正しいこと
「……はぁ。ちょっと待て」
俺はこめかみを押さえ、深くため息をついた。
「ルナさん、正気ですか? 昼間のあの怪力を見るに、何かしら力が強くなるような【恩恵】持ちなんだろうとは思いますけど……相手は手練れの自警団を三人同時にバラバラにするような殺人鬼ですよ。いくら力があっても、まともに戦って勝てる保証なんてないでしょ」
我ながら、実にあっさりとした正論だと思う。だが、ルナは怯むどころか、困ったように眉を下げて微笑んだ。
「おっしゃる通りです。私は戦いの訓練なんてほとんど受けていませんし、怪我だって怖いです。……でも、だからって放っておくことはできません」
「なぜです? あなたが命を懸けてまで、そんな『正義の味方』をやる理由がわからない。この街の人間なんて、大半が汚職や騙し合いにまみれたクズばっかりだ。そんな奴らのために死んだら、馬鹿らしいとは思わないんですか?」
元の世界で親友と恋人に裏切られ、金を搾り取られて死んだ俺だ。他人のために命を張るなんて、愚かの極みとしか思えない。
俺の少し棘のある言葉に、ルナは肉串を置き、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
「馬鹿らしいなんて、思いません」
その声には、一切の迷いも、気負いもなかった。
「この街が酷い場所なのは知っています。でも、そんな世界だからこそ……誰かが『正しいこと』を泥の中に示し続けなきゃいけないと思うんです。傷ついている子供たちがいて、怯えている人がいる。私が動ける力を持っているのに、自分の安全だけを理由に見て見ぬふりをするなんて……そんなの、私には絶対にできません」
(――ゾワゾワ、しない)
頭の中は、静まり返っている。
(……本当に、この女は何なんだ。)
「綺麗事」だ。これ以上ないほどの、反吐が出るような綺麗事。
だが、俺の【言霊記録】に内包されている【虚偽感知】は彼女の言葉に「1文字の嘘」も混ざっていないことを証明している。彼女は本気で、心の底から『正しいことを示し続ける』ために、命を懸けて夜の街に立っているのだ。
(良いやつすぎるだろ、本当に大丈夫かよ……。こんな無防備な善意、初めて見た……)
他人の笑顔も善意も信じない、いや、信じられない俺の胸の奥が、嫌な形できしむ。
信じたくないのに、能力が「それは真実だ」と強制的に突きつけてくる。この矛盾した感覚が、猛烈に居心地が悪くて、吐き気がするほどに気持ち悪かった。
「……勝手にすればいい。あんたが死んでも、俺は知らないからな」
俺はそれ以上聞くのをやめ、残ったコップの水を一気に飲み干した。これ以上この女の『光』に当てられていたら、俺の心が摩耗してしまう。
「ふふ、心配してくれてありがとうございます、トキさん。本当に優しい人ですね」
「……は?」
またゾワゾワしない。
優しい? 俺が? どの口が言っているんだ。俺はただ、関わり合いたくないから突き放しただけなのに、それすら「心配してくれた」と善意に解釈するのか。
「あーもう、お会計。俺、もう帰ります!」
俺はいたたまれなくなって、ルナが引き留めるのも聞かずに、路銀から2人分の代金を机に叩きつけて立ち上がった。関わりたくない。一刻も早く、あの薄暗くて安心できるハンスの店の2階(自室)に閉じこもりたかった。
――だが、この時の俺はまだ、自分の弱み(純粋な善意)をこれでもかと突いてくるこの少女と、数日後に最悪の形で再会することになるとは、微塵も思っていなかった。
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