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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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残響


 一階へ戻った麗は、会場を見渡した。


(千沙都さんは……)


 招待客の間を歩きながら姿を探す。


 だが、それらしい姿は見当たらない。


 歩き続けるうち、いつの間にか船首側まで来ていた。


 ピアノの音色が船内に流れる中、不意に二人の女性が目に留まる。


 同じ顔立ち。


 同じ背丈。


 双子だろうか。


 一度だけ視線を向けると、再び千沙都を探した。


 その時だった。


 自動演奏が止む。


 麗は音の途切れた方へ振り向く。


 先程見掛けた双子の一人は、既にピアノの前へ腰を下ろし、鍵盤へ両手を添えていた。


 その傍らでは、もう一人が警備の外側で小さく頭を下げている。


 警備は何も言わず、その様子を見守っていた。


 鍵盤へ置かれた指が動く。


 一音目が船内へ響いた。


 談笑は自然と途切れた。


 誰もが演奏へ耳を傾けていた。


 最後の一音が消える。


 女性は立ち上がると自動演奏へ切り替え、そのまま何事もなかったように歩き去った。


 外側で待っていた女性は会場へ向き直る。


 深く頭を下げる。


 顔を上げ、再び頭を下げる。


 それを何度か繰り返すと、演奏した女性を追うように会場を後にした。


 双子が姿を消しても、麗の視線はピアノから離れなかった。


(……今の音)


 耳に残ったのは、ほんの一音だけだった。


「あなたも、音に気づいたみたいですね」


 不意に声が掛かった。


 麗は振り返る。


「えっと、失礼ですが……どちら様ですか」


「私は、大学で『彼』を教えていた者です」


「『彼』の同伴者の、躑躅森麗さんですよね」


「そうですけど……『彼』って、誰の事ですか」


「失礼しました。これを見れば、少しは信用してもらえますかね」


 男は懐から招待券を取り出すと、麗へ向けた。


 そこには、『一―A'』と記されていた。


 招待券の番号を見て、麗は男へ視線を戻した。


「私も、あなたと同じ人に招待されました」


「……テンにですか」


「ええ」


 男は静かに頷く。


「彼から聞いた、あなたの話をお伝えしましょうか」


「……いえ。結構です」


「そうですか」


 男はそれ以上何も言わず、二階へ目を向けた。


「では、二階を見てください」


 麗は二階へ目を向けた。


 手摺にいた数人の客が、階下のピアノへ視線を落としている。


 その眼差しは、蔑むようだった。


 やがて彼らは、そのまま手摺を離れ、静かに姿を消していく。


「あなたも、あちら側の人ということです」


「私がですか……」


「勘違いしないでいただきたい。


 同じなのは、音に気づいたという一点だけです」


「……そういうことだったんですね」


 麗は小さく息をついた。


「私からも尋ねてもいいですか」


「私で良ければ、お答えしますよ」


「貴方の知っているテンのことを聞かせてくれますか」


「……いいですよ。どんなことが聞きたいですか」


 それからしばらく、二人はテンの話に花を咲かせた。


 一人の青年が、警備の前で足を止めた。


 居並ぶ招待客へ向き直り、静かに一礼する。


「本日は、このような晴れ舞台へお招きいただき、誠にありがとうございます」


 穏やかな声が会場へ響く。


「僭越ながら、一曲ご披露させていただきたく存じます」


 再び深く頭を下げる。


 青年が一歩踏み出そうとした、その時だった。


 警備員が行く手を塞ぐ。


 青年は足を止めた。


 しかし、退こうとはしない。


 警備員もまた、その場を動かなかった。


 警備員がイヤホンへ手を添える。


 次の瞬間、警備員たちは左右へ分かれ、青年の前を開けた。


 青年は静かに一礼し、ピアノへ歩み寄る。


 椅子へ腰を下ろす。


 青年は静かに両手を鍵盤へ添えた。


 一音目が会場へ響く。


 澄んだ音色に、談笑していた招待客たちは自然と会話を止め、演奏へ耳を傾けていく。


 旋律は穏やかに流れ、青年の指は淀みなく鍵盤を渡る。


 不意に、小さな違和感が胸をかすめた。


 指の運びに狂いはない。


 耳に届く音も、間違っているようには聞こえない。


 それでも拭えない何かが残る。


 青年は演奏を続けた。


 一節、また一節と曲は進んでいく。


 そのたびに違和感は薄れるどころか、少しずつ存在を増していった。


 曲は終盤へ入る。


 盛り上がりを迎え、青年の指は力強く鍵盤を叩く。


 両手が止まった。


 続くはずだった旋律は途切れ、会場は静寂に包まれる。


 青年は鍵盤から手を離すこともできず、その場に座り続けていた。


「……どうした?」


「何かあったのか?」


 一階では困惑した声が上がり、招待客たちは顔を見合わせる。


 二階では互いに顔を寄せ、小さく言葉を交わす者がいる。


 その一方で、青年へ冷ややかな眼差しを向ける者もいた。



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