五、若旦那、洛中へ帰る
若旦那宅での会議から、そろそろ二週間がたとうとしていた。季節はそろそろ本格的な冬へと移ろうとしている。いよいよ本領発揮となった京都の寒さが、じわじわと裾や袖口から染み入ってきて、店の方でもお客の長尻が増えつつあった。
「若旦那からの連絡、あったかい?」
「いやあ、全然。――赤ん坊が乳児院に移った、って連絡して、それの返事があったきりだね。なんとなくこっちからも呼びにくいし」
例によって閉店間際、店長の留守のところへ現れた波さん・英さんと三麻に興じながら、僕は若旦那からの連絡のないことをこぼした。同じ大学に通う二人がノーマークなのだから、こちらからしつこく連絡をするというのも気が咎める。
「にしても、寂しくなっちゃいましたネ。あの坊やに会うの、ちょっと楽しみだったんだケド……」
「英さんは時たま見るからいいだろうけど、結構大変だったよ。――おかげで赤ん坊のゲップのさせ方、すっかり板についちゃったよ」
手にした牌のしけているのに顔をしかめると、いつの間にかお流れ、という具合になってしまった。そのまますぐに出るのもはばかられ、三人そろってプカプカと煙草をふかし、コーヒーを味わっていた時だった。
「――やあ、やっぱりここにおったか」
「若旦那!」
建付けの悪いドアが開き、二重廻しにハンチングを被った若旦那がふらりと姿を現した。
「どうしてたんだよ今まで。てんで連絡がないって、みんなして愚痴ってたとこなんだぜ」
「堪忍堪忍。色々立て込んでて、今日の今日までよう返事が出来へんかったんや。――あれ、店長さんは?」
いつもの通りさ、と返すと、そのほうがええかもなあ、と言って、若旦那は外套を脱ぎ、僕たちのいる卓へとついた。
「あの坊やの母親らしい人間がようやっとわかった。だが、これ以上の詮索はちょっと問題が多い――それだけ分かったうえで、僕の話ィ聞いてくれるか?」
普段とぼけた調子の人間が、いきなり真面目な表情になるというのはなかなかに迫力がある。三人とも揃って頷くと、若旦那はよろしい、と言って、懐からB5くらいの封筒を取り出し、一枚の写真を卓上へすべらせた。
「いかにも体育会系、てな美人さんやろぉ」
ややピントの甘い、2L判のその写真にはどこかの宴席で写したらしい、セーラー服を着たベリーショートの少女の顔が写っている。英さんがどちらサマ? と尋ねると、若旦那はロングピースへ火をつけながら、
「荒本美子の姪で、高校生の由衣って嬢ちゃんよ。美子さん、上に四人兄貴がいる末っ子長女でな。この嬢ちゃんは一番上のお兄さんの子やそうな」
「へーえ、なるほどな。ちなみに若旦那、どうやって撮った? カメラ目線じゃないとこ見ると……」
「野暮なこと言いなや波木くん」
続いて、封筒の中から若旦那が取り出したのは太いボールペン――ではなく、ノックのところへレンズのついた隠しカメラだった。なんでも、これを胸ポケットに差したまま、ずっと会場の様子を動画として収めていたのだという。
「一周忌、言うてもバイト先の店長が呼ばれるくらいや、出席者が多くってな。酒瓶片手にうろうろしながら、いろいろ聞いたり写したりさせてもろうたわけ。ちなみにその子、去年陸上の関西大会で一位を取ってる、棒高跳びの名選手なんやと」
「で? 一体全体、この子が事件にどう絡んでくるんだ」
波さんの問いへ、お次はこちら、とばかりに若旦那は三枚の写真を出した。一枚は以前にも見た、ドラレコからの切り抜き写真にあった謎の女性。そしてあとの二枚は――。
「これって……」
残りの二枚、その片方は落ちたブローチか何かを拾おうとしている、荒本由衣の俯き加減の表情をとらえたもの。そして最後は、同じ写真へ長い髪を描き加えた代物であった。
傍から見れば単なる落書きのようにしか見えないだろうが、一連の騒動に絡んだ僕には、どう見てもあのドラレコの女性と同じようにしか見えなかった。もっとも、どうやらそれはまんざら気のせいでもないらしく、英さんや波さんも、食い入るように写真を見つめている。
「まさかとは思うたけど、ひょいと俯いた時の顔の感じが似ていたのには驚かされたわ。――あの日、遠巻きに僕らが見たのはこの子で間違いない、そう思うたねェ」
「じゃ、この子があの赤ん坊の……」
「高校生なら、まあそういう過ちがあってもおかしかァないからねえ。で、そっからちょいとばかり、僕は店長さんを中継ぎに簡単なテストをやってみたんよ。――いわゆる心理試験、ってなやつやね」
明智小五郎のあれか? という波さんの問いかけに、その通り、と若旦那は不気味に笑う。
「結論から言うと、彼女は子供に関する話題なんかを振る都度、だんだんと顔が青くなっていった。どこの何者ともわからん不思議な男に、秘密を見透かされているような感じがしたんやろうな。そんで別れ際、僕は隠れて書いたメモと名刺をこっそり、広間の隅に置いてあった彼女のダッフルコートへ入れておいた。『慎太郎無事 友人たちが面倒を見ている 至って健康 時機を見て乳児院へ入るだろう』とだけ書いてな。そして待つこと二週間、ついに今朝がた、返答があった」
若旦那が封筒をひっくり返すと、中からは見覚えのあるものが出てきた。赤ん坊の布団の下へ忍ばせてあったものと同じ、あの西洋封筒である。
「こっちの名前が世間に知れてて助かったわ。おかげであの子、僕へ一切を打ち明けてくれよった。――当人の名誉のために言うと、仲を深めてはいけない相手との間に子を生してしまい、秘密裏に出産した、というのがそもそもの始まりってわけ」
「しかしな若旦那、さすがに娘の腹が大きくなれば、親だって勘づくだろう。それが露見しなかったのはどういう訳なんだ」
波さんの疑問に、若旦那はそこが僕も不思議やってんなあ、と肩をすくめる。
「結局、これは本人の告白でやっとこさ合点がいったんや。――ごく稀になんやけど、腹筋の非常に発達した妊婦の腹がまるで膨れない、という症例があってな。その非常に珍しいケースに該当したせいか、本人もギリギリまで妊娠に気付かなかったそうや。おかげで堕ろすわけにも行かず、人のつてでこっそりと出産したってわけ。――さて、ここでやっとこさ出てくるのが、我らが『平和』の店長さんってわけよ」
ピンと立った若旦那の指へ、僕たちの視線が集まる。
「厳密には仲の良かった叔母・美子さんがきっかけらしいんやけどな。美子さんの話によく出てきた、温厚で人のいい店長さんならばこの子の事はなんとかなるかもしれない。藁にも縋る思いで、彼女は変装の上、京都市内へ向かった。そして泣く泣く、籠へ入れた赤ん坊を置いてその場を立ち去った――ってわけ。どうやら行きだけ相手の運転する車で、帰りは一人、タクシーを拾って別行動というルートを辿ったらしい。そりゃあ見つからんわけや、真夜中に赤ん坊を連れた若い女性の姿なんて……。北署もずいぶん、苦労したやろねえ。これがすべての真相、ってわけ」
若旦那はそこで話を終えると、ほとんど吸わぬうちに尽きたピースを灰皿の中でひねった。そして間髪入れず、若旦那はその手紙が入った西洋封筒へライターの火をあてがった。あっという間に炎が広がり、鼻を刺すようなパルプの燃える臭いと、真っ黒くなった燃えカスが灰皿の中へ落ちる。ものの十数秒の、短い合間の出来事である。
「わ、若旦那、どうしてまた……」
「最初っから、僕はこうするつもりやったんよ」
驚く僕らをよそに、若旦那は平然とした調子で新しいピースへ火をつける。
「なまじ余裕のあるウチに生まれるとな、つまらんことが家名に傷をつける、とんだ騒ぎになるという例を嫌というほど目にするもんよ。そいつを気にしたからこそ、この子はこんな非常手段に及ばざるを得なかったんや。――そらァ、やったことがまともとは思わんけどな。この子はまだ、赤ん坊を殺さんかっただけ良心があった方や。世の中みてみぃ、生まれて間のない赤ん坊が歯牙にかけられた、むごい話がようあるやないか。――出した答えがこんな具合になったのは責められたとしても、それ以上は酷というもんや。だから、この話はこれでおしまい、ってわけ」
そこで顔を上げると、若旦那は宙へ向かって器用に輪煙を吐いた。だが、四つ並んだその輪煙は、天井に上がりきらぬうちにゆっくりと散ってしまった。まるで最初から、そこに何もなかったかのように。
かくしてこの事件は「幽霊のくれた赤ん坊」という不思議な話として受け止められたのち、ゆっくりと世間の関心から消え、忘れ去られていったのだった。




