第1話:ゴーストの晩餐
四十二階、地上百五十メートル。この高さまで来ると、外界の雑音は一切遮断され、耳の奥で自分の鼓動だけがやけに大きく響く。
窓の外に広がるのは、無数の光がうねる東京の夜景だ。だが、この部屋を支配しているのは、冷徹なまでの静寂と、人工的な無機質さだった。
部屋の中央に置かれた大きな姿見の前で、九条理久は自分の顔を「点検」していた。
磨き上げられた鏡の向こうには、彫刻のように整った顔立ちの男がいる。伏せられた睫毛の長さ、潤いを帯びた唇の形、そして、どこか悲劇的な陰りを帯びた瞳の光。
彼は、自らの喉仏を細い指先でなぞった。
「……言葉は、僕にとって救いじゃなかった。それは、僕を縛り付けるための鎖だったんだ」
理久が唇を動かす。
低く、甘く、それでいて僅かに掠れた声。その発声、抑揚、そして視線を落とすタイミング。すべては計算され尽くした「演技」だった。
理久は満足げに口角を数ミリだけ上げる。だが、その微笑みは鏡の表面で滑り落ち、彼の内面には届かない。
「違う。……もっと低く。今の言い方じゃ、ただの安い悲劇のヒーローよ」
背後の闇から、冷ややかな声が突き刺さった。
理久が動きを止める。鏡の隅に、デスクの明かりだけを頼りに座り込む一人の女が映り込んでいた。
佐伯由希。
膝まである古いスウェットに身を包み、乱雑に結い上げられた髪からは、数本の毛束が疲れたように垂れ下がっている。彼女の指先は、絶え間なくキーボードの上を走っていた。
「由希、今のじゃダメかな? 結構、自分では入ってたつもりなんだけど」
理久が振り返る。その瞬間、鏡の中にいた「天才作家・九条理久」は消え、どこか頼りなげな、空っぽな青年の顔に戻った。
「あなたの『つもり』なんてどうでもいい。読者が求めているのは、才能という名の呪いに焼かれている九条理久。あなたは、私が書いた言葉の、ただの器なの」
由希は一度も視線を上げない。彼女の瞳は、激しく流れるカーソルの動きを追うことだけに費やされている。
カタカタ、という乾いたタイピング音だけが、広いリビングに銃声のように響く。
「もう一度。次は、自分の言葉に絶望して。一文字一文字が、自分の血を吸って生まれた化け物だと思って吐き出して」
「血を吸った、化け物……」
理久は再び鏡に向き直る。
彼は由希の指示を、まるで精密なプログラミングのように脳に読み込ませる。彼に創造性はない。しかし、他人の感情をトレースし、美しく出力することに関しては、類まれな才能を持っていた。
「……言葉は、僕にとって救いじゃなかった。それは、僕を縛り付けるための鎖だった」
今度の声には、確かな重みが宿っていた。
由希の指が止まる。
彼女はゆっくりと顔を上げ、モニターの反射で青白く光る顔で理久を見た。
「……そう。それよ。明日のインタビュー、そのトーンを忘れないで」
由希の肯定を受け、理久は安堵したように肩の力を抜いた。
彼は由希のデスクに近づき、その細い肩を背後から包むように手を置いた。
「よかった。君が合格って言ってくれると、本当に自分が天才になったみたいに錯覚できるよ」
理久の指先は温かい。だが、由希はその温もりに吐き気のようなものを感じていた。
理久が纏っているその「天才のオーラ」も、世間を熱狂させている「言葉」も、すべては由希がこの暗い部屋で、内臓を削るようにして絞り出したものだ。
理久という完璧な偶像を完成させるために、由希という人間は少しずつ、透明な存在へと変質していく。
「錯覚じゃない。あなたは今日から、世界が認める『三冠作家』になるのよ。……私の名前を、殺した代わりにね」
由希の呟きは、理久の耳に届く前に、空調の低い唸りにかき消された。
理久がリビングの隅でワインの準備を始めた気配を感じながら、由希は再び、発光するモニターの海へと意識を沈めた。
彼女の右手首には、湿布の上から巻かれたサポーターが痛々しく食い込んでいる。腱鞘炎の鈍い痛みは、もはや彼女にとって、自分が「書いている」ことを実感するための唯一の感覚となっていた。
キーボードのキートップは、指先の摩擦によって数箇所がテカり、刻印が消えかかっている。
「……あと、三千文字」
独り言が、乾いた唇から零れた。
由希の脳内では、物語の登場人物たちが勝手に動き出し、互いの喉元をナイフで突き立て合っている。彼女の仕事は、その凄惨な光景を、理久というフィルターが通せる「美しい毒」へと翻訳することだ。
理久が世間に向けて放つ一文字一文字は、由希にとって自傷行為に等しかった。
自分が生み出した最愛の子供たちに、他人の名前のタグを貼り付け、市場へと出荷する。
最初は、それでいいと思っていた。
どんな形であれ、自分の物語が世界に届くなら、名前なんて記号に過ぎない。そう自分に言い聞かせてきた。
しかし、理久がスターダムを駆け上がるにつれ、言葉は由希の手を離れ、彼女自身を蝕み始めた。
理久のサイン会に、変装して並んだことがある。
読者たちが目を輝かせ、理久に向かって「先生の本に救われました」と涙ながらに訴える姿を見た時、由希が感じたのは歓喜ではなかった。
それは、自分の魂を白昼堂々、目の前で盗み取られているような、猛烈な略奪感だった。
理久がその読者に向けた「ありがとうございます。僕も、あなたの言葉に救われますよ」という、由希が教え込んだ通りの台詞。
その瞬間、由希の中で何かが音を立てて壊れた。
「由希、あんまり詰めすぎないで。君が倒れたら、僕も死んじゃうんだから」
理久がグラスを持って近づいてくる。
由希は反射的に、画面を隠すように身を乗り出した。
「見ないで」
「えっ……?」
「書き上がるまで、一文字も読まないで。あなたは完成品だけを飲み込めばいいの」
由希の拒絶は、悲鳴に近い鋭さを持っていた。
彼女にとって、執筆中の原稿は剥き出しの臓器と同じだ。それを、自分の言葉を一文字も生み出せない「空っぽの器」に覗き見られることは、耐え難い侮辱だった。
理久は困ったように眉を下げ、それ以上は踏み込まなかった。彼は、由希がこうして「作家の狂気」を剥き出しにする瞬間を、どこかで楽しんでいる節がある。
彼にとって、由希の苦悩は「美味しい原稿」を作るためのスパイスに過ぎない。
由希は震える指先で、再びキーを叩く。
パチ、パチ、パチ。
爪がキーボードを叩く音が、静まり返った部屋で拍手のように響く。
画面の中で、物語の主人公が絶望に沈んでいく。
その絶望が深ければ深いほど、現実の理久は輝きを増し、由希は影の中へと埋没していく。
この指先から生まれる言葉たちが、自分を消し去るための葬送行進曲であることを知りながら、由希は書くことを止められなかった。
彼女の視界が、疲労でわずかに歪む。
モニターの青白い光が、由希の瞳の奥に焼き付いて離れなかった。
「……由希、そろそろ着替えさせて。瀬尾さんが来る前に、完璧にしておかないと」
理久の声に応じ、由希は重い腰を上げた。執筆で硬直した背骨が、動くたびに小さく悲鳴を上げる。
二人はベッドルームへと移動した。そこには、都内の高級セレクトショップから取り寄せた、一般人には手の届かないような衣装が並んでいる。
理久は、幼い子供のように従順に両腕を広げて立っていた。
由希はクローゼットから、深いネイビーのシルクシャツを取り出す。理久の「中性的で清潔感のある、孤独な天才」というパブリックイメージを維持するために、由希がミリ単位のこだわりで選んだ一着だ。
由希の指が、理久のシャツのボタンを一つずつ留めていく。
指先が理久の白い肌に触れる。体温は高い。その熱を感じるたび、由希は自分が彼に命を吹き込んでいるような錯覚に陥る。これは着替えではない。粘土細工を仕上げるような、あるいは死者に死に装束を着せるような、冒涜的な儀式だ。
「昨日の夜、また夢を見たんだ」
理久が、由希の頭上でぽつりと呟いた。
「僕が舞台の上に立っていて、何万人もの人が僕を呼んでいる。でも、口を開いても声が出ないんだ。喉の中に、びっしりと黒い文字が詰まっていて……吐き出そうとしても、苦しくて。それで、ふと客席を見ると、君が僕の声を喉元から手繰り寄せているんだ。糸を引くみたいに、僕の喉から君の物語を全部奪い取っていく」
ボタンを留める由希の手が止まった。
見上げると、理久は虚空を見つめていた。その瞳には、彼自身も気づいていない「本物の孤独」が滲んでいる。
「奪い取っているのは、あなたの方よ」
由希は冷ややかに言い放ち、最後の一つのボタンを留めた。
次に、細身のネクタイを手に取り、彼の首に回す。首を絞めるような感触に理久は一瞬だけ身を強張らせたが、すぐにうっとりと目を細めた。
「そうかもね。僕は君の声を食べて、君の言葉で呼吸している。……ねえ由希、もっと強く結んで。僕が君から逃げられないように」
由希は言われるがまま、ネクタイの結び目を強く引き上げた。
苦しげに喘ぐ理久の顔。それは、世間の女性たちが熱狂する「九条理久」の顔ではなかった。
自分の才能に依存し、自分がいなければ一文字も語れない、無力で空虚な男の顔。
この瞬間だけが、由希が支配権を握れる唯一の時間だった。
彼女は、理久の襟元を整え、その整った顔立ちをじっと見つめる。
「あなたは、私の最高傑作よ、理久。だから、勝手に壊れることは許さない。……私があなたを殺す、その時までは」
理久はその言葉を、愛の告白であるかのように受け取り、満足げに微笑んだ。
二人の間にあるのは、愛などという生温かいものではない。
才能という名の麻薬で繋がった、逃げ場のない契約関係だ。
仕上げに、理久の髪を整える。
鏡の中に完成したのは、完璧な美貌と知性を兼ね備えた、若きカリスマ作家の姿だった。
由希は一歩下がり、自らが生み出したその「作品」を、憎しみと陶酔が混ざり合った瞳で見つめた。
ダイニングテーブルには、今夜のために理久が用意させたフルコースの料理が並んでいた。
三ツ星レストランのシェフがこの部屋のためだけに仕上げた、色彩豊かな一皿一皿。金色のカトラリーはダウンライトを反射して鋭く光り、クリスタルグラスの中では琥珀色の高級ワインが静かに揺れている。
世間が憧れる「若き成功者」の象徴のような食卓。だが、その場を支配しているのは、重苦しい沈黙だった。
理久は優雅にフォークを使い、仔羊のローストを口に運ぶ。
「……美味しいね。やっぱり、これくらいのレベルじゃないと、僕たちの成功には釣り合わないよ」
理久は心底幸せそうに、そして当然の権利であるかのように微笑んだ。
対面に座る由希は、一度も料理に手を付けていない。
彼女の前にあるグラスは、理久のそれと同じように満たされているが、由希はただ、皿の縁に付着したソースの染みをじっと見つめていた。
この料理の代金も、この部屋の家賃も、すべては自分の精神を削り出した「言葉」の対価だ。そう思うと、胃の奥が焼けるように熱くなり、食べ物を受け付ける余裕などなかった。
「……あなたは、本当に平気なのね」
由希が低く呟いた。
「何が?」
「こんな、味のしない嘘に囲まれて。自分が書いたわけでもない小説で、自分でもない『天才』を演じて。美味しいものをお腹いっぱい食べて、ふかふかのベッドで眠れる。……心が、悲鳴を上げたりしないの?」
理久は食べる手を止め、不思議そうに首を傾げた。
「どうして? 僕は君に名前を貸して、君は僕に物語をくれる。世界はそれを喜んで買ってくれる。誰も損をしていない、完璧なWin-Winじゃないか。悲鳴なんて聞こえないよ。聞こえるのは、賞賛の拍手だけだ」
理久の瞳は、どこまでも澄んでいた。
彼には「自分の言葉がない」という欠落に対する羞恥心も、罪悪感もない。あるのは、自分という空っぽの器が、由希の才能によって豪華に飾り立てられていることへの、無邪気なまでの充足感だけだ。
「……そうね。あなたはそうだったわね」
由希は自嘲気味に笑い、ワインを一口だけ含んだ。
喉を焼くアルコールの刺激が、麻痺しかけていた感覚を無理やり呼び起こす。
理久は、由希が何に苦しんでいるのかを理解できない。
自分が生み出した「九条理久」という化け物が、産みの親である由希の手を離れ、社会という怪物に飲み込まれていく恐怖。
そして何より、その化け物を世に送り出すために、自分自身の手で自分の存在を消し続けているという、この矛盾した絶望。
沈黙が再び二人を包み込む。
カチ、カチ、と壁の時計が時を刻む音が、秒針の数だけ自分たちの「本当の時間」を削り取っていくような気がした。
豪華なマンションの一室。
二人の男女が囲むテーブルは、もはや食事の場ではなく、互いの本質を隠し、偽物を磨き上げるための「嘘の祭壇」だった。
ワインの酔いが回ったのか、由希の意識は、現在から三年前のあの夜へと引き戻されていた。
記憶の中の空は、今夜のような澄んだ夜景ではなく、泥を混ぜたような重い雨に覆われている。
三年前。由希は、新宿の場末にある安居酒屋のカウンターで、びしょ濡れのまま座っていた。
手元には、大手出版社から返却されたばかりの原稿の束。表紙には「力作だが、地味」「キャラクターに華がない」という、もはや聞き飽きた定型文の不採用通知が添えられていた。
二十四歳。貯金は底を突き、夢を追い続ける体力も、諦める勇気も、どちらも枯れ果てていた。
その隣の席で、同じように死んだ目をしていたのが理久だった。
彼は当時、端役ばかりの売れないモデルで、事務所からは「顔がいいだけの使い捨て」と宣告された帰り道だった。
「……ねえ、君。それ、君が書いたの?」
理久が、由希の横にある原稿を指さして声をかけてきた。それが運命の始まりだった。
由希は自暴自棄になって、その原稿を彼に突き出した。
「そうよ。誰も読まない、ゴミみたいな傑作。……あなたは? 顔だけはいいみたいだけど、中身は空っぽなの?」
理久は怒りもしなかった。ただ、雨に濡れた原稿を数ページ読み、ふっと寂しそうに笑った。
「中身、あるよ。絶望っていう名前の塊がね。……僕、この文章の主人公になれる気がする。君の書く言葉なら、僕、完璧に演じてみせる」
由希は理久の横顔を凝視した。
雨に濡れ、街灯の下で青白く光るその顔。それは、彼女が小説の中で何度も描き、しかし現実には存在しないと諦めていた「孤独な美青年」そのものだった。
もし、この男が私の言葉を口にしたら。
もし、この美しい器に、私の魂を詰め込んで世界に差し出したら。
「……名前を貸して」
由希の声は、自分でも驚くほど震えていた。
「あなたの顔と名前を私に頂戴。私はその代わりに、あなたに誰も見たことがないような『才能』をあげる。私たちが組めば、世界を騙せるわ」
理久はしばらく黙って由希を見つめていたが、やがて、吸い込まれそうなほど純粋な笑みを浮かべた。
「いいよ。僕、何にでもなる。君の物語の一部になれるなら、魂だって貸してあげる」
土砂降りの雨の中、二人は店を出て、狭い路地裏で指切りを交わした。
湿った空気と、安酒の匂い。
あの日、二人が交わしたのは契約などという高尚なものではない。互いの欠落を埋め合わせるための、共犯者の契りだった。
「……由希? どうしたの、急に黙り込んで」
理久の声で、由希は現実に引き戻された。
目の前には、三年前の薄汚れた路地裏とは似ても似つかない、白亜のダイニングがある。
あの時、魂を貸すと笑った男は、今や日本中の羨望を浴びるスター作家だ。
そして自分は、その光が強くなるほどに、誰にも認識されない透明なゴーストへと成り下がっていく。
「……別に。あの日も、今日みたいに美味しくないお酒を飲んでいたな、って思い出していただけよ」
由希は冷めたワインを飲み干した。
あの日始まった嘘が、自分たちをどこまで遠い場所へ運んでいくのか。この時の由希には、まだ想像することすらできなかった。
由希は立ち上がり、リビングの書棚に並んだ数冊の単行本の一冊を手に取った。
装丁は重厚で、金文字のタイトルが踊っている。
――『泥の王』。九条理久、著。
それは由希が理久に「名前」を貸してから、初めて世に送り出した作品だった。彼女は無意識に、その一節を頭の中でなぞる。
『僕の心は、泥を固めて造られた王座だ。誰もがその美しさを称え、ひれ伏すが、触れればたちまち指先を汚し、不快な湿り気だけを残して崩れ去る。真実など、この玉座のどこにも埋まってはいない』
由希がこの一節を書き上げた夜、彼女は指先が震えて止まらなかった。これは自分の、誰にも言えなかった心の叫びだったからだ。
しかし、この文章が理久の「著作」として発売されるやいなや、世間は手のひらを返したように熱狂した。
『美貌の天才が描く、あまりにも痛切な自己批判』
『現代の虚無を射抜く、稀代の文章力』
書評には称賛の言葉が並び、SNSでは理久の端正な近影とともに、この一節が数万回も拡散された。
人々は理久の顔を見て、この文章を読み、勝手に彼の「深淵」を想像して涙を流した。
「……皮肉ね」
由希は本を棚に戻した。
「私が何年も、私の名前でこの文章を書いていた時は、誰一人として目もくれなかった。地味だ、暗い、市場価値がない。そう切り捨てられた言葉たちが、あなたの顔がついた途端に、救いの一文字に変わるんだもの」
理久はグラスを揺らしながら、少しだけ申し訳なさそうな、それでいて確かな優越感を湛えた目で由希を見た。
「それは僕が、君の言葉に『説得力』を与えてあげたからだよ。どれだけ正しい真実も、ボロボロの服を着た人が言うのと、王子様が言うのとでは価値が変わる。それがこの世界のルールなんだ。君が一番よくわかっていることだろ?」
理久の言葉は、正論だった。そして、それこそが由希を最も深く傷つけるナイフでもあった。
彼女は自分の言葉を愛していた。だが、自分の言葉だけでは世界に届かないことも知っていた。
理久というフィルターを通さなければ、彼女の魂はゴミ捨て場のガラクタと同じ扱いを受ける。
「そうね。……私はあなたの顔を愛し、あなたは私の言葉を愛した。私たちは、お互いを部品としてしか見ていない」
「ひどい言い方だな。僕は君の才能を、誰よりも崇拝しているのに」
理久はそう言って微笑むが、その瞳に映っているのは由希という人間ではなく、彼女の指先が生み出す「金の卵」でしかないことを、由希は見抜いていた。
劇中劇の中で、泥の王は最期に独りきりで崩壊する。
だが、現実の「泥の王」である理久は、今この瞬間も、由希が塗り固めた嘘の粘土で、より巨大で、より美しい玉座を築き上げていた。
晩餐も終盤に差し掛かった頃、理久がふと、窓の外の夜景を見つめながら口を開いた。
「なあ、由希。さっきの『泥の王』のセリフさ……『真実なんてどこにも埋まっていない』ってところ。あれ、僕、インタビューでは『僕自身の孤独な幼少期が投影されています』って答えようと思うんだけど、どうかな? その方が、読者は喜ぶよね」
由希の持っていたフォークが、カチャリと乾いた音を立てて皿に落ちた。
彼女はゆっくりと顔を上げ、理久の無邪気な瞳を射抜くように見つめる。
「……何を言ってるの?」
「いや、ほら。ただ『フィクションです』って言うより、作者の体験談だと言った方が深みが出るっていうかさ。瀬尾さんも、九条理久の『人間性』を売りたがってるし」
由希の胸の奥で、冷たい怒りがふつふつと湧き上がった。
あの文章は、由希が親の顔色を窺い、独りきりで図書室の隅にいた中学生時代の、誰にも触れさせなかった傷跡そのものだ。それを、この男は「演出」として、さも自分の傷であるかのように切り売りしようとしている。
「やめて。……あれは、あなたの過去じゃない。私の、私だけのものよ」
「わかってるよ、由希。でも、本を出したのは『九条理久』なんだ。僕が何を語ろうと、それは僕の自由……いや、僕の役目だろう?」
理久は困ったように笑いながら、ワインを口に含んだ。
その仕草の一つ一つが、由希には耐え難いほど「空っぽ」に見えた。
彼は自分が何を奪っているのか、その自覚すら失いかけている。由希が与えた仮面が、いつの間にか彼の肌に張り付き、剥がせなくなっているのだ。
「あなたは、自分が何者だと思っているの? あなたの中には、私が書いた台本以外、何もないのよ。一文字も、一行も、あなたは自分の言葉を持っていない」
「……わかっているさ。そんなこと、僕が一番わかってる」
理久の顔から、一瞬だけ表情が消えた。
それは、完成された彫像にヒビが入ったかのような、不気味な空白だった。
彼は鏡の前で練習した「悲劇の作家」の顔ではなく、ただの、道を見失った迷子のような目で由希を見た。
「でも、世間は僕を求めている。君の言葉を喋る、この僕をね。君だって、僕がいないと、その素晴らしい言葉を誰にも届けられない。……綻びなんて、見せちゃいけないんだ。僕たちが幸せでいるためには、この嘘を死ぬまで貫き通すしかないんだよ」
理久の手が、テーブルを越えて由希の手元に伸びてくる。
その指先が触れる直前。
沈黙を切り裂くように、理久のスマートフォンが激しく振動した。
テーブルの上で暴れる機械の音が、二人の歪な対話を強制的に終了させる。
理久は、救われたような、あるいは怯えるような顔で画面を覗き込んだ。
「……瀬尾さんだ」
その一言で、部屋の空気が一変した。
それは、ただの進捗確認の電話ではない。
二人の運命を、取り返しのつかない場所へと押し流す「濁流」の始まりを告げる合図だった。
震えるスマートフォンが、大理石のテーブルを叩く音が室内に鳴り響く。その無機質な振動音は、まるで二人の平穏を切り裂く警鐘のようだった。
理久は一瞬、躊躇するように指を止め、それから覚悟を決めたように通話ボタンをスライドさせた。
「……はい、九条です。……ええ、瀬尾さん。こんな時間にどうしたんですか?」
理久の声は、無意識のうちに「作家・九条理久」のそれに切り替わっていた。落ち着いた、余裕のある、それでいて少しだけ世俗から距離を置いたトーン。
しかし、受話器から漏れ聞こえてくる瀬尾の興奮した声が、その仮面を容赦なく剥ぎ取っていく。
『――先生! やりました! 信じられない、歴史が動きましたよ!』
瀬尾の、普段の冷静さからは想像もつかない怒鳴り声に近い叫び。
由希は息を止めて、理久の顔を凝視した。理久の瞳が、一拍ごとに大きく見開かれていく。
「……三冠? ……全部、ですか? 文芸新人賞だけじゃなくて、あとの二つも……?」
理久の声が裏返った。
由希の背筋に、氷水を流し込まれたような戦慄が走る。
三冠。
この国における主要な文芸新人賞すべてを、同一の作品が独占することを意味する言葉だ。それは、かつて誰も成し遂げたことのない、そして今後も誰も成し遂げ得ないであろう、空前絶後の快挙。
『ええ、全部です! 満場一致、異論なしです! 選考委員たちがこぞって「化け物が現れた」と震えていますよ。明日、いや今夜から世界が変わります。先生、あなたは今日この瞬間から、この国の文学そのものになったんです!』
瀬尾の電話が切れた後も、理久はスマートフォンを耳に当てたまま、呆然と立ち尽くしていた。
窓の外の夜景が、まるで理久を祝福するかのように一際激しく明滅している。
「……三冠だってさ、由希」
理久が、ゆっくりと視線を由希に戻した。
その瞳に宿っていたのは、成功の喜びではなかった。それは、あまりにも巨大すぎる「虚像」を背負わされた人間の、底知れぬ恐怖だった。
「僕たちが書いたあの『泥の王』が、全部獲っちゃった。……もう、逃げられない。日本中の人が、僕が書いたんだって信じて疑わなくなる。……ねえ、どうしよう、由希。僕は……僕は一行も書いてないのに」
理久の膝がガクガクと震え、彼はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
先ほどまでの万能感に酔いしれていた男の姿はどこにもない。そこにあるのは、自分自身の重みに耐えきれなくなった、ただの「偽物」の残骸だった。
由希は、立ち上がることも、彼に駆け寄ることもできなかった。
彼女の指先は、今も腱鞘炎の痛みを訴えている。
その痛みの結晶が、今、この世界で最も輝かしい栄誉へと化けたのだ。
それは本来、狂喜乱舞すべき瞬間。
だが、由希を支配していたのは、自分の魂が、もはや自分のものではない「公共の嘘」へと昇華されてしまったという、取り返しのつかない喪失感だった。
理久が崩れ落ちた直後、リビングの大型モニターが自動的にSNSのトレンドや緊急ニュースを拾い上げ、沈黙した部屋に一方的な喧騒を撒き散らし始めた。
『【速報】九条理久、文芸三冠達成の快挙。新人賞独占は史上初』
『美しき天才の誕生――文学界の閉塞感を打ち破る「泥の王」』
画面の中で流れるテキストの奔流。それは、由希が何年も、何十年も夢見ていたはずの景色だった。自分の紡いだ言葉が、世界に認められ、人々の心を震わせる。その瞬間を、彼女は渇望していたはずだった。
だが、現実はどうだ。
画面の中央に映し出されるのは、由希の顔ではない。理久が鏡の前で何度も練習した、あの「どこか悲劇的な陰りを帯びた瞳」だ。
「……あは、あははは!」
理久が突然、喉を鳴らして笑い始めた。床にへたり込んだまま、顔を覆って。
その笑い声は次第に大きくなり、やがて狂気を帯びて部屋中に反響する。
「すごいよ、由希。見てよこれ。僕、天才なんだって。誰もが僕の言葉に震えたんだって。僕が……僕が、この国で一番の『作家』なんだってさ!」
理久は立ち上がり、ふらつく足取りでモニターに駆け寄った。画面に映る自分の顔を、まるで聖像でも拝むかのように愛おしげに撫でる。その背中は、もはや由希の知っている臆病な青年ではなく、巨大な「嘘」を栄養にして膨れ上がった怪物のそれだった。
「……違う。それは私の言葉よ」
由希の声は、理久の笑い声に掻き消されそうなほど小さかった。
だが、彼女は震える足で一歩を踏み出し、理久の肩を掴んだ。
「それは私の血よ! 私が、あの暗い部屋で、死にたいと思いながら一文字ずつ削り出した私の魂なの! あなたのものじゃない、絶対に!」
理久はゆっくりと振り返った。
その瞳には、先ほどまでの恐怖は微塵も残っていない。代わりに宿っていたのは、背筋が凍るほど冷ややかで、透き通った「確信」だった。
「由希。君はまだそんなことを言っているの?」
理久の手が、由希の頬に添えられる。氷のように冷たい指先。
「世界が認めたのは『九条理久』だよ。君がどれだけ叫んでも、その言葉を証明する術はない。君が書いた原稿も、プロットも、すべて僕のパソコンから僕の名前で送られたものだ。……君は、もうどこにも存在しないんだよ、由希」
由希の心臓が、ドクリと大きく波打った。
自分が「名前」を貸したあの日、自分は自由になれると思っていた。評価されない自分を捨てて、物語だけを純粋に世に放てると思っていた。
だが、それは間違いだった。
名前を貸すということは、存在そのものを譲り渡すということ。
祝福のニュースが流れるたびに、佐伯由希という人間がこの世から消去されていく。
彼女は、自分が作り上げた偶像に、今まさに生きたまま喰い殺されようとしていた。
「おめでとう、由希。僕たちの、完全な勝利だ」
理久はそう言って、由希を強く抱きしめた。
由希は抵抗する力もなく、ただ理久の肩越しに、自分を抹殺し続けるモニターの光を眺めていた。
窓の外、夜明け前の東京が、不気味なほど白く染まり始めていた。
抱きしめる理久の腕から、逃れられない重圧を感じていた。
窓の外、夜景の宝石箱は少しずつその輝きを失い、街は薄汚れた灰色に染まり始めている。夜明けが近い。それは、嘘を覆い隠してくれた「夜」が終わり、残酷なまでの真実を照らし出す「朝」が来ることを意味していた。
「……ねえ、由希。これから忙しくなるよ」
理久が耳元で、甘く、毒を含んだ声で囁く。
彼は由希を解放すると、再び窓の方を向き、眼下に広がる街を見下ろした。その背中は、もはや一人の青年ではなく、数百万人の期待と羨望を背負った「虚像の巨人」そのものだった。
「テレビ出演、サイン会、長編の連載。君が書く物語を、世界が口を開けて待っている。もっと、もっとたくさん書かなきゃ。君の指が動かなくなるまで、僕を世界で一番の幸福な嘘つきにして」
由希は、自分の右手に視線を落とした。
サポーターに包まれた手首は、鈍く、拍動に合わせて痛みを刻んでいる。この手が動かなくなる日は、そう遠くないかもしれない。そうなった時、理久はどうするのだろう。そして、自分はどうなるのだろう。
一度回し始めた歯車は、もう誰にも止められない。
三冠という栄誉は、二人を繋ぐ絆を強固な鎖へと変えた。それは同時に、もしこの嘘が暴かれれば、待っているのは単なる破滅ではなく、逃げ場のない「公開処刑」であることも意味している。
「……わかったわ。書くわよ、理久」
由希は、デスクの椅子に深く腰を下ろした。
まだ熱を持ったままのノートパソコンを開く。暗い画面に、白く光るカーソルがひとつ、心臓の鼓動のように点滅していた。
「あなたが、私の言葉なしでは呼吸もできないくらい、美しい怪物に仕立て上げてあげる。世界中の人間が、あなたの嘘に酔いしれて、最後にはその嘘で窒息するまで」
キーボードに指を置く。
カチッ、という小さな音が、深い静寂の中に響いた。
それは、地獄の門が開く音のようでもあり、新しい物語が産声を上げる音のようでもあった。
由希の瞳から、迷いが消えていく。
自分の名前を捨て、自分の存在を消し、理久という「完璧な器」を通じて世界を支配する。その倒錯した快感が、恐怖を上書きしていく。
彼女は、自分が作り上げた「九条理久」という最高傑作と心中する覚悟を決めたのだ。
理久は、窓ガラスに映る自分を見つめ、陶酔したように微笑んでいる。
由希は、その後ろ姿を見つめながら、一文字目を打ち込んだ。
光を喰らう影。
名前を貸した夜。
二人の晩餐は、終わった。
テーブルに残された高価な料理は冷え切り、飲み干されたワインのグラスだけが、虚飾の宴の終わりを告げている。
やがて、太陽が地平線から顔を出した。
強烈な朝日が部屋に差し込み、豪華な家具や、高価な衣装、そしてキーボードを叩く由希の青白い顔を容赦なく照らし出す。
本当の地獄は、光の中から始まる。
由希の指先が加速し、部屋には再び、激しいタイピング音だけが鳴り響き始めた。




