれた合図のようだった。
制御の利かない手で、私は貯水タンクの蓋をゆっくりとずらした。その瞬間、昼間の悍ましい推測を肯定するように、鉄の生臭さと血の混じった温かい湯気が一気に噴き出し、私の顔を打った。冷徹な夜気とはあまりにも対照的な温風。
私はライトの光をタンクの奥へと向けた。光は、赤黒く濁った水の中を透過していく。
そこには、一つの遺体が浮いていた。
長い黒髪が水の動きに合わせてゆらゆらと揺れ、その青白い顔の半分を覆い隠している。しかし、私の精神の全ての防壁を一瞬にして崩壊させたのは、その身体に纏われた「緑と茶色」のガジャ・マダ大学(UGM)のアルママテル(大学の制服ジャケット)だった。ジョグジャカルタで二人で共に学んだ、あの誇り高き制服が、今は妹の血が混ざった水に無残に濡れそぼっている。解剖学を熱心に学んでいた医学生のエミ。今、彼女の身体そのものが、冷たく硬直した「検体」と化していた。低酸素と低体温症によって、彼女の小さな指先は青白く変色し、爪は白く染まっていた。
私は、濡れた冷たいコンクリートの床に崩れ落ちた。貯水タンクの縁を掴み、物言わぬ妹の顔を見つめる。池袋の夜風の咆哮に混ざり、私の嗚咽が、悲鳴が、ついに決壊した。私は現実を拒絶した。冷たい鉄の壁に触れ、掠れた、壊れた声で、私の母国語(インドネシア語)を叫び続けた。
「エミ……起きてよ。そこ、すごく寒いよ。大学のジャケット、こんなに濡れちゃって。風邪引いちゃうよ、エミ。今日は二人で池袋のタコ焼きを食べに行くって言ったじゃないか……。出ておいで、お兄ちゃんが背負ってあげるから……」
圧倒的な罪悪感が、胸を抉る。
「ごめん、エミ……お兄ちゃんがバカだった。夕べ、私は下で何も知らずにぐっすり眠っていたんだ。お前はここで、たった一人で、寒さに震えながら私を呼んでいたのに……。なぜお前の声が聞こえなかったんだ? なぜ私は眠っていたんだ!?」
インドネシアの空港で見送ってくれた、父と母の顔が鮮明に脳裏を過った。
『エド、日本でエミをしっかり頼んだぞ。あの子は我が家の将来の医者、家族の希望なんだから』
私は狂ったように自分の胸を叩いた。私は世界で最も無能な兄だ。妹が同じ建物の中で、生きたまま7時間も監禁されていたというのに、私は404号室でのんきに眠っていたのだ。
「これから……ジョグジャに帰ったら、私は空港で父さんと母さんに何て言えばいいんだ? ちゃんと無事に連れて帰るって約束したのに。優秀な未来のドクターの旅行に付き添うって言ったのに……なのに、私は一人で帰るのか? エミ、私はどうすればいいんだ……?」
水面を漂うアルママテルの胸元、UGMのロゴマークがライトに照らされた瞬間、周囲の時間と思考が完全に停止した。東京の嵐の音が消え去り、脳内にあの日差しが強い、温かいUGMのキャンパスの食堂の喧騒が蘇る。
あのジョグジャカルタの午後。エミが新しいアルママテルを誇らしげに掲げ、私がこれまでに見た中で最も輝かしい笑顔で走ってきた。
『兄さん! 見て、私本当にUGMの医学部に合格したよ! また同じ大学に通えるね!』
キャンパスの木陰で二人で座り、それぞれの学業の忙しさを笑い合った。私には文学研究、彼女には膨大な人体解剖の暗記。親元を離れた寄留先で、私たちは互いにとっての「世界」そのものだった。何か問題が起きるたび、エミはいつも言っていた。
『大丈夫だよ。だって私には、世界一頭のいい、私を守ってくれるお兄ちゃんがいるんだから』
――世界一頭のいい、私を守ってくれるお兄ちゃん。
その温かい記憶は、私の瞼に落ちた極冷の雨粒によって無残に引き裂かれた。
残酷な現実が私を現世へと引き戻す。キミ旅館の屋上。そこにはジョグジャカルタの太陽も、エミの笑い声もない。あるのは、貯水タンクに横たわる、冷たく固まった妹の骸だけ。
私は、自分の「役割」が永遠に失われたことを理解した。昨日まで私は「兄」だったが、今日から私は何者でもない。私たちの家族の輪は、ここで完全に断ち切られたのだ。
「お前は、私の一ったった一人の妹なんだ……。世界で、お前だけだったのに。これから、私は誰と生きていけばいいんだ……?」
私は自分の頭を掻きむしり、貯水タンクの壁に小さく打ち付けた。溢れ出る涙は頬の上で温かかったが、1月の東京の冷酷な夜風に吹かれ、一瞬にして冷めていった。
東京の空は、ただ激しく雨を降らせ、ジョグジャカルタから来た若き未来の医師の悲劇的な死を、共に悼むかのように泣き続けていた。
最も残酷な真実が、ついに暴かれました。家族の宝であり、未来の医師であったエミは、血に染まった大学の制服を纏ったまま、貯水タンクの中で変わり果てた姿で見つかりました。深い絶望と悔恨は、エドの精神を決定的に変えてしまいます。
エドの心に宿ったのは、氷のように冷たい復讐の炎。次回、警察が介入する中、エドはエミが死の直前に遺した「最後のメッセージ」に気づくことになります。それは、彼女が監視カメラのレンズの向こうに仕込んだ、兄にしか解けない秘密の暗号でした。
次回、第9話「レンズの裏に潜む暗号」に続きます。
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