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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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余燼 (よじん)


 店内は騒がしかった。


 案内された席へ腰を下ろす。


 秘書はメニューを開くなり指を止めた。


 「これ」


 テンが覗き込む。


 「なるほどね。なら、俺も同じのにするかな」


 「怒らないんだ」


 「食べたいんでしょう?」


 一拍。


 「残したら怒るけどな」


 秘書が笑う。


 社長がメニューを閉じた。


 「俺も同じのにするかな」


 テンが肩を竦める。


 「遠慮しない仲っていいね」




 注文を終える。


 テンが水を一口飲んだ。


 「そういえば」


 「何?」


 「会長、最近も海に出てるのか」


 秘書は頷く。


 「時間があれば」


 「相変わらず釣りか」


 「他に趣味ないもの」


 社長が鼻で笑った。


 「否定できんな」




 料理が運ばれてくる。


 しばらく、食事に集中した。


 テンがグラスを置く。


 「ちょっとトイレ」


 「逃げるなよ」


 「そんなやつに見えるのか?」


 「どうだかな」


 テンは立ち上がる。


 そのまま人混みの向こうへ消えた。




 一拍。


 秘書が社長を見る。


 「あなた達、私に何を隠してるの?」


 社長は答えない。


 「私だけ除け者にするなんてひどくないですか……?」


 秘書は視線を逸らさない。


 「それとも」


 一拍。


 「余程聞かれたくない話なのですか……?」


 社長は小さく息を吐いた。


 「実は――」


 「何を話してるのかな?」


 二人が振り返る。


 テンが立っていた。


 「俺も混ぜてよ」


 料理はほとんど片付いていた。


 秘書がグラスへ手を伸ばす。


 店内の賑わいは変わらない。


 一拍。


 テンが口を開いた。


 「そういえば」


 秘書が顔を上げる。


 「何?」


 「さっき何か聞こうとしてたみたいだけど、聞かなくていいのか?」


 一瞬だけ視線が止まった。


 秘書は小さく息を吐く。


 「あぁ」


 一拍。


 「もう、そんな気分じゃなくなっちゃったから」


 テンは頷く。


 「そっか」


 「なら、そろそろ出ようか」


 テンが立ち上がった。


 「そうね」


 秘書も席を立つ。


 社長は最後に残った水を飲み干す。


 そのまま静かに立ち上がった。


─────


  マンションの前で足を止める。


 三人はそのまま入口へ向かった。


 一拍。


 秘書だけが先へ進む。


 自動扉の前で足を止めた。


 振り返る。


 二人は動いていなかった。


 秘書が眉をひそめる。


 「帰らないのですか?」


 社長が隣を見る。


 テンは肩を竦めた。


 「帰るのは異論ないがな」


 一拍。


 「コイツが一緒だと何かと不都合だろう」


 「不都合?」


 「風呂だの着替えだの」


 社長は続ける。


 「少し時間をずらそうと思ったんだが」


 秘書は呆れたように息を吐く。


 「そう思うなら引き取ってもらっていいんですよ」


 「君が本当にそれでいいなら構わん」


 一拍。


 「だが――」


 秘書が首を傾げる。


 社長は静かに続けた。


 「君が知りたい事は聞けず仕舞いになるぞ」


 秘書の表情が変わった。


 「それは、どういう意味ですか?」


 社長は首を横に振る。


 「私には答えられん」


 一拍。


 「だが、それを聞く相手はいる」


 秘書は何も言わない。


 社長は続けた。


 「諸々準備が終わったら連絡をくれないか?」


 「テンを一晩引き取ってくれるなら」


 一拍。


 「君の知りたい事を、テン自身の口から全て話させる」


 秘書はテンを見る。


 「社長命令らしい」


 秘書が息を吐いた。


 「……分かりました」


 一拍。


 「後で連絡します」


 秘書は踵を返した。


 自動扉が開く。


 秘書の姿が中へ消える。


─────


  近くの公園。


 ベンチへ腰を下ろす。


 一拍。


 テンは持っていたビニール袋から缶コーヒーを取り出した。


 「なぁ……」


 社長は前を向いたまま答える。


 「なんだ……」


 「いつまで引っ張るんだ」


 「何の話だ」


 テンは呆れたように息を吐く。


 「秘書」


 「俺がお前なら今のお前より関係性を深めているぞ」


 社長の眉が僅かに動いた。


 「余計なお世話だ」


 「そうか?」


 テンは缶コーヒーを口元へ運ぶ。


 「なぁ」


 「なんだ」


 「もしかして俺が邪魔だったりするか?」


 社長はゆっくりテンを見る。


 「何を馬鹿なことを言っている」


 「だってなぁ」


 テンは肩を竦めた。


 「俺の方が魅力的だからな」


 一拍。


 「ごめんな。罪作りな男で」


 社長は額を押さえた。


 「……一遍死んでこい」


 「酷くない?」


 テンが笑う。


 「そんなこと言って」


 「いなくなったら悲しむくせに」


 社長が何か言い返そうとした。


 その時だった。


 着信音が鳴る。


 一拍。


 二人の視線が同時にスマホへ向く。


 社長は画面を見る。


 表示された名前を確認した。


 小さく息を吐く。


 「来たぞ」


 テンは立ち上がった。


 「そうか」


 空になった缶を握る。


 「じゃあ行くか」


─────


 エレベーターを降りる。


 廊下を進む。


 目的の部屋の前で足を止めた。


 一拍。


 テンはインターホンを押す。


 返事はない。


 代わりに、モニターを隠すように手を伸ばした。


 そのまま覗き穴も塞ぐ。


 一拍。


 扉の向こうから小さな物音が聞こえた。


 やがて鍵の開く音。


 テンは何事もないように扉へ手を掛ける。


 ――止まった。


 数センチ開いた先でチェーンが張る。


 「そんな勢い良く開けたら壊れるんですけど……」


 呆れた声が隙間から聞こえた。


 テンは開きかけた扉を見る。


 「あの~」


 「…………」


 「開けてもらっていいですか?」


 秘書は小さく息を吐いた。


 やがてチェーンの外れる音がする。


 扉が開いた。


 テンは室内へ足を踏み入れる。


 手で扉を閉めた。


 靴を脱ぎ先へ進もうとする。


 視界を塞ぐように秘書が立っていた。


 「…………」


 テンは首を傾げる。


 秘書は無言のまま玄関を指差した。


 テンが振り返る。


 鍵は開いたまま。


 チェーンも外れたままだった。


 「あぁ」


 扉へ向かう。


 鍵を掛ける。


 続けてチェーンも掛けた。


 秘書が一歩横へ退く。


 「どうぞ」


 「ありがとう」


 二人はリビングへ向かった。


 リビングへ入る。


 ソファーに腰を下ろした。


 その隣へ秘書も座る。


 一拍。


 「そうだ」


 テンが口を開く。


 「なに?」


 「タオル買い忘れた」


 秘書が眉をひそめる。


 「買い物したんじゃないの?」


 「してた」


 「でも、忘れた」


 秘書は小さく息を吐いた。


 立ち上がる。


 しばらくして戻ってきた。


 手にはタオルがある。


 「バスタオルは脱衣所に置いたから」


 テンは頷いた。


 秘書は座り直すと、タオルを差し出す。


 だが、テンは受け取らない。


 秘書が首を傾げる。


 「明日、俺と会長は――」


 乾いた音が響いた。


 テンの頬が横へ流れる。


 避けられたはずだが……避けなかった。


 テンは正面を向く。


 そして静かに話し始めた。


 明日起こりうる出来事を。


 ただ淡々と。


 秘書は何も言わない。


 いつの間にか差し出したままのタオルを握り締めていた。


 やがてテンの声が止む。


 沈黙が落ちた。


 テンは立ち上がる。


 何も言わずリビングを後にした。


 浴室の扉が閉まる。


 しばらくして水音が響き始めた。


 ――どれだけ時間が経ったのか。


 テンは髪を拭きながらリビングへ戻る。


 ソファーに視線を向ける。


 タオルを抱えたまま秘書が沈んでいた。


 テンは足を止める。


 「ゴメン」


 小さく呟く。


 返事はない。


 テンは静かに秘書を抱き上げた。


 そのまま寝室へ向かう。


 ベッドへそっと降ろした。


 テンは寝室を後にした。


 リビングへ戻る。


 ソファーに腰を下ろした。


 ――翌朝。




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