第2話:完璧な操り人形
視界が真っ白に染まる。
何十台ものカメラが放つストロボの光は、まるで無数の針のように網膜を刺し、現実感を希薄にさせていく。その中心で、九条理久は微動だにせず、穏やかな微笑を浮かべていた。
三冠受賞会見。都内高級ホテルの金屏風の前。
理久は、由希が昨夜、三時間かけて選んだチャコールグレーのスーツを完璧に着こなしていた。その姿は、あまりにも神々しく、知性的で、そして「孤独」を纏っているように見えた。
「――九条先生。三冠という歴史的快挙、今の率直なお気持ちをお聞かせください」
最前列の記者が、心酔したような眼差しでマイクを向ける。
舞台袖の暗がりに身を潜めていた由希は、無意識に自分の喉元に手をやった。理久の胸ポケットに忍ばせた、極小の受信機。そして自分の耳に装着されたイヤホン。二人の心拍が、電子の波を通じて同期しているような錯覚を覚える。
(……理久。三秒、溜めて)
由希が暗闇で囁く。
理久は、一瞬だけ伏せ目がちになり、長い睫毛が頬に影を落とすのを待った。そして、ゆっくりと顔を上げ、澄んだ声で答える。
「……光栄という言葉では、足りないほどです。ですが、受賞の知らせを聞いて最初に思ったのは、僕の物語の中に置き去りにしてきた登場人物たちのことでした。彼らの絶望が、ようやく報われた。そう感じて、少しだけ、胸が痛みました」
会場に、吐息のような感嘆が漏れる。
完璧な回答だった。由希が数日前に、新人賞三冠の可能性を想定して用意していた「正解のセリフ」だ。
由希は、舞台袖のパイプ椅子に深く腰掛けた。
自分の視界は狭く、暗い。だが、自分の言葉が、理久というスピーカーを通して、この会場を、そして配信を見ている数万人の心を自在に操っている。
この瞬間、由希を支配していたのは、恐ろしいほどの万能感だった。
あの煌びやかな舞台の上に立っている美貌の男は、私が作り上げた最高級の人形だ。彼の唇の動きも、瞳の揺らぎも、すべて私の指先ひとつで決まる。
(いいわ、理久。そのまま、少し悲しそうに笑って)
理久は、まるで由希の思考を直接読み取ったかのように、絶妙な角度で口角を下げた。
フラッシュの嵐が一段と激しくなる。
由希の心臓は、高揚感で激しく打ち震えていた。
世界を騙している。この知的で残酷な遊戯を支配しているのは、誰でもない自分だ。
だが、その全能感の裏側で、別の感情が澱のように溜まっていく。
フラッシュの残像が、自分の網膜に残る。
しかし、その光の中に、自分の姿は一欠片も存在しない。
どれだけ称賛されても、その称賛は由希を通り過ぎて、理久という実体のない虚像に吸い込まれていく。
由希は、膝の上に置いた自分の両手を見つめた。
ペンだこで歪んだ中指。乾燥してささくれた指先。
この汚い手が生み出した美しさが、自分を置き去りにして、どこか遠い場所へと羽ばたいていく。
「……私は、ここにいるのに」
呟きは、記者の拍手にかき消された。
光を浴びる人形と、闇に沈むその飼い主。
華々しい会見は続いていたが、由希の心は、底の見えない暗い穴へと滑り落ち始めていた。
会見を終えたマンションの室内は、外界の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
理久は玄関に入ると同時に、それまで纏っていた「若き天才」のオーラを脱ぎ捨てた。肩を丸め、ネクタイを緩めるその姿は、糸の切れた操り人形そのものだ。
「……疲れた。由希、僕、今の会見で何か変なこと言わなかったかな?」
理久が不安げに覗き込んでくるが、由希は冷たく突き放すようにリビングのソファへ座った。手元には、今日の録画映像と、事前に用意した想定問答のリストがある。
「座って。反省会を始めるわよ」
由希の低い声に、理久は抗うことなく床に膝をついた。ソファに座る由希を見上げるその位置が、今の二人にとっての「定位置」だった。
「十五分二十秒あたり。司会者に『次回作の構想』を聞かれた時、あなたは瞬きを二回多くしたわ。あそこは、もっと遠くを見つめるようにして三秒黙るべきだった。焦りが見えると、読者はあなたの神秘性に疑問を持つ」
「……ごめん。ライトが眩しくて、つい」
「言い訳はいらない。あなたは私の言葉を完璧に、無機質に出力する機械でいいの。機械に感情や反射は必要ないわ」
由希の言葉は、鞭のように理久を打つ。
彼女は録画映像を巻き戻し、理久の表情の変化を静止画で止めては、ミリ単位の修正を命じていく。手の添え方、視線の外し方、呼吸の間合い。
由希が教え込んでいるのは、文学の知識ではない。
「九条理久」という虚像を、いかにして世間の理想へと合致させるかという、精緻なプログラミングだ。
「さあ、やってみて。次のインタビューで必ず聞かれる『創作の苦しみ』についての回答。悲劇を演じるんじゃない、悲劇そのものになりきるのよ」
理久は一度深呼吸をし、ゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでの頼りなさは消え、その瞳には透明な絶望が宿る。
「……苦しみ、ですか。それは僕にとって、呼吸を止めて潜水し続けるようなものです。水底に沈んでいる言葉を拾い上げ、水面に持ち帰る。その途中で、何度も窒息しそうになる。でも、拾い上げずにはいられないんです。それが僕の……生きる意味だから」
由希は、その言葉が自分の喉を通り、理久の美しい唇から溢れ出すのを陶酔したような目で見守っていた。
完璧。
自分の脳内で生まれた、自分すら救えなかった言葉たちが、理久という「最高級の楽器」を通して奏でられることで、この世で最も尊い真実へと昇華されていく。
「……いいわ。今の回答なら、誰もあなたの『中身』が空っぽだなんて気づかない」
由希は理久の頬に手を伸ばし、慈しむように撫でた。
理久はその掌に縋り付くように顔を寄せ、安堵の溜息を漏らす。
「由希……君が正解を教えてくれないと、僕は自分が誰だか分からなくなる。君の言葉をインストールされている時だけ、僕は僕でいられるんだ」
由希は冷たい笑みを浮かべた。
理久を調教すればするほど、彼は自分の手の中に収まっていく。世界中が彼を崇め奉っても、彼の本質を支配しているのは自分だけ。
その支配欲こそが、自分自身の存在が消えていく恐怖に対する、唯一の解毒剤だった。
午後二時。区役所の待合ロビーは、淀んだ空気と、番号を呼び出す機械音に支配されていた。
由希は深くフードを被り、硬いプラスチックの椅子に沈み込んでいた。手元には、理久の納税関係の書類が詰まった封筒。
「二百十四番の方、窓口へどうぞ」
呼ばれて立ち上がった由希の前に、事務的な眼鏡をかけた女性職員が座っていた。
由希が書類を差し出すと、職員の手が止まった。
「……これ、九条理久さんの委任状ですよね? 本人確認書類のコピーも付いてますけど……ご本人様はどうされたんですか?」
職員の目が、疑わしげに由希をなめる。
ボサボサの髪に、隠しきれない目の下の隈。成功の絶頂にいる天才作家の使いとしては、あまりに不釣り合いだった。
「体調を崩しています。私は、その……事務的なことを任されているので」
「事務的、ね。……佐伯さん、あなたのご職業は?」
問いかけに、由希の喉が詰まった。
「……無職です。彼の、身の回りの手伝いをしているだけで」
「失礼ですけど、いわゆる『家事手伝い』か何かですか? 最近、九条さんのような有名人の周りには、いろいろな方が寄ってくると聞きまして。この委任状、本当にご本人の意思で書かれたものですか?」
職員の言葉には、隠しきれない蔑みが混じっていた。「若くて成功した男に寄生する女」というレッテルを、正面から突きつけられた。
「意思も何も、私が――」
私が書いた。そう言いかけて、由希は舌を噛んだ。
それを言えば、すべてが終わる。
「……とにかく、不備はないはずです。早く進めてください」
押し黙る由希の隣に、二十代前半の女性二人組が座った。彼女たちの手には、理久の三冠受賞を報じるワイドショーが流れるスマートフォンと、真新しい『泥の王』の単行本があった。
「ねえ見て、この九条先生のインタビューの言葉。『孤独は呪い』ってやつ。マジで刺さるんだけど。どうやったらこんな綺麗な言葉が出てくるのかな」
「本当。あんなに美しい人が、こんなに深い絶望を抱えてるなんて……もう、九条先生そのものが、神様が書いた物語みたい」
隣から聞こえる弾んだ声が、由希の耳を削る。
職員が冷たく言い放つ。
「佐伯さん。データの更新は終わりました。ですが、あなたの住民票、もうすぐ有効期限が切れますよ。更新しないと、あなたはこの街に『存在しない』ことになります。……まあ、九条さんのような方に付いていれば、ご自身の名前なんてどうでもいいのかもしれませんけど」
嫌味を込めて返された書類を、由希は奪い取るように掴んだ。
隣の女性たちが、怪訝そうに由希を見た。
「何、あの人。怖……」
「九条先生のファンなら、もっと身なり整えればいいのにね」
由希は彼女たちを振り返り、その手にある『泥の王』を指さした。
「……その本、三十二ページの四行目を見て」
「は? なに急に」
「そこに、『僕の沈黙は、誰にも暴かれないための防壁だ』ってあるでしょ。……その一文を書くのに、三日三晩、一睡もせずに考え抜いた人間がいるのよ。……その人は、神様なんかじゃない。ただの、名前を失った幽霊よ」
女子たちの顔が引きつる。
由希はそれ以上何も言わず、逃げるように区役所を飛び出した。
外に出ると、大型ビジョンの中の理久が、眩しすぎる笑顔を振りまいていた。
自分はここにいる。自分がその一文を生んだ。
なのに、隣に座ったファンにすら認識されず、役所のデータ上では「無職の寄生虫」として処理される。
住民票の期限が切れる。
自分がこの世界から消えていく足音が、はっきりと聞こえた気がした。
都内最大級の書店の特設会場は、異様な熱気に包まれていた。
三冠受賞後初となる、九条理久のサイン会。整理券は配布開始から数分で予定枚数に達し、会場の外まで溢れたファンの列が蛇のようにうねっている。
会場の隅、パーテーションで仕切られた関係者控室の隙間から、由希はその光景をじっと見つめていた。
視線の先では、理久が聖者のような微笑みを浮かべて座っている。
「先生、あなたの本を読んで、死ぬのをやめました」
一人の女子学生が、震える手で『泥の王』を差し出し、涙ながらに訴える。
理久は、彼女の目を真っ直ぐに見つめ、ペンを置いてその両手を優しく包み込んだ。
「……生きていてくれて、ありがとう。僕の言葉が、君の夜の防波堤になれたのなら、これ以上の喜びはありません」
由希の心臓が、ドクリと跳ねた。
その台詞は、今朝、マンションを出る直前に由希が理久の耳元で何度も唱えさせた「正解」だ。
女子学生は、救済を受けたかのように顔を輝かせ、何度も頭を下げながら去っていく。
(……そうよ。もっと泣きなさい。もっと彼を崇めなさい)
由希は暗がりのなかで、歪んだ優越感に浸っていた。
目の前で繰り広げられているのは、理久とファンの交流ではない。由希の思考と、見知らぬ他者の魂が、理久という媒体を通じて直接繋がっているのだ。
「九条先生、次の一冊も待っています! 先生の言葉がないと、もう生きていけません!」
次々に訪れる読者たちが、理久を「神」として祭り上げていく。
その光景を見ているうちに、由希の脳内には、万能感という名の毒が回り始めた。
自分は神を造った。自分の一言で、これほど多くの人間の感情を自在に操れる。この会場にいる誰よりも、自分はこの空間を支配している。
「……気持ちいいわ」
思わず、独り言が漏れた。
名前なんていらない。姿なんて見えなくていい。
この世界を裏側から動かしているのは私だという確信が、由希を激しく昂ぶらせる。
だが、ふと理久と目が合った瞬間、その全能感に冷や水が浴びせられた。
理久の瞳は、ファンを見つめているようでいて、その実、何も映していない。それは、主人が命じた通りに動く、精巧な自動人形の目だった。
(……あなたは、それでいいの? 理久)
人々は、彼の中身が空っぽであることに気づかない。
由希が用意した美しい装飾を、彼の本質だと信じ込み、勝手に救われていく。
自分が生み出した「神」に群がる人々を、由希は冷徹な視線で見つめ直した。
ここにあるのは救済ではない。
一人のゴーストが描いた虚像に、世界中が熱狂的に騙されているという、滑稽で残酷な茶番劇だ。
由希は、パーテーションの影から理久の背中に呪文をかけるように囁いた。
(……もっと完璧に演じて。あなたが完璧であればあるほど、私の『不在』は完璧なものになるんだから)
サイン会後の興奮が冷めやらぬまま、書店の応接室では新作の打ち合わせが始まっていた。
対峙するのは、修英館の瀬尾。彼は分厚い眼鏡の奥にある鋭い瞳で、理久を値踏みするように見つめている。
「九条先生。三冠受賞、改めておめでとうございます。ですが、我々が求めているのは過去の栄光ではなく、次の一行です。……『泥の王』で描かれた、あの徹底した虚無。次作ではそれを、どう『救済』へと繋げるおつもりですか?」
瀬尾の問いは、あまりにも抽象的で、本質を突いていた。
理久の顔から、営業用の微笑みがわずかに引きつる。彼の中に、瀬尾の言葉を咀嚼し、打ち返すための「思考の種」は存在しない。
「救済、ですか……。それは、まだ僕の中でも、濁った水の底に沈んでいるような状態で」
理久は、事前に由希から教わっていた「逃げの台詞」を口にする。だが、瀬尾はそれを許さなかった。
「水の底、ですか。では、その底にあるのは『冷たさ』ですか? それとも『安らぎ』ですか? 先生、あなたの言葉で聞かせてほしい。……この作品を、あなたは自分のどの部位を削って書いたのか」
瀬尾が身を乗り出す。沈黙が重く部屋にのしかかる。
理久の額に、じわりと脂汗が浮かんだ。彼は無意識に、右耳の奥にある極小のインカムに神経を集中させる。
(……理久、落ち着いて。私の言う通りに言って)
パーテーション一枚隔てた隣の資材室。由希は、盗聴器を通じて漏れる理久の荒い呼吸を感じ取っていた。彼女は、理久の「輸血」となる言葉を、鋭く、正確に紡ぎ出す。
(救済なんて言葉に、安易に乗らないで。……『救済とは、絶望が完成した時に訪れる副産物に過ぎない』。そう言い切って)
「……瀬尾さん。僕にとって救済とは、絶望が完成した時に訪れる、ただの副産物に過ぎないんです」
理久が、由希の言葉をそのままトレースする。
瀬尾の眉が、ピクリと動いた。
「副産物、ですか」
(続けて。……『光を描くために太陽を見る必要はない。暗闇を深く掘れば、そこにある発光体に行き着くはずだ』。視線は、瀬尾さんのネクタイの結び目あたりをじっと見て)
「光を描くために、太陽を見る必要はないんです。暗闇を深く、深く掘り下げていけば、自ずとその先にある発光体に行き着く。……僕は今、その土の感触を指先に感じているところです」
理久の声に、由希の「狂気」が宿る。
瀬尾は数秒間、理久を凝視していたが、やがて深く息を吐き、手帳を閉じた。
「……失礼しました。今の言葉、鳥肌が立ちましたよ。やはり九条先生、あなたは本物の『化け物』だ。土の感触、楽しみに待っています」
瀬尾が部屋を出た瞬間、理久はその場に崩れるように椅子に沈み込んだ。
由希が資材室から姿を現す。
「……お疲れ様。よく言えたわね」
「由希……死ぬかと思った。あんな風に踏み込まれたら、僕、もう何も出てこないよ」
理久は震える手で、耳のインカムを外した。
由希は冷ややかに、理久の濡れた前髪を整える。
「いいのよ。あなたは私の言葉を食べていればいい。……あなたの喉を流れる私の言葉が、世界を黙らせる。最高の気分でしょう?」
由希は、自分の「言葉」という血を理久に注ぎ込み、彼を生かし続けることに、背徳的な悦びを感じ始めていた。
深夜二時。タワーマンションの静寂は、外界から切り離された深海のようだった。
由希はリビングのデスクで、瀬尾に提示した「暗闇の先にある発光体」という言葉を具現化するためのプロットを練っていた。背後で、重い衣擦れの音が聞こえる。
「……由希、まだ寝ないの?」
理久が、着崩したバスローブ姿でふらふらと近づいてきた。その手には、半分ほど空になったウィスキーのボトルが握られている。
昼間のサイン会で見せていた、あの神々しいまでの「天才作家」の面影はどこにもない。そこにあるのは、自らの虚像の重さに耐えかね、今にも崩れ落ちそうな青年の抜け殻だった。
「あと少しでこの章が終わるわ。あなたは先に寝ていて」
由希は画面から目を離さずに答える。だが、理久は由希の背中にのしかかるようにして、その首筋に顔を埋めた。酒の匂いと、微かな汗の匂いが混じり合う。
「怖いんだ。……今日、あの女の子に『救われました』って言われたとき、一瞬、本当に僕が書いたんじゃないかって錯覚しそうになった。でも、すぐに気づくんだ。僕の指先には、ペンだこ一つない。僕の脳みそには、一文字の物語も詰まっていないって」
理久の腕が、由希の腹部を強く締め上げる。
「みんなが僕を愛せば愛すほど、僕の中の『僕』が消えていく。……ねえ由希、僕って何? 僕は君の言葉を喋るだけの、ただのスピーカーなの? それとも、君が世の中を笑い者にするための、一番贅沢な小道具なの?」
理久の声は震え、やがて嗚咽に変わった。
由希はタイピングを止め、理久の細い指を一本ずつ引き剥がして、彼と向き合った。
「……そうよ。あなたはスピーカーで、小道具で、私の最高傑作よ。それが不満なの?」
「不満じゃない……。でも、苦しいんだ。世界中が僕を見ているのに、誰も僕を見ていない。僕が愛されているのは、君の脳みそなんだ。僕のこの顔も、声も、君の言葉を飾るための額縁に過ぎない……!」
理久は由希の膝に顔を押し当て、子供のように泣きじゃくった。
由希はその美しい髪を、冷徹な慈しみを持って撫でる。
理久が空っぽになればなるほど、由希の言葉は彼の中で響き渡る。
理久が孤独に苛まれれば苛まれるほど、彼は由希という供給源なしでは生きていけなくなる。
「いいのよ、理久。空っぽでいい。空っぽだからこそ、私の言葉が完璧に収まるの。……あなたは私に縋っていればいい。私があなたに『正解』を与え続けてあげる。だから、泣き止んで。明日の撮影に響くわ」
由希の言葉は、慰めではなく呪縛だった。
理久は涙に濡れた顔を上げ、由希を縋るような目で見つめる。
「……君がいないと、僕はもう呼吸の仕方もわからなくなる。僕を、見捨てないで。僕の全部を使っていいから、僕をひとりにしないで」
理久は由希の手にしがみつき、何度もその指先に口づけを落とした。
それは愛などという美しいものではなく、溺れる者が藁を掴むような、醜くも切実な依存の証明だった。
理久が寝静まった深夜。由希はリビングで、理久のスマートフォンの通知が絶え間なく放つ青白い光に照らされていた。
彼女がログインしているのは、フォロワー数が三冠受賞後に数倍へ跳ね上がった、九条理久の公式アカウントだ。
「……ねえ、由希。まだやってるの?」
寝室から出てきた理久が、怪訝そうに覗き込む。由希は視線も上げずに答えた。
「寝てなさいって言ったでしょ。今、あなたが明日の生放送で『うっかり口走るはずの言葉』を、SNSで先出しして伏線を張っているところよ」
「……伏線?」
「そう。さっき投稿したわ。『言葉は、沈黙という深海を泳ぐ魚だ。水面に揚げられた瞬間に、その輝きを失ってしまう』。……見て。投稿して一分で、世界中があなたの孤独を勝手に解釈して、憐れんで、崇拝し始めている」
由希はスマートフォンの画面を理久の目の前に突きつけた。そこには、熱狂的なリプライが滝のように流れ続けている。
『九条先生、なんて切ない言葉……』
『先生の孤独が痛いほど伝わります。どうか一人で抱えないで』
理久はそれを見て、気味の悪いものを見るように顔を顰めた。
「……気持ち悪いよ。僕、そんなこと一文字も思ってないのに。孤独なフリをして、みんなを騙しているみたいで」
「みたいじゃない。騙しているのよ。それも、最高の形でね」
由希は嘲笑うように立ち上がり、理久に詰め寄った。
「見てなさい。あなたが明日、テレビで一言『昨日の夜、ふと深海にいるような気分になって』と呟くだけで、この何十万人の信者たちは、聖書を読み解くようにあなたの言葉を分析し始めるわ。……滑稽だと思わない? 自分の指先ひとつで、これだけの人間を自在に踊らせることができるのよ」
「由希……君、目が怖いよ。そんなに人を操るのが楽しいの?」
「楽しい? ……ええ、楽しいわ。私の本名で書いた時は、誰も見向きもしなかった。ゴミ扱いされた言葉たちが、あなたの顔がついた途端に『天啓』に変わる。この歪んだ世界を、あなたの皮を被って支配してやるの。これは私の、社会への復讐よ」
由希の声は、熱を帯びて震えていた。理久は、目の前にいる女が、自分の知っている由希ではない別の何かに変質していくのを感じて、後ずさりした。
「君は、僕を使って世界を笑っているだけだ。……そこに、僕への愛はあるの?」
「愛? ……そうね。私は、私の言葉を完璧に演じる『九条理久』を、心から愛しているわ。だから、あなたはこれからも、私の最高の人形でい続けなさい。……ほら、次の投稿の返信を考えなさい。この『先生の孤独に寄り添いたい』って言ってる哀れなファンに、どう絶望を返してあげる?」
由希は、理久の手を無理やり掴み、スマートフォンを握らせた。
青白い光に照らされた二人の顔は、共犯者というよりも、呪いを確認し合う悪魔のようだった。
「……打ちなさい。私の言う通りに」
由希の命令に、理久の指は震えながら、自分のものではない「孤独」を綴り始めた。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む冷ややかな朝日が、リビングを白く焼き切っていた。
由希は理久を鏡の前に座らせ、乱れた髪をコームで整えていた。鏡の中には、昨夜の醜態が嘘のような、彫刻じみた美貌の男が映っている。
「……ねえ、由希。君はさ、鏡を見ている時、誰を映しているつもり?」
理久が不意に、鏡越しに由希の瞳を捕らえた。由希の指が、一瞬止まる。
「何を馬鹿なことを。あなたを整えているのよ。これから生放送のインタビューがあるんだから」
「違うよ。君の目は、僕を見ていない。……君が鏡の中に映しているのは、君がなりたかった『九条理久』という名の、理想の自分だ。僕の顔を借りて、君は自分の魂を眺めているんだろう?」
由希はコームを強く握りしめた。その言葉は、無意識の深淵に隠していた真実を、鋭い針で刺し貫くような響きを持っていた。
「……黙って。あなたは、私の言う通りに動いていればいいの」
「でも、怖くないかい? 鏡を覗き込みすぎて、いつか自分が鏡の中に吸い込まれてしまうのが。……最近さ、僕、ときどき分からなくなるんだ。君の髪を整えているのが僕で、鏡に映って化け物を演じているのが君なんじゃないかって」
由希は鏡の中の理久をじっと見つめた。
すると、奇妙な錯覚が起きた。鏡の中にいる男の瞳が、自分の抱いている「憎悪」や「全能感」で濁っているように見え、逆に背後に立っている自分の輪郭が、霧のように薄れていく。
鏡の中の男が、自分に向かって嘲笑を浮かべている。
私はここに立っているのに。
この手に触れているのは、温かい人間の肌のはずなのに。
由希はたまらず理久の肩を強く掴み、爪を立てた。
「……吸い込まれたりしない。私が、あなたという器を支配しているの。私が本体で、あなたはただの影……」
「逆だよ、由希。世界から見れば、僕が光で、君が消えかかっている影だ。……ほら、見てごらんよ。鏡の中の僕は、こんなに鮮やかだ」
理久が、由希の頬に自分の指を重ねる。
鏡の中では、二人の顔が一つの不気味な形に溶け合っているように見えた。
誰が書き、誰が語り、誰が愛されているのか。
その境界線が、朝の光の中で残酷に溶けていく。
「……時間よ。行きなさい。完璧な『九条理久』を、世界に見せてくるのよ」
由希は逃げるように手を離し、理久の背中を押し出した。
理久は何も言わず、ただ一瞬だけ悲しげな目を鏡に残して、玄関へと向かった。
独り残されたリビングで、由希は鏡の前に立ち尽くした。
そこに映っていたのは、もはや誰のものでもない、名前を失った女の、空虚な表情だけだった。
生放送の収録を終え、疲れ果てて帰宅した理久は、リビングの床に座り込む由希の膝に、そのまま崩れるように頭を預けた。
深夜の静寂が、二人の荒い呼吸を際立たせる。
「……やり遂げたよ、由希。君が言った通り、一度も目を逸らさずに『孤独』について語ってきた。司会者も、スタッフも、みんな僕の言葉に酔いしれていたよ。……僕の、偽物の言葉に」
理久の声は、今にも消え入りそうに細い。彼は由希の細い腰に両腕を回し、まるで母親を求める子供のように、その体に顔を押し付けた。
「怖いんだ。……みんなが僕を褒めるたびに、僕の本当の中身が、砂みたいにサラサラとこぼれ落ちていく。僕にはもう、君の言葉を貯めておくための器すら残っていないかもしれない。ねえ、由希……僕を、繋ぎ止めて」
理久が顔を上げ、濡れた瞳で由希を見つめる。その距離は、吐息が触れ合うほどに近かった。
「……あなたは、私の最高傑作。代わりのいない、たった一つの器よ」
由希は逃げ場を失った理久の首筋に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
彼女が彼を求めているのか、それとも、彼の中にある「自分の物語」を抱きしめているのか、もはや判別はつかない。
重なり合った唇からは、愛の言葉ではなく、互いの虚無を埋め合わせるための、切実で醜い執着の味がした。
理久の舌先が、由希の唇を割り、彼女の呼吸を奪おうとする。由希はそれを受け入れながら、理久の背中に深く爪を立てた。
「……ねえ、理久。私たちは、もう死ぬまで一緒よ。あなたが私の言葉を捨てられないように、私もあなたの体から逃げられない」
「それでいい……。由希の言葉が僕の体中を流れて、僕の血が君のインクになればいい。僕を……もっとめちゃくちゃに壊して、君の物語の一部にして……」
理久の懇願は、ほとんど絶叫に近い熱を帯びていた。
二人のキスは、愛情を確認する儀式ではなく、互いの境界線を溶かし、一つの異形な怪物へと成れ果てるための契約だった。
暗いリビングで、絡み合う二人の影。
理久の指先が由希の服を乱し、由希の吐息が理久の耳元を焼く。
愛されているのは自分なのか、それとも「才能」なのか。
そんな問いさえも、加速する狂熱の中に消えていった。
数日後。リビングの大型モニターには、録画されたインタビュー番組が映し出されていた。
画面の中の九条理久は、もはや一寸の隙もない「完璧な天才」と化していた。由希が教え込んだセリフ、間、視線の配り方。彼はそれらすべてを自分自身の血肉としたかのように、滑らかに、そして残酷に美しく出力していた。
「……完璧ね」
由希は暗い部屋で、モニターを見つめながら独りごちた。
画面内の理久が微笑むたびに、SNSのタイムラインは狂騒的なまでの称賛で埋め尽くされる。由希がかつて、誰にも届かない安アパートの片隅で、泣きながら書き殴った孤独の叫びが、今や日本中の若者の「聖書」として崇められている。
「ねえ、由希。見た? 今日の僕、一度も台本を確認しなかったんだ。君が何を言ってほしいか、呼吸するように分かるようになったよ」
理久が、自信に満ちた足取りで部屋に入ってきた。
かつての怯えたような瞳は影を潜め、その表情には、自らが作り上げられた虚像であることさえ忘れ去ったような、傲慢なまでの輝きが宿っている。
「……そう。あなたはついに、私がいなくても『九条理久』でいられるようになったのね」
「何言ってるんだよ。君が僕を創ったんじゃないか。僕は、君が夢見た最高の主人公だよ。……感謝してほしいな。君のドブネズミみたいな才能に、僕がこれだけの光を当ててあげたんだから」
理久の口から出たのは、由希が教えたセリフではなかった。
それは、賞賛という毒を浴び続け、肥大化した彼自身の「エゴ」が放った、初めての言葉だった。
由希の心臓が、冷たく凍りつく。
自分が精巧に作り上げた操り人形が、主人の手を離れ、自ら意思を持って語り始めた。その瞬間、由希は自分が社会的に死んでいるだけでなく、この部屋の中でさえ、自らが作り上げた「虚像」に居場所を奪われようとしていることに気づいた。
「……理久、あなたは」
「おっと、次の打ち合わせの時間だ。由希、新作の続き、明日までに仕上げておいてよ。今の僕は、世界で一番忙しい作家なんだからさ」
理久は由希の頭を軽く叩き、軽やかな足取りで部屋を出て行った。
カチリ、と玄関の鍵が閉まる音が、由希の耳に重く響く。
独り残された広すぎるリビング。
モニターの中では、録画された理久が「僕は、自分自身の言葉にしか興味がありません」と、由希の書いた嘘を堂々と宣言し、観客が熱烈な拍手を送っている。
万能感は、いつの間にか、底知れぬ恐怖へと塗り替えられていた。
世界が「九条理久」を本物だと信じ、そして彼自身もまた、自分が本物だと信じ始めたとき、産みの親である由希は、ただの「不要な残骸」へと成り下がる。
「……私は、ここにいるのに」
震える指をキーボードに置く。
だが、その指先からは、一文字も言葉が浮かんでこなかった。
窓の外の夜景は、由希を嘲笑うように、届かない場所で冷たく輝き続けていた。




