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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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対価


──青年が演奏する少し前


 最後の一皿を仕上げた。


 テンは手際よく作業台を片付けた。


「賄い作っておいたから好きに食べて」


「ありがとうございます」


 軽く頭を下げる。


 厨房の隅に置かれたルームサービストロリーへ歩み寄った。


 下段へ酒瓶を積み込んだ。


 上段へ料理を並べ、銀色のクロッシュを被せた。


 準備を終えると、トロリーの持ち手を握った。


 厨房を後にした。


 裏通路へ出ると、そのまま船尾デッキへ向かった。


 船尾デッキへ向かう途中、何人かとすれ違う。


 軽く会釈を交わしながら歩みを進めた。


 船尾デッキへ続く通路の前で警備へ声を掛けた。


「みんなは来てるかな」


「それなりに集まっています」


 警備が脇に退く。


 船尾デッキへ足を踏み入れると、酒が減っている卓へ瓶を置く。


 料理が空になりかけている卓へ皿を置く。


 礼代わりに軽く会釈する者もいれば、手だけで「そこへ」と示す者もいた。


 テンは足を止めることなく、必要な場所へ料理と酒を運ぶ。


 トロリーを脇へ寄せる。


 自分の分の飲み物を手に取る。


 テンは船尾デッキのピアノへ歩み寄る。

 

 椅子へ腰を下ろすと、手にしたグラスを軽く掲げた。


「まさか、こんなに集まるなんてな」


「俺に会いたかったみたいで嬉しいよ」


 返ってきたのは歓迎の言葉ではない。


 いくつもの冷たい視線だった。


「そんな訳がないじゃん」


 ナミが呆れたように言う。


「皆、会場より気が楽だからいるだけ」


「冗談じゃん。それに俺に向かってそんな強く当たって言い訳?」


「それよりも、ドレスの件を感謝しても罰は当たらないと思うが…」


「そうだね。ありがとうテン」


 ナギが素直に礼を口にした。


「ナミは強がりだから言わないけど……」


「余計なこと言わなくていいの」


 ナミが即座に返す。


 そのやり取りに、何人かが肩を揺らした。


「かくいう俺も、二人のドレスを含めて何点かデザインは出したけどな」


「本当に感謝するなら、榊と紬希にしてくれ」


 榊は気軽に手を振って応える。


 一方で紬希は、余計なことを言うなと言わんばかりの視線をテンへ向けた。


(……触れない方がよかったかな)


 小さく苦笑すると、話題を切り替える。


「それよりナミ。今回は成功しそうなのか? 俺の悪巧みの阻止は」


 ナミは鼻で笑う。


「当たり前じゃん! 自動演奏で誤魔化して、ピアノに細工してるなんてね」


 少しだけ口角を上げる。


「残念だけど、さっき軽く演奏して気付くようにはしてきたから」


「あんたみたいな馬鹿じゃない限り、あの面々の前で音のズレたピアノを弾こうだなんて思わない」


 自信ありげに言い切る。


「そこまで体を張っても、阻止できないと思うぞ」


 テンは苦笑を浮かべたまま視線を動かす。


「そうだろう。湊」


 少し離れた卓でノートパソコンを操作していた湊が、画面から目を離さず口を開く。


「残念だけど、そうみたい」


 湊は傍らに置かれていた箱へ手を伸ばした。


 蓋を開け、中からプロジェクターを取り出す。


「テン、電源」


「はいはい……」


 テンはグラスを卓へ置くと、船尾デッキの端へ歩いていく。


 防音型インバーター発電機の前で足を止め、慣れた手つきで始動させた。


 低く抑えられた駆動音が響く。


 傍らにまとめられていた延長コードを手に取り、湊のいる卓まで引いていく。


「ナツ」


 短く呼ばれたナツは立ち上がり、二階船尾デッキの手摺から垂れ下がるブラックマスクの下へ向かった。


 足元に置かれていた重りを手に取ると、ブラックマスクの先端へ取り付ける。


 湊はプロジェクターを卓へ置き、延長コードを繋ぐとノートパソコンを操作した。


 やがてブラックマスクには会場の様子が映し出される。


 スクリーンに映る青年は、ゆっくりと警備員へ歩み寄っていく。


「何をやってるの、あの男」


 ナミが眉をひそめる。


 映像を眺める者達の反応は様々だった。


 余興でも始まるのかと笑みを浮かべる者。


 ナミと同じように青年の行動を訝しむ者。


 青年は警備員の前で足を止め、一礼する。


 そのままピアノへ向かおうとするが、警備員が一歩踏み出し、その身で行く手を塞いだ。


「それでいい。そのまま摘み出して」


 ナミは映像から目を離さない。


 そんな中、テンはピアノの傍らに置かれていた卓へ歩み寄ると、置かれていたインカムを手に取った。


「……通していいよ」


 短く告げてインカムを戻すと、そのままピアノの椅子へ腰を下ろす。


 警備員が静かに身を引き、青年はピアノへ歩み寄った。


 青年が椅子へ腰を下ろすと、船内へ流れていた自動演奏が途切れる。


 僅かな静寂の後、一音。


 青年の演奏が、会場のピアノを通して船内へ流れ始めた。


 ――そして。


 演奏が終盤へ差しかかった頃。


 青年の指が止まる。


 そのまま鍵盤から手を離し、椅子に座ったまま動かなくなった。


「ナミ、残念だったね」


 テンはスクリーンから目を離さない。


「彼は自ら処刑台に登っただけだから、気にする必要はないよ」



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