第11話:鴬張りの廊下の足音
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――キュッ、キュッ、キュッ……。
全館消灯した制御室の圧倒的な暗黒の中で、その音は酷く鮮明に響いた。古いキミ旅館の床板を踏み締める、殺人鬼の革ブーツの緩慢な足音。京都の古い寺院では芸術的で風流とされる『鴬張り(うぐいすばり)』の軋み音が、この池袋の真夜中においては、正確なリズムを刻む死の秒読み(カウントダウン)へと変貌していた。
何も見えない。視界は完全な無だ。私は敢えて目を閉じ、視覚を完全に遮断して、全神経を聴覚へと集中させた。脳内の地図で廊下の長さを逆算し、心の中で歩数を刻む。
――あと十五歩……あと十二歩……奴が、近づいてくる。
外の初雪のせいで、室内の気温は氷点下へと急降下していた。ここで、最悪の障害が私を襲う。息を吐き出すたびに、凍てつく空気によって真っ白で濃い水蒸気が口から溢れてしまうのだ。殺人鬼が持つ小さな懐中電灯の細い光束が、木製の引き戸(障子)の隙間を舐めるように照らし始めている。もし不注意に息を吐けば、その白い湯気が戸の隙間から這い出し、私の位置を一瞬で露呈させるだろう。
私は即座に、凍りついた己の手のひらで口と鼻を強く塞いだ。酸素の欠乏で胸が焼け付くように苦しいが、空気の循環を極限まで細く、静かに制御する。この白い息を、外の光から完全に消し去らなければならない。
受動的に隠れ続けるだけでは限界がある。私は自分の頭脳を使い、状況を反転させなければならない。コートのポケットの中で、先ほど脅迫文を受信したスマートフォン。これが今の私に残された最高の武器だった。
極限の静けさの中で、私はスマホのタイマーアラームを十秒後にセットした。そして、部屋の隅にある古い書類段ボールの隙間にそれを滑り込ませる。ディスプレイの画面を敢えて壁側に向け、光が段ボールの裏で微かに反射するように調整した。まるで、誰かがそこにうずくまって怯えているかのような視覚的錯覚を作り出すために。
その後、私は靴を脱ぎ捨てた。音が鳴らない床板の隙間を狙い、裸足で音もなく這い進み、少しだけ開いた引き戸の影へと身を潜める。震える両手で、先ほど工具棚から盗み出した、重厚な鉄製のボルトカッターの柄を強く握り締めた。これが、私の最後の防衛線だ。
――キュッ。
鴬張りの足音が、扉の真ん前で突如として途絶えた。息詰まるような沈黙が、再び夜を支配する。
――シャーッ……。
真鍮の取っ手が静かに回り、引き戸がゆっくりと開け放たれた。殺人鬼のライトの光束が暗黒を突き刺し、室内を走索して、即座に部屋の隅の段ボールへと固定された。その刹那、私のスマホのアラームが鳴り響き、激しく振動しながら段ボールの隙間から微かな光を放った。
殺人鬼は騙された。奴は部屋へと足を踏み入れ、扉の影に潜む私の前を通り過ぎ、完全に背を向けて音の鳴る段ボールへと近づいていく。
私は殺すために動いたのではない。私は文学の博士課程の学生であり、屠殺者ではない。しかし、己の生存のため、そしてエミの無念を晴らすため、私は残された全筋力と体重を乗せ、その重いボルトカッターを力任せに振り下ろした。狙いは、殺人鬼の背後の足首の関節。
――グシャッ!
暗黒の中で、乾燥した骨の砕ける鈍い音が響き渡り、それと同時に、床板に膝をついた捕食者の口から抑え込まれた絶叫が漏れ出た。
エドはスマホの光の錯覚と伝統建築の知識を駆使し、暗黒の制御室で見事に殺人鬼の動きを封じることに成功しました。ボルトカッターの一撃は、捕食者の足を確実に砕きました。
しかし、エドの脱出劇はまだ終わりません。宿の出口は、他の従業員たちの手によって外から完全に施錠されていたのです。次回、殺人鬼の仮面の裏に隠された、東京の凄惨な「人間狩りサークル」の全貌が明かされます。
狂った宿の従業員の正体とは? エドは閉ざされた宿の中でいかにして知略を巡らせ、彼らの自白を記録して生き延びるのか。
物語はついに運命の決戦、第12話「狩人の巣窟と、血の告白録」に続きます。
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