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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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消息


 インターホンが鳴った。


 テンは顔を上げる。


 寝室へ視線を向けた。


 扉は閉まったままだ。


 立ち上がる。


 そのまま玄関へ向かった。


 扉を開ける。


 社長が立っていた。


 「行くぞ」


 「あぁ」


 テンは玄関へ置いてあった荷物を手に取る。


 扉を閉める。


 「鍵」


 社長が振り返る。


 「持ってないのか」


 「勝手に持ち出す訳ないだろう」


 社長は小さく息を吐いた。


 ポケットから鍵を取り出す。


 「持ってたのか」


 「万が一の時のためだ」


 鍵を差し込む。


 「秘書も私のを持っている」


 「俺にはくれない癖に」


 社長は施錠を終えた。


 「お前に渡したら悪用する」


 「酷くない?」


 テンは肩を竦めた。


 二人はエレベーターへ向かう。


 無言のまま扉が閉まる。


 階数表示がゆっくりと減っていく。


 やがて一階へ到着した。


 エントランスを抜ける。


 外には黒い車が停まっていた。


 後部座席の扉が開く。


 一人の男が車から降りた。


 昨夜会った弟だった。


 弟は二人へ軽く頭を下げる。


 「お迎えにあがりました」


 テンは弟を見た。


 整った所作。


 無駄のない動き。


 昨夜と変わらない。


 「疲れないか?」


 弟は一瞬だけ目を細めた。


 「何の話でしょう」


 「姉もいないんだ。隠さなくていいぞ」


 「何を隠しているのか分かりませんね」


 一拍置く。


 「ところで、兄貴は」


 弟は社長を見る。


 「お見送りという感じではなさそうですね」


 「俺も一緒に行ったら困るか?」


 社長が尋ねる。


 「安心しろ。マリーナまでだ」


 「それでしたら問題ありません」


 弟は扉へ手を添える。


 「それに、あの件では世話になりましたので」


 「そうか」


 社長は短く返し車に乗り込む。


 続くように二人も車へ乗り込んだ。


─────


 目を開く。


 見慣れた天井が視界に映った。


 身体を起こす。


 秘書は寝室を出た。


 リビングへ向かう。


 静かな室内だった。


 人の気配はない。


 そのまま玄関へ向かった。


 扉の前で足を止める。


 施錠されていた。


 チェーンは掛かっていない。


 昨夜の言葉が脳裏を過る。


 ――明日、俺と会長は命を狙われる可能性がある。


 小さく息を吐いた。


 夢ではなかった。


 秘書はリビングへ戻る。


 冷蔵庫を開ける。


 飲み物を取り出そうとして手を止めた。


 作り置きの朝食が並んでいた。


 あの男らしい。


 飲み物をコップへ注ぐ。


 ソファーへ向かった。


 腰を下ろす。


 ローテーブルの上に二つ折りの紙が置かれていた。


 秘書はそれを手に取り開く。


 コップをローテーブルへ置いた。


 俯く。


 そのまま手で顔を覆った。


─────


 車が停まった。


 テンは扉を開ける。


 外へ出た。


 大きく伸びをする。


 「いやぁ、酔っぱらっちゃったな」


 「酔っぱらったって……ノンアルコールだっただろう」


 社長が呆れたように言う。


 「あぁ、雰囲気が台無しだわ……」


 「で、会長は何処に?」


 弟へ視線を向ける。


 「申し訳ございません」


 弟は頭を下げた。


 「会長は既に沖へ出ております」


 「まぁ……そうだろうね」


 「マリーナから海へ出たら、そのまま真っ直ぐです」


 弟が歩き出す。


 「なるほど」


 テン達は後に続いた。


 少し離れた場所に小型船が係留されていた。


 弟は船の前で足を止める。


 鍵を差し出した。


 テンは受け取らない。


 「悪いが、代わりにエンジンを掛けてくれるか」


 「……かしこまりました」


 弟は船へ乗り込む。


 鍵を差し込んだ。


 やがてエンジン音が響く。


 テンは黙って耳を傾ける。


 それから船へ乗り込んだ。


 「ありがとう。疑って悪かった」


 「お気になさらず」


 弟は静かに船を降りた。


 テンは操縦席へ腰を下ろす。


 「寂しいのは分かるけど、待ってなくていいからな」


 「戻ってくるな」


 間髪入れずに返ってくる。


 船がゆっくりと岸を離れた。


 テンは片手を上げる。


 そのまま沖へ向かった。




 「その格好……姉さんに送ってやろうか」


 弟は眉をひそめた。


 ネクタイを緩める。


 第一ボタンを外した。


 そのまま歩き出す。


 「なんで付いてきたんですか?」


 「姉の代わりは必要なかったか」


 弟は小さく息を吐く。


 「買い被りですよ」


 「そうか?」


 「見ての通りです」


 「何がだ?」


 「会長の指示に従っただけですよ」


 「それは今さっき終わっただろう」


 「なので、仕事に戻ります」


 「気になるなら着いてきますか?」


 「いいのか」


 「構いませんよ」


 「ヘリで移動ですが……大丈夫ですか?」


 「なら、やめておく」


 「これから、どうするんですか?」


 「帰るなら送って行きますよ」


 「仕事なんだろう。適当に帰るから早く行け」


 弟は再び歩き出す。


 「あんまり姉さんを困らせるなよ」


 足を止める。


 振り返る。


 「……そうですね。気を付けます」


 「もしなにかあれば姉を頼みます」


 「わかった。任せておけ」


 向き直る。


 ――さよなら、兄貴。


─────


 潮風が気持ちいい。


 テンは鼻歌交じりに舵を握った。


 海は穏やかだった。


 空も青い。


 「最高だな」


 小さく笑う。


 前方に船影が見えた。


 「あれか?」


 視線を向ける。


 間違いなさそうだった。


 ゆっくりと船を近付ける。


 やがて全体が見えてきた。


 船尾の先に人影がある。


 竿を握ったまま海を眺めていた。


 テンは静かに船を寄せる。


 船尾へ横付けした。


 船を降りる。


 会長の船へ乗り移った。


 甲板を進む。


 「釣れてるか?」


 会長が振り返った。


 「これから釣れなくなる」


 「何でだ」


 「レーダーから魚影が消えていく」


 「お前、またやったな」


 「俺は、いつも通り挨拶しただけだ」


 「また鮫でも連れてきたか」


 「俺……魚類にも好かれるみたいで」


 「お前は私をボウズにして楽しいか?」


 「もちろん!」


 「まったく……腹減ってないか」


 会長は竿を置く。


 「釣れた魚を捌いてやる。船内へ行くぞ」


 「いいね」


 「料理は任せた」


─────


 ヘリのローター音が機内に響く。


 双眼鏡を下ろした部下が口を開いた。


 「ボス。会長が船内に入りました」


 「以降は確認出来ません」


 「いつも通りか」


 「はい。カーテンが閉まっています」


 弟は双眼鏡を受け取る。


 船へ視線を向けた。


 やがて双眼鏡を下ろした。


 「準備は」


 「問題ありません」


 別の部下が答える。


 弟は小さく頷いた。


 再び船へ目を向ける。


 「これで次は俺だ」


 「さよなら……親父」


 海上に轟音が響いた。


 停泊していたクルーザーが爆ぜる。


 衝撃と共に破片が舞い上がった。


 炎が空へ伸びた。


 海面が揺れた。


 やがてヘリは旋回した。


 そのまま現場を離れていった。


 眼下には無数の残骸が散らばっていた。


 砕けた船体が海を漂っていた。


 その周囲を、背鰭が巡っていた。


 ゆっくりと円を描く。


 海面には赤褐色の液体が広がっていた。


 波に流されながら。


 静かに海を染めていた。


 

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