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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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面影


 テンが視線を向けた先。


 船尾デッキへ続く通路から、一人の少女が姿を現した。


 周囲の視線を気にすることなく、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。


「あの子は誰?」


 ナギが小さく首を傾げた。


 見覚えのない少女へ、その場の視線が自然と集まる。


 それでも少女は足を止めない。


 何かを大事そうに握り締めたまま、テンの前まで歩み寄る。


 テンは少女を見つめた。


「凛。」


 凛は小さく頷く。


「慌ててどうした。」


「摩夜の代わりに来たのか。」


 その一言に、その場の空気がわずかに揺れる。


 ナツの視線が凛の右手へ落ちた。


「……なるほど。」


「摩夜から招待券を借りてきたみたいだな。」


 皆の視線が凛の手元へ集まる。


 そこには、一枚の招待券が握られていた。


「……摩夜にしては、思い切ったことをしたな。」


 誰かがぽつりと漏らす。


 凛は何も答えない。


 ただ、招待券を握り締めたまま、テンを真っ直ぐ見つめていた。


 凛は小さく口を開く。


「お姉ちゃんの名前……『鳳 菫』って言うんだって。」


「教えてくれる? お姉ちゃんのこと。」


 その名が船尾デッキへ落ちた瞬間。


 水を打ったような静寂が広がった。


 誰も口を開かない。


 ナミが何かを言おうと身を乗り出す。


 だが、その肩へそっとナギの手が置かれた。


 小さく首を横へ振る。


 ナミは唇を結び、そのまま俯いた。


 テンは静かに凛を見つめる。


「やっぱり……菫と関わりがあったんだな。」


 一拍置く。


「菫は……名前と共に消えてしまったよ。」


 その言葉に、船尾デッキの空気はさらに重く沈んだ。


 凛は周囲を見渡し、不安そうにテンを見上げる。


「私……。」


「聞いちゃいけないこと、聞いたかな。」


「もう、お姉ちゃんには会えないんだね。」


 テンは小さく首を横へ振った。


「そんなことない。」


「皆……俺と菫が恋人同士だったことを知ってる。」


「だから、黙っちゃうんだ。」


 テンは小さく微笑んだ。


「ゴメンな。」


 一拍置く。


「それと……。」


「菫には会えない。」


 凛は小さく頷く。


「そうだったんだね。」


「だから、お姉ちゃんはテンのところに……。」


 言葉はそこで途切れた。


 凛は一歩下がる。


「私、もう戻るね。」


「お姉ちゃんが待ってるから。」


 テンは静かに頷く。


「そうか。」


 一拍置く。


「時間があるなら、少し一緒に過ごしていかないか。」


 凛は小さく首を横へ振る。


 踵を返す。


 船尾デッキへ続く通路へ向かって歩き出した。


「……空気、悪くしてゴメンなさい。」


 誰も声を掛けない。


 それぞれの思いを胸に、凛の後ろ姿を見送っていた。


 やがて、その姿が通路の向こうへ消える。


 テンが口を開きかける。


「────」


「ナギ、ナミ。」


 ナツが静かに二人を呼んだ。


 双子が同時に振り向く。


「凛を頼めるか。」


 ナギは静かに頷いた。


 ナミは一瞬だけテンへ視線を向ける。


 何も言わず、小さく息を吐く。


「……行こ。」


 ナギが短く促す。


 ナミも黙って頷き、二人は凛の後を追うように通路へ歩き出した。


 二人の姿が通路の向こうへ消える。


 静寂の中。


 テンはゆっくりと立ち上がった。


「……ゴメン。」


 静かに頭を下げる。


 誰も言葉を返さない。


 そのまま卓の間を歩き始める。


「折角の場なのに。」


「辛気臭くなったよな。」


 ゆっくりと歩き続ける。


 やがて卓の間を抜けると足を止め、振り返った。


「ブラックマスクを片付けてきます。」


 そう言い残し、そのまま船尾デッキを後にした。


 姿が見えなくなる。


 一拍。


 ナツが静かに立ち上がる。


「湊、八雲。」


 歩きながら声を掛ける。


「ブラックマスク、下で受け取れ。」


 八雲が顔をしかめた。


「なんで俺達だけなんだよ。」


 ナツは振り返らない。


「お前達以外に手伝わせる気か。」


 その言葉に、八雲へ視線が集まる。


 誰も何も言わない。


 数人が小さく笑った。


 八雲は観念したように肩を落とす。


「……わかったよ。」


 湊は手をひらりと振る。


「その時は声をかけて。」


 ナツは短く手を挙げ、そのままテンの後を追った。




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