境界
青年はなおも鍵盤へ手を置いたまま、動けずにいた。
会場には困惑した空気だけが広がっている。
麗もまた、その様子を静かに見つめていた。
「会話出来て良かったです」
隣から穏やかな声が聞こえた。
男は青年へ目を向けたまま、小さく微笑む。
「行かないとならなくなりました」
そう言って歩き出そうとした。
「あの……」
男は足を止めた。
「これ以降は、赤の他人でお願いしますね」
そう告げると、そのまま歩き出した。
真っ直ぐ、ピアノへ向かって。
男は警備の前で足を止める。
会場へ向き直り、深く一礼した。
「皆様。先程は不肖の弟子が粗末な演奏を披露してしまい、誠に申し訳ございませんでした」
再び頭を下げる。
「皆様がお許しくださるのであれば、弟子に代わり一曲披露させて頂いてもよろしいでしょうか」
男は深く頭を下げた。
拍手が会場に響く。
警備へ目を向けた。
誰一人として、その行く手を阻もうとはしない。
男は青年のもとへ歩み寄る。
「これに懲りたら、最後くらいちゃんと挨拶して下がれ」
青年は小さく頷く。
立ち上がると客席へ向かって深く一礼し、静かに舞台を降りていった。
男はその背を見送る。
ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
深く息を吸う。
静かに吐き出し、鍵盤へ手を掛けた。
男の指先が静かに鍵盤へ落ちる。
澄んだ旋律が会場を包み込む。
指先は乱れた音を追い、僅かなズレを一つずつ補正していく。
音を整えても、また次の乱れが現れる。
それでも男は止まらない。
一音。
また一音。
旋律を繋ぎ続ける。
曲は終盤へ入る。
盛り上がりを迎えた。
男の指は、その鍵盤を力強く叩く。
────終わった。
だが。
男は演奏を止めない。
その一音を境に、音を気にすることをやめた。
ただ。
最後の一音まで、この曲を届けるためだけに。
男の指は鍵盤を叩き続ける。
旋律は勢いを増し、そのまま終幕へ駆け抜けた。
最後の一音が静かに消えていく。
男はその余韻を崩さぬまま、鍵盤から手を離した。
静寂が訪れる。
誰も声を発しない。
ただ、その演奏の終わりだけを見届けていた。
やがて男は静かに立ち上がる。
客席へ向き直った。
深く一礼する。
頭が上がるよりも早く。
割れんばかりの拍手が鳴り響く。
誰一人として手を止めようとはしない。
ただもう一度、小さく一礼した。
その喝采を背に、静かに舞台を降りていった。
────
千沙都は船の外廊下で、もらった名刺を見ていた。
「私って、意外と捨てたものではないわね」
一枚ずつ眺めながら口元を緩める。
「麗は、上手くやってるかな……」
名刺へ目を向けたまま、小さく呟いた。
「さっき船尾デッキに入っていった人がいたって聞いたのに」
「行っても入れなかったね」
二人組の女性の会話が耳に入る。
千沙都は名刺をしまうと、船尾デッキへ通じる通路へ向かった。
警備が立っている。
周囲に招待客の姿はない。
千沙都はそのまま警備へ近付いた。
警備と目が合う。
「お通り下さい」
「どうも。失礼します」
千沙都はそのまま先へ進んだ。
────
凛はビュッフェ台の前で料理を選んでいた。
「お嬢さん。そんなに沢山取って、お召し物が似合わなくなりませんか」
聞き覚えのある声に振り向く。
「お姉ちゃん」
「はい。私は貴女のお姉ちゃんですよ」
二人は他愛もない話をしながら、凛が料理を選び終えるのを待った。
「はい」
凛が差し出した料理を、摩夜は口へ運ぶ。
「……凛」
「あなた……鳳菫さんを探してるって聞いたけど」
「ん?」
摩夜は何も答えず、携帯電話を取り出した。
一枚の画像を開き、指先で拡大すると凛へ見せる。
そこにはテンの横で笑みを浮かべる鳳菫が映っていた。
凛は目を見開く。
「お姉ちゃん。この人どこにいるの」
「……私から話すことじゃないわ」
「え?」
「その答えは、テンに聞いて」
「どこに行けば会えるの」
「場所は教えられる。でも……後悔するかもしれないわよ」
「……教えて」
摩夜は自身の招待券を凛へ差し出した。
「これを持って船の後方へ。警備に見せればテンに会えるわ」
「分かった」
「必ず返してね」
凛は受け取った招待券を握り締め、頷く。
皿を摩夜へ預けると、そのまま船尾デッキへ向かっていった。
入れ替わるように唯がやって来た。
「摩夜! 凛が慌てていたけど、何かあったの?」
「菫さんを探していたみたいで」
「それで船尾デッキへ?」
「ええ」
「良かったの?」
「もう後悔しているかもしれません」
少し間を置く。
「でも……テンと関わる以上、向き合わなければならないことですから」




