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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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重奏


「なんであんたは冷静でいられるの」


 ナミは卓を勢いよく立ち上がり、テンを睨みつける。


「あんたのせいで、人生に傷をつけられた人がいるのに」


 テンはナミへ視線を向ける。


「俺達は、彼の選んだ結果を見届けただけだろう」


 淡々とした口調のまま続ける。


「お前こそ、なんでそんな取り乱す。彼を自分と重ねたか」


 周囲は苦笑する者、呆れる者、それぞれ異なる表情で二人を眺めていた。


「だったら悪いわけ。そうやってあんたのせいで私達の両親は────」


 言葉を最後まで言い切る前に、ナギがナミの口を手で塞ぐ。


「皆ごめんね。ナミが暴走して」


 ナギは困ったように笑い、周囲へ頭を下げる。


 その姿に一度は柔らかな笑みを返した面々だったが、やがてテンへ視線を移すと、その表情は厳しいものへと変わる。


 テンはその視線を受け止めたまま口を開く。


「俺が悪者になるのは今に始まったことではないし、ナミが見た事も事実だから否定はしないよ」


「ただ、ナギの側でお前が『過去』を持ち出す限り、ナギは忘れたくても忘れられない事だけは忘れるな」


 ナミはナギの手に触れ、そのまま静かに椅子へ座り直す。


 ナツは映像を見つめたまま口を開く。


「なら、この後もお前が『見届けれる』か見せてもらおうじゃないか」


 全員の視線が、再び映像へ向けられる。


 画面には、一人の女性と言葉を交わす恩師の姿が映し出されていた。


 短いやり取りを終えると、恩師は静かにピアノへ向かって歩き出す。


 その様子を見つめていたテンは、不意にピアノ側の卓へ置かれたインカムへ手を伸ばした。


「もし、ピアノへ向かうなら一切反応せず、そのまま通していい」


 短く告げると、それ以上は何も言わずインカムを置く。


 そして、自らも船尾デッキに置かれたピアノの椅子へ腰を下ろした。


 映像の中では、恩師が青年と同じように警備員の前で足を止め、深く頭を下げる。


 しばらくその姿勢を保った後、ゆっくりとピアノへ歩み寄った。


 椅子に座ったままの青年へ近づき、何かを交わす。


 やがて青年は静かに立ち上がると、観客へ一礼する。


 そのまま舞台を降り、静かに会場を後にした。


 恩師は、その背中を最後まで見届ける。


 そして鍵盤へ両手を添え、静かに演奏を始めた。


 程なくして、その音色が船内スピーカーを通じて船尾デッキへ流れ始める。


「上手く弾いてはいるようだが……最後まで持つのか」


 誰かの呟きが静かな空間へ落ちた。


 その言葉へ重ねるように、ナツが口を開く。


「お前は、彼同様……『音のズレ』がわかっている恩師を『見殺し』にするのか」


 ナツは最後までテンへ視線を向けない。


 一方で周囲の者達は、一度だけテンへ目を向けると、それぞれ何事もなかったように映像へ視線を戻した。


「なんで、同じことをするのかな」


 短く息を吐く。


「で、どうなんだ」


 ナツの声が静かに響く。


「お前はまた『見届ける』だけなのか」


 テンはようやく口を開く。


「何が言いたいわけ。俺に助けろと……」


「別に助けて欲しいとは思わない」


 ナツの声色は変わらない。


「だが、お前の行動次第では……演奏後、俺達のお前に対する見方が変わったとしても気にするな」


 テンは何も答えない。


 沈黙だけが二人の間を流れる。


「そのピアノが『飾り』の為にあるのか見物だな」


 ナツは映像から目を離さぬまま言い放つ。


 しばらくして、榊がスピーカーから流れる演奏へ耳を傾けながら呟く。


「そろそろ終盤だ。誤魔化すのも限界みたいだ」


 その場にいた者達も、流れてくる音だけで演奏の変化を感じ始めていた。


「青年と同じ場所で演奏は終わりかな」


 榊の声が静かに響く。


 テンはゆっくりと周囲へ目を向ける。


 自分の行動を見守る者。


 なおも映像を見つめ続ける者。


 そして、このやり取りそのものに興味を示さない者。


 その反応は様々だった。


 テンは再び映像へ視線を戻す。


 静かに鍵盤蓋へ手を掛ける。


 ゆっくりと、その蓋を開いた。


 テンは船内スピーカーから流れる演奏へ耳を澄ませる。


 静かに鍵盤へ指を置いた。


 船尾デッキへ、一つの音が響く。


 その音は、船内スピーカーから流れる演奏へ重なっていく。


 映像の中で、恩師は変わらず鍵盤へ向き合っていた。


 しばらくして、モニターに映る会場の様子がわずかに変わる。


 談笑していた者達が、次第に舞台へ顔を向け始める。


 それにつられるように、周囲の視線も少しずつ舞台へ集まっていく。


 船尾デッキでも、モニターへ向けられる視線が増えていく。


 誰も何も言わない。


 流れる音だけが、その場を満たしていた。


 やがて。


 最後の一音が消える。


 映像の中で、恩師はゆっくりと立ち上がる。


 観客へ向かって一礼する。


 一瞬の間を置き、映像の中では恩師へ向けて拍手が広がっていく。


 モニターへ向けられた視線は、そのまま動かなかった。



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