第15話:ジャワの地に迫る黎明の罠
#サイコスリラー #都市伝説 #ネットストーキング #大学の闇 #復讐劇 #国際陰謀 #泣けるホラー #サスペンス
肉体を切り裂く激痛など、今の私にはどうでもよかった。無菌室の照明が不気味に瞬き、タブレット画面に血塗られたガジャ・マダ大学(UGM)の紋章が浮かび上がった刹那、私の探偵としての本能が致命的な危機を告げていた。怒りと恐怖で激しく震える手で、私は顔から酸素マスクを乱暴に引き剥がした。躊躇うことなく、右腕に刺さっていた点滴の針と輸血の管を力任せに引き抜く。
――プシャッ!
私の身体から溢れ出た鮮血が飛び散り、清潔な白いベッドシーツを赤く汚した。傍らにいた駐日インドネシア共和国大使館の参事官が顔色を変え、制止しようと手を伸ばしたが、私の眼差しに宿る凄まじい殺意に圧されてその動きを止めた。
「衛星電話を貸せ! 今すぐだ!」
掠れた声で叫ぶ。その呼気が、骨折した肋骨に耐え難い激痛を走らせた。
ヨグヤカルタの現地時間は今、午前三時。通常の官僚的な手続きで現地の警察に連絡していては、全てが手遅れになる。私は独自のルートを動かすしかなかった。私は参事官からひったくった衛星電話を操作し、かつて私と共にサイバーセキュリティの研究を行っていた、UGM情報技術学科のラボへと直接国際電話を掛けた。そこには、夜通し研究で居残っている仲間がいるはずだった。
『エド?! 東京で一体何があったんだ? 今ニュースでエミちゃんの――』
「四の五の言わずに私の話を聞け!」私は息を切らしながら言葉を遮った。「東京のサークルが、ジョグジャに暗殺命令(執行コード)を送信した。今すぐ、スレマンにある私の実家のスマート新ルーターに外部から強制介入してくれ!」
息の詰まるような十分間が経過した。衛星電話のスピーカーの向こうから、ヨグヤカルタの友人が悲鳴のような声を上げた。
『エド! 異常がある! 君の実家の防犯カメラシステムが、東京の病院の照明が消えたのと完全に同じ時刻にフリーズ(同期停止)してる! 誰かが外部のフェンスから、物理的な通信回線を切断したんだ!』
心臓が凍りついた。――『死者のスイッチ(デッドマンズスイッチ)』のトリックだ。東京のサークルの首領が警察に拘束され、本部のメインサーバーが機能を停止した瞬間、この特殊なプログラムが作動し、最後の報復としてヨグヤカルタの「眠れる工作員」へ自動的に暗殺指令を送信したのだ。
通信を絶たれた実家に対し、情報技術学科の仲間たちは即座に行動を起こした。彼らは数台のバイクに跨り、ジャワ島・メラピ山の麓に位置するスレマンの、深い霧が立ち込める極冷の未明の空気を切り裂いて疾走した。
東京の病室のベッドの上で、私は耳に押し当てた衛星電話だけを頼りに、五千キロの彼方の動向を聴取していた。東京には静寂の吹雪があるが、スピーカーの向こうからは、それとはあまりにも対照的なジャワの土着的なアトモスフィアが漏れ聞こえていた。激しく吹かされるバイクの排気音、スレマンのバナナの茂みに潜伏する友人の荒い呼吸音、雨季特有の湿った土の匂い、そして――夜明け前に周囲のモスク(回教寺院)のスピーカーから静かに流れ出す、厳かな読経の声。このジャワの神聖な空気の中に、現代の冷酷なテロリズムの緊張感が混ざり合っていた。
『エド! お母さんの部屋の側面の窓ガラスが、今こじ開けられた! ナンバープレートの無い黒い車から降りてきた黒いジャケットの男二人組が、家の中に侵入した!』友人が完全にパニックに陥った声で囁く。奴らは、偽装心不全を引き起こす医療用の液体毒物を入れた、小さな医療バッグを手にしているはずだった。
「扉をぶち破れ! 叫べ! 今すぐ近隣の住民全員を叩き起こすんだ!」
私は血管から血を流し続けながら、ヒステリックに怒鳴り散らした。
その刹那、東京の無菌室の扉が外から激しく押し開けられた。私の心電図モニターの異常アラームを聞きつけた、三人の日本人医師と四人の看護師が血相を変えて突入してきたのだ。
「エドさん! 動かないでください!」
年配の日本人医師が叫び、ベッドの上で激しく暴れる私の身体を押さえつける。二人の看護師が、強力な緊急用鎮静剤を満たした注射器を素早く準備した。
私は彼らを完全に無視した。私の意識は、五千キロの彼方から聞こえる音声だけにロックされていた。
ヨグヤカルタの東の地平線から、微かな黎明の光が差し始める。電話の向こうから、騒がしい足音、侵入者に襲いかかるUGMの学生たちの怒号、続いて鈍器による打撃音と、粉々に砕け散る花瓶の破壊音が響いた。何者かが、実家の台所の床にねじ伏せられたのだ。
『エド! 仲間たちが犯人を捕まえたぞ! 一人は逃げたが、一人は完全に拘束した! ……おい、信じられない。マスクを剥ぎ取ったら……この裏切り者、俺たちの大学の、身内の人間だ! 奴は、あの学科の教授――』
――チクッ。
東京の医師の手によって、高濃度の鎮静剤の針が私の首筋へと突き立てられた。強力な薬液が、一瞬にして私の中心神経系へと送り込まれる。
「待て……誰、だ……」
私は掠れた声を絞り出そうとしたが、視界が急速に揺らぎ始めた。
右腕の全ての筋力が霧散していく。衛星電話が手からこぼれ落ち、病院の床に激しい音を立てて激突した。衝撃でバッテリーパックが外へ弾き飛び、ヨグヤカルタとの国際回線は完全に遮断された。
私の周囲の世界が、ゆっくりと、しかし確実に深い暗黒へと収束していく。その強力な鎮静剤は、身内の裏切り者の名前が受話器の向こうから発せられるまさにその一秒前に、私の意識を強制的に剥奪した。
私は冷たい闇の底へと墜ちていった。実際の両親が、あの液体毒物から無事に救われたのかも分からぬまま。そして、自分の最愛の妹であるエミを、東京の人間狩りサークルへと引き渡した、あのキャンパスに潜む悪魔のような教授の正体を知ることもできないまま――。
五千キロの距離を超えた決死のサイバー・防衛戦は、ヨグヤカルタの実家で一人の暗殺者を拘束するという劇的な展開を迎えました。しかしエドは、東京の病院で強力な鎮静剤を打たれ、最も重要な局面で意識を失ってしまいます。受話器が砕け散ると同時に、黒幕である「大学の教授」の名は闇に葬られました。
夜明け前、実家の両親はあの医療毒物から本当に救われたのか? そして、東京の猟奇組織と繋がり、未来の医師であったエミを贄に捧げた、キャンパス内の狂った教授の正体とは。
物語はここから、ジャワの地に眠る利権と、学術界の仮面を被った黒幕を暴く、第二章「ヨグヤカルタ編」へと本格突入します!
次回、第16話「教壇の上の裏切り者」に続きます。
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