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深淵 ――視線の先で、世界は静かに狂う  作者: 天冥麟


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 車内は静かだった。


 エンジン音だけが響く。


 後部座席の窓際に座る唯は外を見ている。


 その隣に座る男も何も言わない。


 運転席の男はバックミラーへ視線を向けた。


 映るのは二人の姿。


 騒ぐ様子はない。


 抵抗する様子もない。


 それなのに――


 後ろの男達が落ち着かない。


 視線だけが何度も唯へ向く。


 前方から小さな咳払いが聞こえた。


 男達は慌てて視線を逸らす。


 唯は窓の外から視線を戻した。


 通路の向こう。


 男と目が合った。


 男は一瞬だけ目を見開く。


 唯は小さく微笑んだ。


 車が揺れた。


 その拍子に、靴の先が僅かに触れた。


 男は何も言わない。


 唯も何も言わない。


 再び窓の外へ視線を向ける。


 照明に照らされたコンテナ。


 遠くで赤い灯りが瞬いていた。


 車は速度を落としていく。


 やがて停止した。


 前方のドアが開く。


 運転席の男が外へ出る。


 後部座席のドアが開いた。


 夜の空気が流れ込む。


 唯は車を降りる。


 倉庫の前には既に数人の男が立っていた。


 離れた場所にも人影が見える。


 開いた鉄の扉の向こうへ入る。


 「座れ」


 男は腰を下ろした。


 数人の男が前へ出る。


 唯は一度だけ男を見る。


 男達が歩き出した。


 唯も歩いた。


 「拘束はしなくていいのか」


 「必要ない」


 主犯は拳銃をホルダーへ戻した。


 「ただ、あんたから目は離さない」


 「随分と悔しかった様だな」


 主犯は答えない。


 「あいつに負けたのが」


 「……何が言いたい」


 「さては見たか」


 主犯の目が細くなる。


 「裏の噂くらいは知っている」


 「噂だ」


 「そうか」


 男は小さく笑った。


 「残念だが、あれは俺の息子だ」


 主犯は鼻で笑う。


 「面白い冗談だ」


 「そうか」


 一拍。


 「俺が連れて来られる前に言ったことを覚えているか」


 「あの強がりか」


 「そうだ」


 男は前屈みになった。


 両肘を膝へ置く。


 組んだ手が口元を隠した。


 一拍。


 「その答えを教えてやる」


 主犯が眉をひそめる。


 「何だ」


 「後ろを向いてみろ」


 主犯がゆっくりと振り返った。


 開いたままの鉄扉。


 入口から数歩入った場所に人影が立っていた。


 主犯の視線が止まる。


 「黙っていれば良かったのに」


 主犯の表情が止まる。


 「なんでお前が……」


 「だから言っただろう」


 一拍。


 「別に、俺はあんたを助けに来た訳じゃない」


 テンは倉庫の中へ視線を向けた。


 「姉さんは……奥かな」


 一歩。


 コンクリートを靴底が擦る。


 もう一歩。


 「あぁ」


 テンが足を止めた。


 「そうだ」


 「あんたにもプライドくらいあるだろう」


 「……何だ」


 「一つゲームをしないか」


 「内容は」


 「簡単だ」


 一拍。


 「今は二対一だろう」


 「だから、あんたが相手を選べ」


 テンは肩を竦めた。


 「勝てたら俺は大人しく消える」


 「もちろん、選ばれなかった方は手も足も出さない」


 一拍。


 「その場から一歩も動かない」


 「これでどうだ」


 主犯は答えなかった。


 テンを見る。


 男を見る。


 再びテンを見る。


 「嘘はないんだろうな」


「ないよ」


 一拍。


 「それなら、お前は父親がやられるところを見ているんだな」


 背後で椅子が鳴った。


 男が立ち上がる。


 主犯は振り返った。


 一拍。


 「後悔するなよ」


 視線だけが向けられていた。


 両腕が男の腰へ回る。


 体重が乗る。


 押し潰す様に力が込められた。


 一拍。


「それは……愚策だったな」


「何?」


 主犯が眉をひそめる。


「本当に、俺が何もしないと思ったのか……」


 主犯の表情が固まる。


 一瞬。


 押し込む力が鈍る。


 男は視線を動かさなかった。


 組んだ両手が上がる。


 高くはない。


 肩の高さ。


 それで十分だった。


 躊躇はない。


 振り下ろされる。


 鈍い音が響いた。


「――っ」


 主犯の身体が揺れる。


 膝が落ちた。


 腕の力が抜ける。


 男から身体が離れた。


 そのまま前へ崩れる。


 床へ倒れ込んだ主犯を見下ろす。


 動かない。


 男はゆっくりと屈んだ。


 首裏へ手を伸ばす。


 襟を僅かに捲る。


 指先が何かを摘んだ。


 一度だけ引く。


 小型マイクだった。


 男は立ち上がる。


 躊躇なく放った。


 弧を描いたそれをテンが片手で受け取る。


「余計な事をしたかな……」


 テンが歩き出す。


 主犯へ手を伸ばした。


 その腕が止まる。


 男の手だった。


 一拍。


 テンは視線だけを向けた。


「外の奴と同じ場所に運んで置くよ」


 男は何も言わない。


 テンを見ていた。


 テンも見返す。


 短い沈黙。


 やがて男の手が離れた。


 テンは主犯の腕を掴んだ。


 意識は戻らない。


 そのまま引き摺って出口へ向かった。


 鉄扉を抜ける。


 夜風が頬を撫でた。


 主犯を引き摺ったまま歩く。


 数歩先。


 壁にもたれる男がいた。


 運輸会社の社長だった。


「……よく見逃してもらえたな」


 テンは答えない。


 主犯を引き摺ったまま近付く。


「外の奴らは」


「停泊した船に運んだよ」


 テンは主犯へ視線を落とした。


「こいつ連れて行くの代わってくれないか」


 社長は何も言わない。


 代わりに少し離れた場所を指差した。


 二輪車だった。


 テンはそれを見た。


 一拍。


 小さく息を吐く。


 主犯の足首を離した。


 二輪車を引き寄せる。


 気絶した主犯を荷台へ乗せた。


 社長は黙ったままだった。


 テンは荷台の取っ手を握る。


「……分かったよ」


 二輪車を引く。


 車輪が小さな音を立てた。


 しばらく歩く。


 前方に人影が見えた。


 女性だった。


 アルシュだった。


 テンは足を止めた。


 距離は二メートルもない。


 アルシュも動かない。


 ただ、そこに立っていた。


 夜風が吹き抜ける。


 アルシュは何も言わない。


 鋭い視線がテンへ向けられる。


 テンは小さく息を吐く。


 アルシュはテンを睨むように見た。


 数秒。


 やがて視線を落とした。


「レストランの件は今頃、綺麗に消えてると思うぞ」


 一拍。


 テンは頷いた。


「あとは親父と話して決めてくれ」


 アルシュは何も答えない。


 テンは再び二輪車の取っ手を握った。


 そのまま歩き出す。


 社長も後を追った。


 アルシュは動かない。


 二人と荷台が遠ざかっていく。


──────── 


 父親はコンテナの陰から、奥の方へ進んだ。


 飛び込んできた光景に、唖然とした。


 そこは張り詰めた空間ではなかった。


 唯は怯えるどころか、下っ端たちに囲まれ、アイドル同然にサインや写真をねだられて困り果てている。


 唯の視線が、コンテナの陰に立つ父親の姿を捉える。


 だが、下っ端たちは誰一人としてその気配に気付かない。


 サインの手元や、唯の私生活への質問に夢中になっている。


 父親の行動に躊躇はなかった。


 ──一瞬だった。


 背後から音もなく間合いを詰めた父親の手によって、下っ端たちは声を上げる隙すら与えられず、次々と床へ崩れ落ちていく。


 部屋の中に、あっけなく完全な静寂が戻った。


 父親は拳を引くと、困り顔のまま立ち尽くす娘の元へと歩み寄った。


 一拍。


 唯は父親を見上げた。


「お父さん」


 父親が視線を向ける。


「私、今の生活が好きよ」


 父親は何も言わなかった。


 ただ、娘を見ていた。


 倉庫の灯りが二人を照らしていた。



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