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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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余韻


 最後の一音が消える。


 テンは静かに鍵盤から手を離した。


 鍵盤蓋へ手を添える。


 ゆっくりと閉じた。


 テンは周囲へ目を向ける。


 映像を見つめたままの者。


 自分へ視線を向ける者。


 ナツは映像を見つめたまま口を開く。


「やはりピアノは飾りではなかったんだな」


 榊は腕を組み、小さく頷く。


「……なるほど」


「あのピアノだから成立した仕掛けか」


 テンは小さく肩を竦める。


「半分正解」


 榊は眉をひそめた。


「半分?」


「あのピアノは自動演奏が出来る」


 テンは映像を見つめたまま続ける。


「それに内蔵スピーカーもある」


「俺が弾いた音は、そのスピーカーから流しただけ」


 榊は静かに息を吐く。


「だから会場の演奏へ重なったのか」


「そう」


 テンは短く答えた。


「俺がやったのは音を重ねただけ」


「演奏そのものを変えた訳じゃない」


 しばらく沈黙が流れる。


 誰もモニターから目を離さない。


「……だから成立したのか」


 榊は映像を見つめたまま呟く。


 テンは小さく笑う。


「最後まで弾き切ったからなせた業だね」


 映像の中では、恩師へ向けられた拍手がなおも広がっていた。


 短い沈黙が流れる。


 やがて、ナツが静かに口を開いた。


「……なら、何故だ」


「何故、お前はあの人を助けた」


 テンはしばらく答えなかった。


 映像を見つめたまま、小さく息を吐く。


「俺への心証が悪いと、皆が何かと困ると思ってな」


 その言葉に、全員の視線がテンへ向く。


「頼りたい時に、頼りづらくなるだろう」


 誰も口を開かない。


 船尾デッキは静まり返っていた。


 その時だった。


「ゴメン……遅くなった。皆待たせたよな」


 息を切らせた八雲が船尾デッキへ姿を現す。


「まだ姿が見えないけど、千────」


 テンだけが八雲へ視線を向ける。


「八雲」


 言葉を遮るようにテンが口を開く。


「ブラックマスクの重りを外して、そのまま幕を閉じてもらえるかな」


「あぁ、わかった」


 八雲は頷くと、手摺から吊るされたブラックマスクの重りを外す。


 ゆっくりと幕が閉じ始めた。


 それを見た湊も無言でプロジェクターへ歩み寄り、片付けを始める。


 映像が消える。


 二人のやり取りを見つめていた面々は、互いに視線を交わした。


「終わったぞ」


 作業を終えた八雲が声を掛ける。


 テンはルームサービストロリーへ視線を向けた。


「そこに料理と酒がある」


「好きに食べたり飲んだりしてていいぞ」


「おっ、本当か」


 八雲は素直にトロリーへ向かって歩いていく。


 その背中を見送りながら、一人が静かに口を開く。


「……お前達、何を隠してる」


 テンは表情を変えない。


「何も隠してないよな、八雲」


 料理へ手を伸ばしかけた八雲は、不思議そうに振り返る。


「そうだね」


「千沙都が来るって聞いただけだけど」


 再び、沈黙が流れた。


「あいつが来るだって……?」


 誰かが小さく漏らす。


「来られるわけ────」


 その言葉を遮るように、船尾デッキの入口から声が響く。


「そうだよね。やっぱり来ない方が良かったかな」


 全員が振り返る。


 入口には、一人の女性が立っていた。


 誰も言葉を発しない。


 その静寂を破ったのは雫だった。


「千沙都。」


 柔らかな笑みを浮かべる。


「こっち。一緒に座ろ。」


「……ありがとう。」


 千沙都は小さく笑い、雫の卓へ歩み寄る。


 柊は何も言わず椅子を引いた。


 その様子を見ていた八雲も、ごく自然に同じ卓へ向かう。


「俺もここでいいか?」


「あぁ。」


 柊は短く頷く。


 椅子へ腰を下ろした八雲は、懐かしそうに千沙都を見た。


「久しぶりだな。」


「うん。久しぶり。」


 二人は小さく笑い合う。


「今は何してるんだ?」


 そこへ双子が歩み寄る。


「千沙姉は今、『刑事』をしてるの。」


 ナミは八雲へ視線を向ける。


「あんたとは立場が違うんだから弁えなさい。」


 八雲は困ったように笑った。


「そっか。」


「夢、叶ったんだな。」


「……うん。」


 少し照れくさそうに頷いた千沙都は、小さく息を吸う。


「私……今は『栗花落』なの。」


 八雲は一度だけ目を丸くした。


「そっか。」


 短く頷く。


「でも、千沙都は千沙都だろ。」


 千沙都は少し困ったように笑った。


 雫も穏やかに笑う。


「テン……」


 梓の口から思わず声が漏れる。


「梓。」


 テンを見つめたまま、紬希が短く名を呼ぶ。


 梓は、はっとしたように口元へ手を当てた。


 榊の表情が険しくなる。


 その目はテンへ向けられていた。


 紬希もまた、テンから目を逸らさない。


 テンは二人へ目も向けない。


 船尾デッキへ続く通路へ視線を移した。


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