第3話:最初の綻び
三冠受賞の熱狂から一週間。タワーマンションのリビングには、祝杯の残骸に代わって、重苦しい「期待」が積み上がっていた。
ソファに深く腰掛けた瀬尾は、分厚い眼鏡の奥の目を細め、理久が差し出したコーヒーには手を付けずに口を開いた。
「九条先生。お祝いの期間は、今日で終わりです。読者は、そして我々修英館は、あなたの『次の一文字』を飢えた獣のように待っています」
理久は、由希から教わった通りの「物静かでストイックな作家」の顔を崩さないように、浅い息を吐いた。
「……わかっています、瀬尾さん。ただ、今はまだ、頭の中に泥が溜まっていて、言葉が濾過されるのを待っている状態でして」
「泥。いい表現ですね」
瀬尾は手帳を広げず、理久の瞳をじっと見つめたまま続けた。
「ですが、以前あなたは『暗闇を深く掘れば発光体に行き着く』と仰った。泥を濾過するのを待つのではなく、その泥の中に手を突っ込んで、何かを掴み出すのがあなたのスタイルではないのですか?」
理久の喉が、小さく上下した。瀬尾の言葉は、以前、由希が授けたレトリックを逆手に取った、逃げ場のない追及だった。
背後の寝室、わずかに開いたドアの隙間から、由希がその様子を耳をそばだてて伺っている。彼女の手には、理久に渡したはずの「次作用設定資料」の予備が握りしめられていた。
「ええ、もちろん……。ただ、少し、静養が必要だと思っているんです」
「静養、ですか。先生、最近あなたの筆致について、文芸批評家の間である噂が流れているのをご存知ですか? 『九条理久は、あまりにも完成されすぎている。まるで、誰か別の人間が書いた楽譜を、完璧に演奏している演奏家のようだ』と」
理久の指先が、膝の上で微かに震えた。
「……それは、最高の褒め言葉ですね。僕という自我を消して、物語そのものになりきっている証拠ですから」
「果たしてそうでしょうか。私はね、先生。あなたの『血の匂い』がもっと嗅ぎたいんですよ。……明日、また伺います。今度は、あなたの書斎を見せていただけませんか? 作家がどんな環境で、どんなノイズの中で言葉を紡いでいるのか。それを知ることも、私の仕事ですから」
瀬尾が立ち上がる。その鋭い眼差しは、理久の背後にある「影」まで見通そうとしているかのようだった。
玄関のドアが閉まる音がした瞬間、寝室から由希が飛び出してきた。
「理久! どうして今の質問に、もっと強く答えなかったの! 『書斎は聖域だから、編集者と言えど踏み込ませない』って、あんなに言ったじゃない!」
由希の怒声に、理久は顔を覆ってソファに倒れ込んだ。
「無理だよ、由希……! あの人の目は、僕の化けの皮を一枚ずつ剥いでいくみたいなんだ。怖いんだよ、あの部屋を見られたら、一文字も書いていないことがバレる!」
「バレさせないために私がいるのよ! 明日の朝までに、あの部屋を『作家の仕事場』に作り変えるわ。……あなたは、ただ私の言う通りに震えていればいいの。いいわね?」
由希の言葉はもはや、協力者のものではなく、獲物を追い詰める捕食者の響きを帯びていた。
三冠という頂に立った二人の足元で、小さな、しかし決定的な「綻び」の音が鳴り始めていた。
翌朝、理久の「書斎」として用意された一角には、演出された静謐が漂っていた。
由希が徹夜で作り上げたのは、「苦悩する天才の痕跡」だ。机の上にはわざとらしく丸められた原稿用紙の山、読み込まれて背表紙の割れた哲学書、そしてインクの染みがついた万年筆。
瀬尾は音もなく部屋に足を踏み入れると、真っ先にデスクの上の灰皿に目を向けた。
「……先生は、煙草は吸われませんよね。なのに、この灰皿には微かに灰が残っている。どういうことです?」
理久の顔が、一瞬で強張る。由希がリアリティを出すために、自分が吸った煙草の灰を捨てたものだった。
「……それは、その。執筆が行き詰まった時、かつて愛した女性のことを思い出すための、一種の儀式のようなものです」
理久は由希が授けた「設定」を絞り出すように答えた。瀬尾はふむ、と短く頷き、今度は机の下のゴミ箱を覗き込む。
「儀式、ですか。……先生、この万年筆。ペン先が全く摩耗していない。まるで、つい昨日買ったばかりのように新しいですね」
「……観賞用ですから。実際は、キーボードで打つことがほとんどです」
「では、そのキーボードを見せてください」
瀬尾の要求は、執拗だった。
「キーのテカり方、特定の文字の磨り減り具合……それを見れば、作家がどんな言葉を多用し、どんな思考の癖を持っているかが分かります。見せていただけますね?」
理久は言葉に詰まり、背後に控えていた由希を振り返った。由希は事務員のような顔で立ち、冷たい汗を流しながら口を開いた。
「瀬尾さん、失礼ですが。先生は非常に神経質になっておられます。執筆ツールに他人の目が触れるのを嫌うのは、作家なら当然の潔癖症ではありませんか?」
「佐伯さん。あなたは九条先生の『何』ですか? 事務方だと聞いていますが、少々、先生を保護しすぎではありませんか?」
瀬尾の視線が、由希を真っ向から射抜く。
「私はね、先生。この部屋から『生活の匂い』がしないのが気になるんですよ。ここにある本も、原稿の山も、まるで映画のセットのようだ。あなたが本当に、この孤独の中で血を流して書いているのなら……なぜ、あなたの指にはペンダコの一つもないんですか?」
瀬尾が理久の手を取り、その白く滑らかな指先を強引に露わにした。
理久は悲鳴に近い吐息を漏らし、その手を振り払った。
「失礼だ! ……帰ってください、瀬尾さん。今日はこれ以上、一文字も書けそうにない」
「……失礼しました。少々、熱が入りすぎたようです」
瀬尾は謝罪の言葉を口にしながらも、その瞳には「確信」に近い光を宿していた。
「ですが九条先生。逃げ切れると思わないでください。言葉は嘘をつけますが、筋肉や皮膚は嘘をつけない。……次の打ち合わせまでに、あなたの『本物』を見せていただけることを期待しています」
瀬尾が去った後の書斎には、冷え切った空気だけが残された。
理久はガタガタと震える手で、自分の指先を見つめた。
「……由希、バレる。あいつ、僕を見てない。僕の嘘を剥がそうとしてるんだ!」
「……黙って。バレさせないわ。あいつが指を見たいなら、明日の朝までに、あなたの指に消えないタコを作ってあげるから」
由希の瞳には、瀬尾への敵意と、理久を支配し続けるための、どす黒い執念が渦巻いていた。
瀬尾が帰った後のリビングで、由希は狂ったようにキーボードを叩き、理久に渡すための「新たな設定資料」を作成していた。
「……いい、理久。次に瀬尾さんに会う時は、この『幼少期の放浪体験』を小出しにするの。あなたの指にタコがないのは、かつて指先を酷使して感覚を失ったから……というエピソードを補強したわ。これを一文字残らず暗記して」
由希がプリントアウトした紙を突き出すと、理久はそれを取ろうともせず、力なく首を振った。
「……もう無理だよ、由希。こんな細かい嘘、これ以上覚えられない。あの人の前に行くと、頭が真っ白になるんだ」
「覚えなさい! あなたは私が作った『九条理久』という役を演じる役者でしょ? 役者が台本を覚えないでどうするのよ!」
由希の罵声が部屋に響く。だが、理久はゆっくりと立ち上がり、由希の手から資料をひったくると、それを無造作に床へ投げ捨てた。
「役者だって、自分の心がないわけじゃない! 君の指示通りに動くたびに、僕の中の何かが死んでいくんだ。瀬尾さんは『血の匂い』が欲しいと言った。君の書くこの完璧な設定資料からは、インクの匂いしかしないんだよ!」
「インクの匂いの何が悪いの! そのインクが、あなたを三冠作家にしたのよ!」
「それがプレッシャーなんだって言ってるんだ! 世界中が僕に『次は何を見せてくれるんだ』って期待してる。でも、僕の手元にあるのは、君が書いた冷たい紙切れ一枚だけだ。……ねえ、由希。一度でいいから、僕自身の言葉で喋らせてよ。僕だって、悲しいとか、怖いとか、そういう感情はあるんだ」
理久は由希の肩を掴み、激しく揺さぶった。その瞳には、コントロールされることへの根源的な恐怖と、そこから逃れたいという切実な渇望が混ざり合っていた。
「自分の言葉? あなたに何が語れるっていうの。……あなたが口を開けば、そこに才能がないことが瞬時に露呈する。そうなれば、このマンションも、名声も、全部消えてなくなるのよ。それでもいいの?」
「……消えた方がマシかもしれない。君の操り人形でいるよりはね」
理久の言葉に、由希は言葉を失った。
あの日、雨の路地裏で「何にでもなる」と笑った男は、もうどこにもいない。
皮肉なことに、由希が彼を「天才作家」として完璧に演じさせすぎたせいで、彼の中に本物の「自意識」という名の化け物が芽生えてしまったのだ。
「……勝手にしなさい。でも、もし失敗したら、私はあなたを助けない。一緒に地獄へ落ちるつもりなんて、毛頭ないから」
由希は冷たく言い放ち、書斎へと引きこもった。
リビングに残された理久は、床に散らばった資料を見つめながら、自分の震える右手をじっと凝視していた。
その指先は、まだ白く、滑らかなままだった。
由希が部屋に引きこもり、リビングには理久一人だけが取り残された。
広い室内を支配するのは、加湿器の微かな動作音と、彼自身の浅い呼吸音だけだ。
理久はふらふらとした足取りで、先ほど瀬尾を案内した「書斎」へと戻った。
デスクの上には、由希が演出のために用意した真っ白な原稿用紙が置かれている。
理久は椅子に座り、万年筆を手に取った。キャップを外すと、鋭いペン先が照明を反射して冷たく光る。
「……書ける。僕だって、これだけ君の言葉を聞いてきたんだ。一行くらい、自分の力で……」
理久は自分を鼓舞するように呟き、ペン先を紙に落とそうとした。
だが、その瞬間、猛烈な吐き気が彼を襲った。
白。
視界のすべてが、その無垢な白に塗りつぶされていく。
一文字目を書き出した瞬間、自分の「空っぽ」が確定してしまうような、底知れぬ恐怖。
「あ、……う、……」
指先がガタガタと震え、万年筆がカチカチと音を立てて机を叩く。
何か、何か言葉を。
悲しい。怖い。助けて。
そんな幼稚な言葉すら、原稿用紙という聖域に置こうとすると、あまりにも軽薄で、無価値なものに思えてくる。
「どうして……どうして何も出てこないんだ!」
理久は万年筆を投げ捨てた。
ペン先から飛び散ったインクが、真っ白な紙に醜い黒いシミを作る。
彼は自分の頭を抱え、床に蹲った。
「由希……助けて、由希……!」
先ほどまでの反抗心はどこへやら、彼は自分の内側に広がる「巨大な空白」に飲み込まれそうになっていた。
自分は、由希が書く文字を読み上げるだけの装置だ。その装置から電源を引き抜けば、そこには何も残らない。
瀬尾が言った「血の匂い」。
自分の中にあるのは血ではなく、ただの冷たい水だ。
理久は、自分が世界中で最も愛され、崇められている「天才」でありながら、その実、世界中で最も「無」に近い存在であることを痛感し、暗い部屋で一人、声もなく泣き続けた。
その涙さえも、誰にも見せることのできない、無意味な液体に過ぎなかった。
理久が書斎で蹲っていると、放り出されたスマートフォンが、無機質な着信音を鳴り響かせた。
画面に映ったのは、修英館の代表電話番号だ。理久は縋るようにそれを取り、掠れた声で応答した。
「……はい、九条です」
『先生! 瀬尾です。今、素晴らしいチャンスが舞い込みましたよ!』
瀬尾の声は、先ほどの冷徹さが嘘のように弾んでいた。
『明晩の報道番組「ナイト・フォーカス」から、生出演のオファーが来ました。三冠受賞後、初のテレビ生放送です。司会者はあの鋭い有働さんですが、今のあなたなら、日本中の視聴者を釘付けにできるはずだ』
「生放送……僕が、ですか?」
『ええ。あなたの「生の言葉」を、編集も台本も通さない「血の匂い」がする言葉を、世間が求めているんです。……先ほどの書斎では失礼しました。あの後、テレビ局側に私から強く推しておきましたよ。先生の真実を語る場として、これ以上の舞台はない』
理久の心臓が激しく脈打つ。
「血の匂い」。またその言葉だ。瀬尾は、理久が最も恐れている部分を、皮肉にも最大の武器として差し出してきたのだ。
「……やります。受けさせてください」
理久がそう答えた瞬間、背後のドアが勢いよく開いた。
血相を変えた由希が、理久の手からスマートフォンを奪い取ろうとする。
「ちょっと、理久! 何を勝手な――」
「瀬尾さん、詳細は後ほど。……失礼します」
理久は由希の手を振り切り、通話を切った。
嵐のような沈黙が二人の間に流れる。由希の瞳には、かつてないほどの怒りと、底知れぬ困惑が渦巻いていた。
「あなた、正気なの!? 生放送よ!? 編集もカットも効かない。一歩間違えれば、今まで積み上げたすべてが灰になるのよ。有働さんがどれだけ鋭い質問をしてくるか分かってるの?」
「分かってるよ! でも、瀬尾さんは僕に期待してるんだ。僕が自分の言葉で語るのを待ってるんだよ!」
「あなたに語れる言葉なんてないって、さっき思い知ったばかりでしょ!」
由希の痛烈な一言が、理久の心を切り裂いた。理久は自嘲気味に笑い、由希を真っ向から見据えた。
「……だからだよ、由希。君に『書けない』って馬鹿にされるのが、もう耐えられないんだ。僕は、九条理久なんだ。たとえ中身が空っぽでも、カメラの前に立てば、僕は本物になれる。……君は黙って、僕が輝くのを見ていればいい」
「理久……!」
由希の制止を無視し、理久は寝室へ消えた。
残された由希は、震える手で自分の頭を抱えた。
コントロールしていたはずの操り人形が、糸を断ち切り、自ら燃え盛る火の中に飛び込もうとしている。
綻びは、もはや修復不可能なほど大きく裂け始めていた。
テレビ局の楽屋。狭い室内には、化粧品の粉っぽい匂いと、本番前の重苦しい緊張感が充満していた。
鏡の前でメイクを受ける理久の背後で、由希はスタッフをすべて追い出し、ドアに鍵をかけた。
「……いい、理久。これが最後のチャンスよ。このメモの内容だけを頭に叩き込みなさい」
由希が震える手で差し出したのは、びっしりと文字で埋め尽くされた想定問答集だった。
「司会者が『あなたの原点』を聞いたら、十五ページのこのフレーズを。……『言葉は沈黙の……』」
「……もういいよ、由希。それ、昨日も聞いた」
理久は鏡の中の自分を見つめたまま、力なく答えた。その顔は白く塗りつぶされたように血気がなく、瞳だけが異様にギラついている。
「いいわけないでしょ! あなた、自分の置かれている状況が分かっているの? 瀬尾さんは、あそこであなたのボロが出るのを待っているのよ。あいつの狙いは、あなたの『真実』を暴くことなんだから!」
由希は理久の肩を掴み、無理やり自分の方を向かせた。
「あなたは、私が書いた通りに動けばいい。私が呼吸しろと言ったところで呼吸し、私が泣けと言ったところで涙を流すの。……わかった? 自分の意志なんて、あそこには持ち込まないで」
理久は、自分を支配し続ける由希の瞳をじっと見つめ返した。その瞳に宿るのは、愛情ではなく、自分の作品という「所有物」を汚されたくないという執念だけだ。
「……君にとって、僕は本当にただの便利な道具なんだね」
「そうよ。それ以外の何があるっていうの? あなたに名前を貸した夜に、私たちはそう決めたはずよ」
理久は自嘲気味に笑うと、由希の手からメモをひったくり、そのまま目の前のゴミ箱に捨てた。
「理久……! 何をするの!」
「……君の言葉は、もうお腹いっぱいなんだ。今日は、僕が僕としてあそこに立つ。……たとえそれが、どんなに無様な姿だとしてもね」
ノックの音が響く。「九条先生、お時間です」というADの声。
理久は由希を突き放し、一度も振り返ることなく楽屋を出て行った。
独り残された楽屋で、由希はゴミ箱の中のメモを見つめ、膝から崩れ落ちた。
彼女の指先は、今までにないほど冷たく、絶望に震えていた。
スタジオに張り詰める「本番三十秒前」の緊張感。数え切れないほどの照明が、九条理久という輪郭をこの世で最も美しいものとして切り出していた。
副調整室のモニター越しにそれを見つめる由希は、祈るように自分の両手を組み合わせていた。
「――本番、五、四、三、二……」
フロアディレクターの指が止まり、生放送の赤いランプが点灯する。
「今夜のゲストは、文芸三冠という前代未聞の快挙を成し遂げられました、作家の九条理久さんです。九条さん、よろしくお願いいたします」
司会者の有働は、柔らかな微笑みを浮かべながらも、その瞳には獲物を逃さないプロの鋭さを秘めていた。
「よろしくお願いします」
理久の声は、驚くほど落ち着いていた。由希が教えていない、彼自身の生身のトーンだ。
番組の前半は、受賞作『泥の王』の内容や世間の反響について、無難な質問が続く。理久は時折、考え込むような仕草を見せながら、澱みなく言葉を返していく。
だが、中盤に差し掛かった時、有働が手元の原稿を置き、身を乗り出した。
「九条さんの作品には、一貫して『持たざる者の飢え』と、強烈な『自己喪失』が描かれています。二十五歳という若さで、なぜこれほどまでに残酷な孤独を描けるのでしょうか。……先生、あなたの『言葉』は、一体どこから生まれてくるのですか?」
予定にない、本質への踏み込み。
由希の心臓が、喉元までせり上がった。
(理久、ダメよ。……用意した『十五ページの回答』を思い出して。深海の話をするのよ!)
モニター越しに念じる由希。
だが、理久は沈黙した。
三秒、五秒。生放送では致命的とも言える空白が、スタジオの空気を凍らせていく。
有働の視線が理久を射抜き、スタッフたちの間に動揺が走る。
理久の瞳が、カメラのレンズの向こう側――その先にいるであろう、自分を操り続けてきた「影」を捉えたように見えた。
彼はゆっくりと唇を開いた。
「……僕の言葉は、血を流しても出てきません。それは、僕が一度死んだ場所から、誰にも内緒で拾い集めてきたものなんです」
由希の知らない言葉だった。
理久の顔には、これまでの完璧な「演技」とは違う、歪で、生々しい表情が浮かんでいた。
「……一度、死んだ場所、ですか?」
有働がその言葉を逃さず拾う。
理久は、壊れたブレーキのように、自ら破滅の坂道を転がり落ち始めた。
スタジオの空気が、理久の発した「死」という言葉に一変した。
有働は獲物の喉元を見定めた猟犬のように、声を低くして畳みかける。
「一度死んだ場所……それは、九条先生がこれまで語ってこられなかった、あなた自身の過去に深く関係しているのでしょうか?」
副調整室でモニターを見つめる由希の指先が、ガタガタと震えだす。
(やめて、理久。それ以上は、何も言わないで……!)
由希の祈りは届かない。理久は、まるで何かに取り憑かれたかのように、潤んだ瞳で一点を見つめていた。
「……僕には、妹がいました」
理久の口から飛び出したのは、設定資料のどこにも存在しない、戦慄の「嘘」だった。
「僕がまだ幼い頃……妹は、雪の日に僕の目の前で亡くなりました。僕の不注意だったんです。彼女が最後に僕を呼んだ声が、今も耳の奥で鳴り止まない。……僕が書く物語はすべて、あの日に失った彼女の『続き』なんです」
理久の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
スタジオからは、スタッフが息を呑む気配が伝わってきた。司会の有働ですら、一瞬言葉を失うほどの、あまりにも鮮やかで悲劇的な告白。
「……それが、先生の『孤独』の正体だったのですね」
有働の同情に満ちた声とは裏腹に、由希の全身は激しい嫌悪感に支配されていた。
妹? 雪の日?
理久は一人っ子だ。そんな過去は、彼の人生のどこにも存在しない。彼は、今この場で、世界を騙し、自分をも欺くための「新しい物語」を捏造しているのだ。
「妹の亡骸を抱きしめたとき、僕の心は真っ白に塗りつぶされました。それ以来、僕は白を恐れ、白を埋めるために、言葉を紡ぐようになったんです。……僕にとって、原稿用紙の白は、あの日降り積もった雪と同じなんです」
理久の言葉は、恐ろしいほど流暢だった。
由希は自分の書いた「泥の王」が、理久の汚い嘘によって上書きされ、別の意味へと歪められていく屈辱に震えた。
彼は気づいたのだ。
自分が「空っぽ」であるなら、その場しのぎの嘘で自分を塗りつぶせばいい。嘘をつけばつくほど、世間は自分を深く愛し、同情してくれる。
由希は、モニターの中の理久を睨みつけた。
そこに映っているのは、もはや彼女の愛した「美しい器」ではない。
自らの虚像を守るために、他人の感情を餌にして、怪物へと成り果てようとしている「嘘の王」の姿だった。
スタジオの外へ出ると、夜の冷気が火照った理久の体を容赦なく刺した。
局が用意した送迎車の後部座席。窓の外を流れる東京のネオンは、まるで理久の嘘を祝福するパレードの光のように見えた。
隣に座る由希は、一言も発しない。
彼女はただ、膝の上で組んだ両手を、指が白くなるほど強く握りしめていた。その沈黙は、どんな怒声よりも重く、理久の鼓動を狂わせる。
「……何か言ったらどうだい」
理久は、耐えきれずに口を開いた。声はまだ、興奮でわずかに震えている。
「完璧だっただろう? スタッフだって泣いていた。有働さんだって、最後は僕の言葉を待っていたんだ。君の書いた古臭いレトリックなんかより、ずっと『本物』らしく聞こえたはずだ」
由希が、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、涙もなく、ただ底知れない冷たさだけが宿っていた。
「……『本物』? どの口がそんなことを言えるの?」
由希の声は、低く、掠れていた。
「雪の日の妹? あんな、三流のメロドラマみたいな嘘を……よくも私の聖域にぶちまけてくれたわね。あなたが語ったあのゴミみたいな物語のせいで、私が『泥の王』に込めた本当の孤独が、安っぽいお涙頂戴に成り下がったのよ」
「ゴミだって!? みんな感動していたんだ! 僕が自分の言葉で、僕自身の過去として語ったからだ!」
「あなたの過去じゃない! それは、あなたがその場で捏造した、最低のペテンよ!」
由希は理久の胸ぐらを掴み、狭い車内で彼を突き飛ばした。
「あなたは、私の言葉を盗むだけじゃ足りなくて、今度は世界そのものを汚し始めたのよ。……あなたはもう、私の操り人形ですらない。ただの、壊れた騒音発生器よ」
「……操り人形でいるよりはマシだ。君に支配されるくらいなら、僕は嘘の塊になってやる」
理久は由希の手を乱暴に振り払った。
二人の間に、修復不可能な亀裂が走る。かつて路地裏で誓い合った「共犯関係」は、互いの存在を否定し合う憎悪へと変質していた。
車がマンションのエントランスに滑り込む。
理久は由希を待たず、独りで車を降りた。
由希は暗い座席に取り残され、自分の指先をじっと見つめた。
理久が放ったあの「妹の嘘」が、これからどれほど巨大な災厄となって自分たちに降りかかるか。その予感に、彼女は激しい吐き気を催していた。
静まり返ったマンションのリビング。理久はソファに深く沈み、自分の「成功」の余韻を必死に手繰り寄せていた。スマホを開けば、SNSは彼の語った「雪の日の妹」への同情と絶賛で溢れかえっている。
由希は、一度も理久と目を合わせることなく、キッチンで冷えた水をコップに注いだ。その背中は、理久を拒絶する氷の壁のようだった。
「……見たかい、由希。世間は僕を、本当の意味で受け入れたんだ」
理久が、震える声を絞り出す。由希は答えず、ただ水を飲み干した。その時、理久のスマホが、深夜には不釣り合いな重い通知音を響かせた。
差出人は、瀬尾だった。
メールの件名は、空白。
理久が震える指で本文を開くと、そこには短い一文だけが記されていた。
『九条先生。先ほどの生放送、大変感銘を受けました。ですが、一点だけ確認させてください。――先生、あなたの履歴書にある出身地は「温暖な沿岸部」で、あなたが生まれた年は記録的な暖冬でした。あの日に、そんな雪が積もるはずがないんです』
理久の指から、スマホが滑り落ちた。
大理石の床に当たり、乾いた音が室内に響き渡る。
「……どうしたの?」
由希が、ゆっくりと振り返る。
理久は、幽霊でも見たかのように青ざめ、口をパクパクと動かしていた。
「瀬尾さんだ……。嘘だ……あの人、もう調べてる。僕が言ったこと、全部嘘だって、証拠を揃え始めてるんだ……」
由希は、落ちたスマホを拾い上げ、画面に表示された瀬尾の言葉を黙読した。
彼女の口元に、絶望と紙一重の、歪な笑みが浮かぶ。
「……言ったでしょ。綻びは、一箇所あれば十分なの。あなたが自分を守るためについたその安っぽい嘘が、今、私たちの首を絞める縄になったのよ」
理久は、膝から崩れ落ちた。
あの日、雨の路地裏で交わした秘密の契約。
完璧だったはずの虚構の城が、理久の放った「自分の言葉」によって、音を立てて崩れ始めていた。
「どうすればいい……由希、どうすればいい!?」
理久が縋るように由希の裾を掴む。
由希は、その手を冷たく振り払い、真っ暗な窓の外を見つめた。
「……嘘を、さらに大きな嘘で塗りつぶすしかないわ。その妹を、本当に『殺す』ための物語を、私が今から書くのよ。……後戻りなんて、もう一歩もできないんだから」
由希の瞳は、理久の震えを嘲笑うように、暗闇の中で激しく、不気味に輝いていた。




