三、母親の正体、この世のものでなし?
朝になってから大家のおばさんへ事情を話すと、最初はひどく驚かれたものの、赤ん坊の面倒に関しては快く引き受けてくれた。そして、坊やを預けて近所の喫茶店へ向かうと、僕と若旦那は吸い貯めとばかりにむやみと煙草をふかした。分厚いハムサンドで腹も膨れ、湯気の立つコーヒーで眠気も晴れると、下宿に戻った若旦那は府警本部にいる、馴染みの警部へと電話をかけ、事情を打ち明けた。
「――ほんじゃひとまず、午後イチに赤ん坊つれてそっちに行きますわ。すんまへん、しょうもない事件に突き合わせて……じゃ、のちほど」
電話を切って帯へ押しやると、若旦那はお次は店長やな、と僕の顔をのぞきこんだ。もうさすがに、今ぐらいの時間なら帰ってきているはずである。ダメもとで電話をしてみると、店長はすでに起きて朝食をとっている最中だった。さすがに昼の十時近くともなれば、目も覚めるはずである。
事情を話すと、店長はおばさん同様かなり驚いた。だが、赤ん坊に健康上の問題はなさそうなこと、警察に相談してあるのがわかると、必要なら自分も警察へ出向くから、と明るい返事をしてくれた。悪く言われがちだが、飲兵衛でちょくちょく店を開ける以外は至って罪のない人なのである。
「――何かといわれるけど、まともな店長さんなんやなあ」
会話の内容からだいたい察しがついていたのか、電話が済むなり、若旦那がそう話しかけてきた。
「これだからどうも憎めなくってね。――あの二人にも連絡してある?」
「おう、バッチリ。あとは警察がいろいろ調べてくれれば、僕らが何もせんでも解決するやろぉ」
にっこり笑う若旦那に、僕もいくらか表情が緩む。警部さんの助力もあり、所轄の北署で捜査願いが受理されると、あとは赤ん坊をどこへ預けようか、ということになった。ところが間の悪いことに、近頃はこうした例が珍しいのか、担当の乳児院に余裕がないことが分かった。これには僕や若旦那、警部さんたち警察側も頭を抱えたが、
「いいのよぉ平岡さん、こういう時はお互い様だもの。学校やアルバイトの間はあたしが責任持ってこの子見ておくから、安心してドンと構えてなさい」
一緒に来てくれたおばさんが、抱っこ紐に収まった坊やをなでながら嬉しい申し出をしてくれた。寝ている時などは僕の方で面倒を見ることなどもまとまると、警部さんのパトカーに便乗し、僕たちは悠々と下宿へ戻った。
「そうかそうか、それならひと安心だ。――どうも私のいないばっかりに、お手間をおかけいたしました」
赤ん坊をおばさんに任せると、僕と若旦那は店を訪ね、店長に経過を報告した。細面にのった癖のある白髪が話す都度、ふわふわと上品にゆれる。傍から見れば、これがよく店を開ける店長とはだれも思わないだろう。
「しかし何者なんでしょう、こんなところへ赤ん坊を置いていくなんて……」
首をかしげる店長に、若旦那は袂から手を出し、それなんですわァ、と返す。
「普通の感覚だと、麻雀荘に置いていくより、どっか病院の前にでも置いてくのが自然ですやろ? となると、何かこの店にゆかりのある人物が、助けを求めて……とも考えられやしまへんか?」
「――店長、何かお心当たりはないんですか?」
僕らの問いかけに、店長は腕を組んで考え込んでいたが、
「可能性があるとしたら、うちで働いていたアルバイトの子の誰か、かもしれないな。何か謂れがあって、人に相談できずにここへ……というセンはどうでしょう」
「たしかに人間、誰だってしくじりの一つ二つはありますやろしなぁ」
店長を横目に見やると、若旦那は袂からロングピースの箱を出し、ライターの火をくべた。
「その子らの履歴書、どこかに保管してあったりしませんか。もしかしたら、何かのきっかけくらいにはなるかもわからんし……」
さすがにそんなものはもう捨ててあるだろう、と僕は諦め調子で構えていたが、意外なことに店長は、この十年分くらいなら保管はしてある、と実にいい返答をしてくれた。
「そいつァありがたい! 超特急とは行かへんでも、準急くらいの速さでなら解決できるかもしれませんえ、こいつは……」
「本当はこういう個人の情報って、ホイホイ出しちゃいけないんでしょうが……この際仕方ないでしょう。すぐに押し入れをあたってみますから、今度の件、ひとつよろしくお願いします」
店長の言葉に、若旦那はあのむずがゆそうな表情を浮かべ、頬を赤らめるのだった。
「にしても大変だったねえ。おおよその話は聞いてたけど、まさか預かることになったなんて……」
若旦那の同居人の言葉に、僕はほんとですよぉ、と肩を落とし、注いでくれたビールを一息に飲み干した。若旦那は普段、同志社大の近くにある年季の入った町家に住んでいるのだが、そこでルームシェアをしている友人がよければご一緒に、と夕食へ招いてくれたのである。
北署からの帰りで、今更自炊をする気にも慣れなかった僕は、おばさんに深々頭を下げ、そのまま今出川の方へと向かった。同居しているご友人は、遊び人風な若旦那と対照的な真面目そうな青年で、もっぱら炊事洗濯が専門というマメな人であった。その例にもれず、手の込んだばら寿司をごちそうになり、僕と若旦那はこのわずかな間に降りかかった苦労を癒すことに専念した。
「でも、タクシーに乗ったんならすぐに見つかりそうだよね。個人タクシーとかじゃなきゃ、すぐに割れるんじゃないの?」
「その点は大丈夫やな。ただ、ヤシマは台数があるからな。そこだけが厄介よ……」
昨夜、あの赤ん坊の母親らしい女性を乗せたのは、市内でも有数の規模を誇るヤシマタクシーという会社の車だった。社名が分かっていればあとは時間の問題、とは思っていたが、台数の多いのはたしかに気にかかる。くわえて、同じ車を何人かで使い分けていたりすると、また調べるのが煩雑になるとも若旦那は教えてくれた。
「まあ、この辺は僕らより、警察のほうが得意やろうしな。早けりゃ明日にでも車が割りだせて、ドラレコから面も割れるやろ。――ところで、もう一本エエ?」
「しょうがないなあ。一本だけだよ?」
空になったビール瓶を持って、ご友人は台所へと向かった。同居人というよりは、ほとんどおかみさんという趣である。
「まあ、しばらくは安泰や。いずれ親も改心して現れれば、幾ばくかへーちゃんやおばさん達にお礼も出ようというものよぉ」
「なにいってんの、色々お世話になったんだもの、若旦那こそ貰わなきゃあ」
「ええのええの。僕はむしろ、こういう事件そのものが報酬みたいなもんやから……ま、貰えるんやったら悪い気ィせえへんけどさ」
酔いが回っているのか、すっかりご機嫌な若旦那にこちらも釣られて笑いが漏れる。陽気な調子で宴は続き、僕は洋々たる足取りで下宿へと戻った。
朝になり、おばさんのところへ顔を出して赤ん坊を見ていると、ポケットに入れたスマホが鳴りだした。見れば電話は、若旦那からである。
「やあ、おはよう。昨日はすっかりごちそうになっちゃって……え?」
電話の向こうの若旦那の声が妙に深刻なのが、寝ぼけた頭でも嫌というほどわかる。要件そのものは非常に単純で、今すぐ平和へ来てほしいということだった。服を着替えて急ぐ道すがら、僕は妙な騒ぎのするのを覚えた。
そして案の定、その予感は的中してしまった。麻雀卓の上へ広げられた、ドラレコの録画から伸ばしたらしい写真と古ぼけた履歴書。そして一通のハガキが、とんでもない事実を僕たちへと突き付けたのだ。
「――あの時君たちが見たのは、死んだこの子にそっくりなんだ」
証明写真に収まった、物憂げな表情の女性の目が、じっとりと僕を睨んでいるような錯覚に陥った。




