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オキクの復讐  作者: さらしもばんび
3/3

オキクの復讐 下

「だから私言ってやったの、勘違いもほどほどにしなさいって。そしたらそいつ泣き始めてさ、ハハハハ。」

 TDLを出た後、近くのシェラトンホテルでふたりは食事を摂っていた。希久美は話すテンションが上がっている。

「しかし…。オキク、運転で酒が飲めない俺の前で、よくまあそんなに飲めるよな。」

「いいでしょ、楽しいんだから。」

 実際、希久美は飲まずには居られなかった。いよいよ復讐のクライマックスを迎えようとしている今、素面では最後の局面に突入できそうにない。

「泰佑は泣いたことないの?」

「そうだな…。泣いた記憶が無い。」

「そうよね、高校の最後の試合でも泣かなかったものね。」

「なんか言った。」

「いいえ、何にも…。」

「でも友達に、テレビの『水戸黄門』で毎回泣いているやつがいたよ。なあオキク、『水戸黄門』観て泣けるか。信じられないよ。笑っちゃうよな。」

 急に希久美が黙り込んだ。いきなり場の空気が変わって泰佑が慌てる。

「どうしたの、お腹でも痛いの?」

 希久美はまだふさぎこんでいる。返事もないので泰佑も途方に暮れているとやがて希久美が口を開いた。

「亡くなったおばあちゃんが、『水戸黄門』を観てよく泣いていたのを思い出しちゃった…。」

 あちゃー、やっちまった。

「わたしね、小さいころにお父さんがいなくなって、お母さんが必死に働いて育ててくれたの。だからお母さんは、仕事でほとんど家に居なかった。学校から帰ってきたわたしを家で迎えてくれたのは、おばあちゃんだったのよ。」

 泰佑は頭を抱えた。やはりおばあちゃん子である泰佑にはたまらない切り返しだ。もう希久美に掛ける言葉を失っていた。

「おばあちゃんが大好きだったの。中学の時だったわ。おばあちゃんの具合が悪かったから修学旅行には行きたくなかったの。でもおばあちゃんが、思い出だから行って来いって…。わたし毎日家に電話したのよ。お母さんは大丈夫だって言ってたのに、帰ってみたらおばあちゃんの布団が片付けられていて…。お母さんたら修学旅行を台無しにしたくないと思って、嘘ついていたのね。初めてお母さんを恨んだわ。おばあちゃんの最後に一緒に居てあげることができなかったのよ。」

 希久美のほほを伝わった涙が、テーブルクロスの上に落ちた。

「あの…、ごめん。決しておばあちゃんを馬鹿にして言ったわけじゃないんだ。それに、悲しいこと思い出させちゃって…。」

 泰佑はハンカチを差し出した。希久美にもか弱い一面があるんだな。そう思いながら涙ぐむ彼女をじっと見つめていた。希久美は、こんなところでおばあちゃんを利用したことを心の中で詫びながらも、この瞬間を逃さなかった。グラスを手に取ると、心を落ち着かせるために飲む振りをして、ワインを胸元にこぼしたのだ。

「やだ、あたしったら…。服がしみになっちゃうわ。」

 希久美はシミの具合を見るために、慌ててブラウスの襟元を引いた。首元から希久美の鎖骨が露わになった。テレサの時とは違って今度は薬も飲んでいないのに、泰佑が反応を示した。


 希久美がシャワーを終えてバスローブ姿で出てきた。手には薬の溶けたミネラルウオーターを持っている。アクシデントで急遽押さえることになったホテルのツインルーム。泰佑はいすに座ってTDLの夜景を眺めていた。その後ろ姿は、何かに怯えているように感じられる。こいつこんなにうぶだったっけ?希久美は泰佑に近づきながらそう思った。

「心配ごとでもあるの泰佑。ほら、水でもお飲みなさい。」

 泰佑は、希久美からグラスを受け取ると一気に水を飲み干した。何に緊張しているのか、相当のどが渇いていたに違いない。よし、これならまちがいなくやれる。泰佑が緊張していればいるほど、希久美はリラックスできた。

「別に心配ごとなどない。だいたい、そんなかっこで男の前をうろつくもんじゃないぞ。」

「シミ抜きで服を渡しちゃったんだからしょうがないじゃない。何着ればいいっていうの。それにいいのよ。恋人だから。」

「恋人って…。今日は振りだろ。ここまではやり過ぎだろう。」

「さっきから、なんで私の顔見ないの。」

「夜景の方が綺麗だから…。」

 緊張しちゃって可愛い奴だ。そう思いながらも、希久美は泰佑の身体に薬が浸透するのを冷静に待った。確かテレサは、5分くらいから効き始めるって言ってたわよね。相変わらず泰佑は夜景を見ていた。経過する時間を確認して、いよいよ希久美は後ろから泰佑の肩に手をまわした。豊かとはいえないまでも、希久美の柔らかい乳房がバスローブ1枚を隔てて泰佑の首筋に触れた。

「何するんだ。」

「いいから、もっとりラックして…。」

 希久美は薬の効果を信じて、後ろから泰佑の首筋にキスをし、耳たぶを軽く噛んだ。泰佑はまったく動かない。

「今は振りをやめて、泰佑と愛し合いたいの。」

 泰佑の耳元でそう囁くと希久美は前に回る。泰佑は震えながら目を閉じていた。希久美は、泰佑の両頬を手のひらで支えると、ゆっくりと顔を近づけ、唇にキスをした。意外なことに、そうまったく意外なことに、その時希久美の頭のてっぺんで鐘が鳴った。それも半端な音ではない。あまりの音量に、頭の中が真っ白になった。意識が飛びそうになった。もし今、強く抱きしめられてたら、確実に意識が飛んでいたにちがいない。あの時の記憶が無い理由がわかった。しかし、今回は泰佑は抱きしめてこなかった。ゆっくりと顔を離すと、これも意外なことに、閉じた泰佑の瞳から、涙が流れていた。やがてとまどう希久美の肩に泰佑は優しく手を回すと、窓の方を向かせて座っている自分の膝に抱きあげた。後ろから希久美を抱きしめて、ゆっくりと話し始めたのだ。

「自分が周りの友達とちがうとわかりはじめたのは、中学のころだった。みんなのように、女の子に関心を持つことができなかったんだ。だからと言って男が好きなわけではない。ただ単純に女の子に興味が持てない、いやむしろ嫌いだったんだ。なぜ自分がそうなったのかわからない。でも世の中は男と女しかいないだろ。そのうち、女性に対して性的にも精神的にも興味が持てない自分に悩み始めるようになった。高校生になってもかわらず、悩みを振り払おうと必死に野球の練習をしていたある日、自分が見つめられていることに気づいた。それも今まで感じたことのないような暖かな、そして落ち着いた視線だったんだ」。

 石津先輩は私が見ていたのをわかってたんだ。希久美は身体を硬直させて泰佑の言葉を待った。

「学園に居る時も、グランドで練習している時も、その視線は自分を柔らかく包み込んだ。とても心地よかったんだ。誰に見守られているんだろうと探して、ようやくその主を突き止めた。でもその主が、今まで興味が持てなかったはずの女の子であることがわかって、正直驚いたよ。そして、高校も卒業しようとしている頃、やっとその女の子と話すことができた。自分はその娘に掛けてみようと思った。」

 希久美は、手紙を渡したあの日を思い出した。

「彼女と初めて会って、待ち合わせ場所でいきなり彼女を抱きしめた。彼女もびっくりしたろうな。彼女には悪いけど自分の身体の反応を確かめたかったんだ。驚いたよ。普通の男の子のように、体に力が満ちた。そしてその日、ようやく男になることができた。」

 なんだと、ただ自分が男であることを確かめる為だけに、私を抱いたってことなの。怒りがまた湧いてきて、希久美は泰佑の抱擁から逃れようともがいた。しかし、泰佑はその腕を強く絞り、希久美を離さない。

「話はまだ続くんだ。聞いてくれよ。」

 泰佑の切実な口調に、希久美もおとなしくなった。

「やっと本当の男になったみたいで、その時は嬉しかった。これで自分も他の仲間と一緒になれた。有頂天になって、その女の子をほったらかしにして大学に行った。でもそれは間違いだったことがすぐわかった。女としての魅力や成熟度が増している女子大生に囲まれているのに、相変わらず性的にも精神的にも興味が持てない。なぜ、あの女子高生には男になれるのに、他の女の人はだめなんだ。不思議で、理由を確かめたくて、慌ててその娘を探した。でもその娘の名前と消息が忽然と消えてしまっていた。探して、探して、それでも探し出すことが出来なかった。」

「それが、寝言で言っていた菊江って娘なの?」

「覚えていたのか…そうなんだ。」

「泰佑さ、その娘に会って自分の事確かめる前にやることがあるんじゃないの!」

 自然と希久美の語気が荒くなる。

「そうだな、自分の事ばかり考えてしまって…。彼女も初めての日に取り残されて、そうとう傷ついたに違いない。許されることじゃないが、まず謝罪しなくちゃな。でもつい最近に偶然彼女のクラスメイトに会って、彼女が交通事故で亡くなったことを知った。これで、永遠に謎のまま、そして謝罪も出来ないまま生きるしかないわけだ…。」

 えっ、あたしがいつ死んだのよ。誰よ、そんなデマ流したやつは…。

「その娘を性的関心だけでなく、精神的に関心があった、つまり好きだったのかどうかは、今考えてもよくわからない。その頃の自分があまりにも幼かったから…。」

 このやろう!あたしは本気だったのよ。

「でも今ははっきりと言えるんだ。オキクと出会って、初めて女性に心が動いた。自分は青沼希久美が好きだ。」

 泰佑の意外な言葉に希久美がフリーズしてしまった。黙りこくるふたり。後ろから抱きしめる泰佑、抱きしめられる希久美、お互いの息遣いが聞こえてくるようだ。やっと、希久美が口を開いた。

「いつから?」

「たぶん、会社で初めて挨拶した時からだと思う。一目見た瞬間、初めて会ったとは思えない気がした。身体中に電気が走った。」

 そんな様子は見せなかったのに…。希久美は音をたてないように唾を飲み込んだ。

「今もオキクと会いたい。ずっと一緒に居たい。心が狂おしいほどオキクを求めている。なのに、相変わらず体が反応しないんだ。つまりそれは、いくらオキクを愛していても、オキクに恋人や妻や母になる女の幸せを与えてあげることができないということなのさ。それが…それが本当に悔しくて仕方がない。生きている意味がないとさえ思えるよ。」

 泰佑は、希久美を軽々と抱き上げて、ベッドに寝かせ希久美の髪に触れた。

「今日は振りでも本当に嬉しかった。たった1日だったけどオキクと恋人になれた。しかも、今日は人生で初めて泣いた記念すべき日になったものね。まあ、初めて会ったその日からオキクにいじめられ続けて、いつか泣かされるんじゃないかと予想はしてたけどね。ありがとう。」

 泰佑はそう言い残すと静かに部屋を出て行った。

 なに?なに?なに?なんなのこの展開?どういうこと?だからなんなの?

 ベッドに取り残された希久美の頭が混乱する。今日は夜明けからいろいろなことがあり過ぎた。ほほに涙が跡をつけたまま泰佑が去った後、希久美は嬉しくもないし、悲しくもない。なにも感じられない。もう何ひとつ考えることができない。希久美はベッドの毛布を被り、とにかく寝ることにした。


 今日の女子会は、なぜか和食で日本酒の気分だ。だから、希久美は、ナミとテレサを銀座一丁目にある日本料理屋に招集した。テレビなどでブームになる前から宮崎の名物『冷汁』をメニューに加えていたところメディアで紹介され、「冷汁の岩戸」として人気を博した店だ。もちろん冷汁だけではなく、昭和52年創業の実績で、築地の河岸で良い海鮮素材が安く仕入れられるため、その時期の一番を低価格で提供してくれる家庭的な店である。女子会は、いつも騒がしい乾杯から始まるのが常だ。しかし今日の希久美の声には、いつもの張りが無かった。ナミが心配して言った。

「どうしたの、復讐が成就したというのに、なんか元気ないわね。」

「まあ、明日のジョーじゃないけど、試合が終わって今はまだ真っ白って感じかしら…。」

「でも、考えてみたら、石津先輩は、オキクをほったらかして大学に行った時からすでに、オキクの復讐を受けていたってことね。」

 テレサがお通しに箸をつけながらナミの言葉に続いた。

「いわば今回の復讐は、瀕死の病人に鞭を打ったって感じかな?」

「いつも思うんだけど、テレサが編集やれているのが不思議でしょうがないわ。なんて不適切な表現かしら…。」

「いえ、テレサの言うことにも一理あるわ。でも、泰佑はどうしてそうなっちゃったんだろう。精神科の医師の見地からどう?。」

「本人から詳しくヒヤリングできていないから、正確なところはわからないけど…。オキクには失礼だけど、少なくとも一度はオキクとはやれているんだから、先天性のフィジカルな理由ではないわね。やはり後天性のメンタルなものに起因しているのは確実ね。症状が現れた時期を考えると、思春期を迎える前、それも幼年期頃に心に大きな傷を負った確立が高い。」

「えー、幼年期に女の子とセックスして侮辱されたってこと?」

「テレサも短絡的ね。なにもこうなった原因がセックスの失敗とは限らないわ。でも女が絡んでいる事は事実ね。幼いころから一番多く接する女って誰?」

「母親かしら…。えー近親相姦?」

「だから、全部セックスに結び付けないでよ。」

「そう言えば、以前泰佑のおばあちゃんから昔のアルバム見せてもらったけど、母親と撮った写真が一枚もなかった。母親の写真すら見当たらなかった気がする…。」

 希久美は、あの時アルバムで見た泰佑のあどけない笑顔を思い出していた。黙ってしまった希久美に構わず、テレサが今度はお刺身をつつきながら話を突っ込んでいく。

「でも、なんでオキクとだけ出来たの?」

「そうね、不思議ね。私にも謎だわ。」

 さじを投げたナミに、希久美が遠い目つきでエピソードを加えた。

「確か、菊江が死んでしまった今では永遠の謎だと本人も言っていたわ…。」

「でも、菊江が死んだなんて誰が言ったのかしら?」

「それ、私よ。」

 希久美とナミが驚いてテレサを見た。テレサが伏し目がちに、泰佑と会った日のいきさつをポツポツと説明する。テレサのカミングアウトを聞きながら、希久美もナミも開いた口がふさがらなかった。

「なんで死んだなんて言ったの?」

 希久美の問いに、テレサが口をとがらせて答えた。

「だってあんまりしつこく聞かれるもんだから、つい…。」

「しかしテレサも怖い女ね。オキクの獲物を横取りしようとしたの?」

「いい男でもったいなかったから…。インポテンツになる前に一口だけならいいかと…。」

「あの、泰佑がゲロゲロになった夜ね。思い出した。泰佑に薬盛ったのテレサだったのか。」

「でも、それで石津先輩の家に行けたんだから、結果オーライじゃない、ね。許して。」

「許してじゃないわよ。あんた、ヒロパパに薬盛ったらただじゃ済まないからね。」

「誰?ヒロパパって。」

「ナミの片想いの相手よ。これもいい男なんだけど、患者だから手が出せないんだって。」

「わたしそれ初耳よ。そんな人いたの、なんで話してくれないの水くさいわね。」

「テレサと飲んだ日、オキクは出張で居なかったから…。」

 この場でナミの片想いの相手が希久美の見合い相手だと判明したら大変なことになる。テレサはこの話がこれ以上突っ込まれないよう慌てて話題を変えた。

「でもオキクもすごいわね。私が薬の力を借りても、どうにもならなかった男のこころを動かしたんだから。綿密な計画もさることながら、その行動力と演技力には脱帽するわ。」

 『演技力』という言葉が、希久美の心に刺さった。泰佑の一筋の涙を思い出した。

「ねえナミ…。」

「嫌ね、妙に潤んだ眼しちゃってなによ、オキク。」

「泰佑は…治らないの?」

「えー、この期に及んでなに。いまさら情けを掛けるつもり?」

 テレサが口をつけていたお猪口を、テーブルに叩きつけて言った。

「そういうわけじゃ…。」

「ちゃんと診察を受けてくれれば、その糸口くらい見つけられるかもしれないけど、それでも治るかどうかわからない。治すためには患者のこころの奥底に入って、その理由を探して取り除いてあげないとだめなの。でも患者さんがこころの奥底まで受け入れてくれるなんて、どんな優秀な精神科医でも、それができるとは限らない。」

「泰佑が心の奥底まで受け入れられる人か…。」

「そうね。いま思いつくのは、高校時代の菊江くらいなものだけど、もう死んじゃってるしね。」

 ナミは、テレサを睨みつけた。テレサは視線を落として、忙しく箸を口に運んだ。

「ということは一生、男として女を愛することができないし、当然父親にもなれないんだ。」

「ねえ、プチ・プラザのチイママの話しを想い出さない。」

 テレサが急に会話に参加して来た。

「男に愛されず女になれなくなったニューハーフ、女を愛せずに男になれなくなった青年。つまり両方とも『奇妙な果実』ってわけね。」

 テレサの言葉が、また希久美の胸に刺さった。いくら飲んでも、もう希久美は酔うことができなかった。


 診察室のドアを開けて入ってきたのは、ユカとヒロパパであった。

「あら、先日はお世話になりました。どうぞお掛けになってください。」

「はい。こちらこそすっかりお世話になってしまって…。」

 石嶋がユカを膝に抱きながら、診察用のいすに座る。

「今日はどちらを診たらよろしいのかしら。ユカちゃん?それともヒロパパ?」

「ユカと自分のことでご相談があって…。ちょっとユカに聞かれたくないのですが、外に出していいですか?」

 ナミは石嶋をしばらく見つめた。楽しかったあの一日を思い出した。しかし帰りのタクシーの中で、医師であることに徹しよう決心したのだ。石嶋への思いが募れば募るほど、言葉は冷徹な医師の口調になってしまう。

「私は医師です。健康に関することしか答えられませんよ。」

「はい…。」

 ナミは、看護師にユカを連れ出してしばらく相手をするように指示した。ユカが部屋を出ても、石嶋はしばらくもじもじして話し始めない。

「他の患者さんがお待ちですから、早くお話し下さい。」

「はい。…実は仕事や将来にとても強い影響力がある人から、結婚を勧められています。相手はその人の娘なんです…。」

「何度かデートされていた方と違う方かしら?」

「いいえ、その人です…。でも、どうもユカの事は受け入れてくれないみたいで」

「デートにユカちゃんを連れて行ったんでしょう?」

「あっ、受け入れてくれないのは父親の方でして…。お付き合いしている女性は、ユカを連れて行った時優しくしてくれたんですが、正直まだどうだかわかりません。」

 ナミは黙って石嶋を見つめていた。

「この結婚を考えようと思っても、もしユカが先生のおっしゃっている通りだったら、ユカが心配で…。逆に、ユカは落ち着いた両親がそろったところで育った方が、自分みたいな半端な人間のもとにいるより幸せになれるんじゃないかとも思うし。それにユカの為に自分の夢をあきらめても、後々ユカは本意じゃないと悲しむかもしれないし。」

 黙って石嶋の話を聞いていたナミだったが、ついにキレた。

「石嶋さん、あなた馬鹿ですか?」

「えっ?」

「おかしいんじゃないですか、ユカちゃんのこと考えているようなこと言ってますが、一番大切なことから逃げています。ユカちゃんと一緒にいることを選んで、もし仕事が上手くいかなくなったらユカちゃんのせいにするんですか?ユカちゃんと離れることを選んで、結婚生活が上手くいかなくなったら、ユカちゃんに負い目があったからって言うんですか?」

「何も先生、そんなに怒らなくても…。」

「いいですか、大切なことは石嶋さんの想いがどこにあるかなんじゃないですか?仕事が好きなんですか?その女性が好きなんですか?ユカちゃんが好きなんですか?おい、石嶋隆浩。お前の想いはどこにあるんだ。」

 待合室まで聞こえるほどの大声に、石嶋は震えあがった。看護師が止めに入るか悩むほどの剣幕である。

「この際ユカちゃんなんか考えなくていい。あなたの想いがどこにあるかで決めればいいんです。それで決めたことなら、それがもしユカちゃんと離れることであっても、ユカちゃんはそれを受け入れなくてはいけないんです。いや絶対わかってくれます。今日つらくても、結果的に明日は幸せになれるんです。」

 興奮のせいか、なぜかナミの目に涙がにじんでいた。

「だから、今こうして目の前に座っている石嶋さんは、情けないひきょう者にしか見えません。診察は終わりです。お帰り下さい。次の方どうぞ!」

 それだけ言うと、ナミは石嶋を見ることもなくカルテのモニターに顔を埋めた。だから、石嶋がどんな表情で出て行ったのか、ナミは知ることもなかった。


「青沼、1階の受付にお客さんだぞ。」

「今日は別に約束なかったはずなのに…。」

「石津ミチエさんだって。4階の応接ルームに通すか?」

 泰佑のおばあちゃん?

「いえ、私が1階に行きます。」

 希久美は意外な訪問者に、胸騒ぎを覚えながら1階の待ち合わせロビーへ降りていった。受付に着くとフロアの隅で不安そうに希久美を待つミチエの姿が見えた。その小さくなった肩には、ロビーで右往左往する大勢の来客に圧倒された心細さが現れていた。緊張しているのか、話し方も以前泰佑の家で会った時とは違ってぎこちない。

「突然おじゃましちゃって。ご迷惑だったですね。」

「いえ…。」

「本当にごめんなさいね。でもこの会社は大きいわね。人が大勢行き来して、なんか東京駅に居るみたい。」

「特にこの受付は、社員の自分も呆れるほど人が多いです。…ところで、今日は?」

「ご相談したいことがあって…。少しお時間をいただけるかしら。」

「ちょうど昼休みですから、お食事でもしますか。」

 希久美は、ミチエをシオサイトにある蕎麦屋へ案内した。いつもは満席になる店も、早めの昼なのですぐ座ることができた。

「どうされたんですか?」

「実は、泰佑のことなんですけど…。」

 当然そうだよな。希久美は襟を正した。希久美はデートの日以来、泰佑と会っていない。次のプロジェクトの都合で泰佑のオフィスが変わったこともあるが、自分が泰佑にしたことの評価や泰佑への感情が整理できず、みずから連絡をとる事が出来ないでいた。むしろ、防衛本能なのか泰佑に関しての思考を無意識のうちにストップさせていたという表現の方が正しいかもしれない。

「もともと泰佑は仕事を熱心にする方なんですけど、最近の泰佑の仕事ぶりは度を越していて…。まるで狂ったように仕事をしているんです。毎日帰って来るのも夜明け近くだし。それでいて、朝早くまた出ていくし。食事もろくに取らないから頬がこけちゃって、疲れのせいか目つきも悪くなっているし。少し休んだらと言っても、全然言うことをきかないのです。家じゃろくに話もしないから、わけがわからなくて。このままじゃ泰佑は倒れてしまうんじゃないかと心配しています。」

 あいつ馬鹿なことを…。希久美は心の中で、あの夜静かに語った泰佑の話しを思い出していた。

「お付き合い頂いている青沼さんなら事情をご存じかと思って…。」

「別にわたしたち付き合ってるわけじゃないですよ。今は泰佑と働くオフィスも別なので、全然会ってないし。」

「高校の時と同じように、前日からそわそわして…。珍しくめかしこんで出て行った日があって。その日以来様子がおかしくなったんです。あの日、青沼さんとお会いになったんじゃないかと思って…。」

「いえ、別に会ってませんが…。」

 希久美は嘘をついた。あの日、自分が泰佑に何の目的で何をしたのか、ミチエに言えるはずもない。

「そうですか…。変なこと申し上げてごめんなさいね。ならば、わたしの話し忘れてくださいな。」

 ふたりの席にそばが運ばれてきた。そばを見て希久美は、翁庵で不公平なシェアに抗議していた泰佑を思い出していた。しばらく、黙ってそばを食べていたふたりだが、希久美が箸を止めてミチエに問いかけた。

「あの…。プライベートな話なんですが、聞いてもいいですか?」

「どうぞ。青沼さんなら、なんでもお答えしますよ。」

「あの…。泰佑はお母さんとどんなだったんですか?」

 ミチエは、箸を止めてしばらく希久美の顔を見つめていた。答えをためらっているというよりは、どう説明していいか考えをまとめているような感じだった。

「泰佑の母親は、つまり私の娘ですけど、とても自己中心的な子でね。なにかあると全部人のせいにするし、ひとに謝ったこともほとんどない。考え方が常に、自分が世間に対して何ができるかより、世間が自分に何をしてくれるのかだったのです。私の育て方が間違っていたんでしょうね…。だから、自分の子供に関してもそうでした。泰佑にとっての自分を考えることができず、常に自分にとって泰佑がどうであるかしか考えられなかったのね。」

 ミチエは、もう食欲をなくしてしまったようだ。箸を置いて話すことに集中していた。

「泰佑を産んだ時、自分の天中殺の期に生まれた子だと言って、はなから自分とあわないと決めつけていたようでした。意図的に遠ざけていたようだし、会えば文句ばっかり言っていました。父親と同居している時はまだよかったんだけど、離婚してからは私が預かることにしたの。でも、娘の為に言っておきますが、決して泰佑を愛してなかったわけじゃないのよ。愛し方が適切じゃなかったのです。」

「今はどうなんですか?」

「中学時代、高校時代の時は、大事な野球の試合は見に行っていたみたいだけど、今ではもうほとんど会うこともないし、たとえ会ったとしも泰佑はひとこともしゃべりません。」

「そうなんですか…。」

「あの…。母親のことが今の泰佑に何か関係があるんですか?」

「いえ、別にそう言うわけじゃないんですけど…。」

 ふたりは食事を終えて店を出た。

「図々しいお願いですが、もし機会があったら、泰佑と話してやってもらえますか?」

「はい…。おばあちゃんも御心配でしょうから、近いうちに私も連絡を取ってみます。」

「そうですか、ありがとうございます。今日は突然おじゃましてすみませんでした。」

「いえ、こちらこそご馳走になってすみません。」

 手を振ってミチエを送る希久美ではあったが、ミチエとの約束を守れるかどうか自信が無かった。


 石嶋の誘いで希久美は指定されたレストランに向かっていた。希久美の気は乗っていなかったが、断る理由もないので義父の手前、承諾したのだ。一方石嶋は、ナミに相談に行く前に取り付けた約束だったので当初からの積極的な姿勢を失っていた。案の定、気の乗らない希久美と積極的姿勢のない石嶋の会食は、言葉少ないだるいものとなってしまっていた。

 石嶋は、先日ナミに怒鳴られたことが堪えていた。これでナミに怒られるのは2回目だ。今回は情けない卑怯者とさえいわれて、取り返しようもないほど自分に失望したようで気が重かった。今までのナミとのやり取りを思い出す。ナミは石嶋の前で様々な顔を見せる。診察室に居るナミは、冷静で優秀な医師そのものだが、ユカと話す時は母のようで、雷の前では少女の様で、酔っぱらった時は叔母さんの様で、キッチンで料理している時は妻の様で…。えっ、何考えてるんだおれ。だいたい俺にさんざん怒っていたが、メールで俺を迎えに来させたりして、ナミ先生自身はいったい何を考えているんだ。石嶋がナイフとフォークを置いて希久美に話しかけた。

「青沼さん。質問があるんですが…。」

 希久美もようやく自分ひとりでないことを思い出して、石嶋を見た。

「はい、なんでしょう。」

「女性の本当の想いを知るためにはどうしたらいいんでしょうか。」

「それ、私のことですか?」

 希久美が警戒して石嶋に答えた。

「ごっ、ごめんなさい。青沼さんのことじゃなくて、一般論でいいんです。こんな質問ができる女性は青沼さんしかいないので…。」

「そうですか、安心しました。それならお答えしますが、残念ながら、女性の本当の想いなんて、男性がどんなことしてもわかるはずありません。」

「そうですか…。」

「女は綿密な計画を練って、相当な執着心を持って想いを隠します。それも無意識にです。自分の家族にもわからないんだから、ましてや他人の男なんかに解りっこありません。」

「ですよね…。」

「がっかりしました?」

「いえ…。」

「でも、人間のやることでもあるから、わずかな証拠を残す時もありますよ。完全犯罪に挑む名探偵のように、そのわずかな証拠を見逃さず、そして解読できれば、もしかしたらわかるかもしれませんね。」

「そうですか…。でもシャーロック・ホームズじゃあるまいし、自分にはできそうにありません。」

 ふたりの会話が途切れた。

 希久美は、泰佑とシェラトンホテルで別れた日から何日も、モヤモヤとした日々を過ごしていた。そのモヤモヤ感は、日を追うごとに膨らんでいく。この前ミチエと会ったことが、さらに胸のわだかまりを大きいものにしていた。期待もしていないが、泰佑からも連絡が無い。泰佑のオフィスは渋谷の岸記念体育館の中にあるので、偶然に出会う奇跡などあろうはずもない。えっ、今私なんて言った?泰佑に会いたいの?石嶋と食事しながらもそんな自問自答を繰り返していた。今度は希久美が石嶋に問いを発する。

「石嶋さん。質問があるんですが…。」

「はい、なんでしょう。」

「男性が、寝食を忘れ、体を壊すこともいとわず、狂ったように仕事をするのはどんな時でしょうか?」

 石嶋は、黙って希久美を見つめた。質問の意味を整理しているようだった。やがて話し始める。

「自分のため、恋人のため、家族のため、会社のため、社会のため。理由はいろいろあるでしょうが、正直なところそんな使命感で狂ったようには仕事できません。だぶん、それは自分への絶望感でしょう。自分自身の絶望感から逃避したいんです。きっとその結末には、いいことなんかありませんよ。」


 石嶋との食事を終えた数日後、仕事中の希久美の携帯に、ナミの電話番号が表示される。

「なに?」

「余計な話だと思うけど、石津先輩がさっきうちの病院に救急搬送されてきたわよ。」

 石嶋の答えが現実のものとなった。


 希久美が病院に駆けつけた時、泰佑は相部屋の病室のベッドで点滴を受けながら寝ていた。そばにミチエが付き添い心配そうに泰佑を見守っている。顔見知りである希久美に気付いたミチエは、安心してすこし顔を明るくして声をあげた。

「青沼さん。来て下さったの。」

「おばあちゃん。泰佑はどうですか?」

「今は落ち着いて寝ているけど、さっき気がついた時は、これから仕事へいくんだと大騒ぎだったのよ。」

 希久美は寝ている泰佑の顔を覗いた。驚いた。たった10日間前後でこんなに顔が変わるのか。頬が痩せこけ、あごの線が鋭くなっている。目の周りが落ちくぼんで、若干くすむとともに、肌と唇は荒れ放題。イケメンの残影はあるものの、躍動していた泰佑の面影はまったくない。

「そうですか…。でも命に関わるほどじゃないんでしょう。」

「今はそうだけど、退院すれば同じ事繰り返して、いずれは命に関わることになるような気がして心配だわ。」

 そう言いながら心細くなって震えるミチエ。希久美はその肩を優しく抱いて慰めた。病室のドアが開いてナミが入ってきた。希久美と目で挨拶する。

「そうだ、おばあちゃん。今入ってきた先生が、私の同級生で荒木先生と言うの。科は違うけどこの病院では顔が利くから、困ったことがあったら何でも相談してね。」

 ナミがミチエの手をとり挨拶した。ミチエは、よろしくお願いしますと言いながら何度も頭を下げた。

「おばあちゃん、ちょっと荒木先生と話してくるから待っててね。」

 希久美とナミが連れだって病室を出て、廊下にあるベンチで話し始める。

「どうして泰佑だとわかったの?」

「救患で精神科がからんでる予見があったんで、とりあえず私が呼ばれたの。カルテの名前を確認して驚いたわ。」

「そう…結局、泰佑はどうなの?」

「患者さんのことは、部外者に話せないのはわかってるわよね。」

「いいから話しなさい。」

 希久美の言葉に有無を言わせない強さがあった。ナミはしばらく考えた後話し始めた。

「まあ、あんたもこの件では部外者だと言える立場でもないしね…。過労からくる自律神経失調症よ。今は、メジャートランキライザー、つまり強力精神安定剤を投与して寝てるけど、目が覚めたら、また仕事に戻るって騒ぎだすでしょうね。」

「過労の原因は?」

「それはオキクが一番よく知ってるでしょ。とにかく最後の一発が致命傷だったのね。」

「おばあちゃんが、退院すれば同じ事繰り返して、いずれは命に関わることになるんじゃないかって言ってたけど…。」

「適切な治療を受けなければその通りね。」

「治療って前の話し?」

「そう、心の奥底に行って原因を見つけて、取り除いてあげる。でもこの病院にはそれができる人材も設備もないわ。」

「あれ、青沼さん。なんでここに?あっ、ナミ先生…。」

 ひそひそ声で話しているふたりの前に、突然石嶋が現れた。驚いて立ち上がるふたり。同時に病室のドアが勢いよく開きミチエが飛び出してきた。

「青沼さん。なんとかしてください。泰佑が起きだして、仕事へ行くと言いだしてるんです。」

 希久美が、石嶋とナミを残して病室に飛び込む。泰佑が、半身起こして、乱暴にも点滴の管を抜こうとしていた。

「このばか泰佑っ!あんた何やってんの!」

 希久美の一喝は、泰佑どころか、相部屋のすべての人々を凍りつけるに十分な迫力とパワーを持っていた。

「オキクだ…。」

「なに、あたしがいちゃ迷惑?つべこべ言わずに、おとなしく寝てなさい!」

 泰佑は、すごすごとベッドに戻り、希久美に言われるがままに布団を被った。

「青沼さん。あなたさすがだわ。」

 仁王立ちの希久美の背後でミチエが絶賛の拍手を贈る。ナミと石嶋が希久美の剣幕に怯えてその様子を見守っていた。


 今泰佑のベッドを、希久美、石嶋、ナミの3人が囲んでいた。それぞれが何かを言いたそうなのだが、誰も口火を切れない。雰囲気を察知したミチエは、果物でも買ってくると病室を出てしまっている。4人がお互いの顔を盗み見しながら流れる気まずい沈黙を、救世主が現れて打ち砕いてくれた。

「泰佑ちゃーん。おかげんどう?あらま、みなさまお揃いで。」

「テレサ!」

 4人が同時に彼女の名を呼び、そして皆が彼女の名を知っている事にまた驚いた。

「あんた、なんでここに?」

「ナミが一大事だから来いってメールくれたの。」

「ナミ!」

「だって、オキクが来るって言うし、3人いた方が心強いかと思って…。でも、なんでヒロパパがテレサを知ってるんですか?」

 石嶋はこの前の怒りを忘れて久しぶりにヒロパパと呼ばれたことが嬉しくて、声を裏返しながら答える。

「いえね、青沼さんとユカとで上野公園に行った時に、お会いしたんです。」

 ナミの顔色が変わった。

「えっ、するとヒロパパのデートの相手ってオキクなの。」

 泰佑の病的な顔色が驚きで赤く変わった。

「オキク、お前、隆浩と付き合ってるのか?付き合っててあんなことを…」

「キャーッ、ネズミよー。」

 3人娘が同時に叫んで泰佑の言葉をかき消す。

「ちょっと待ってよ、うちの病院にネズミなんかいるわけないでしょう。」

「なによ、あんたも一緒に叫んだくせに。」

 ナミとテレサの言い合いにも構わず、希久美が泰佑に説明する。

「石嶋さんとはお義父さんの紹介で何度かお会いしただけよ。」

「ちょっと待ってください青沼さん。泰佑に言い訳がましく説明する必要があるんですか?」

「いえ、そう言うわけじゃ…。」

「ヒロパパ。オキクになんだかんだ言う資格なんかあなたにはないでしょう。」

 ナミが絡んできた。

「ナミ先生、患者に関する守秘義務は守ってください。」

「何言ってんのよ、この卑怯者。」

「またぁ、ここでそんな言い方はないでしょう。」

 ナミと石嶋の言い合いに泰佑が介入する。

「隆浩、荒木先生に失礼だぞ。」

「そうですよね、タイ叔父さん。」

「えーっ、なんでユカと自分しか知らないその呼び方を知ってるんです?」

 ナミに食い下がる石嶋と希久美を交互に見つめながら、泰佑がしみじみ言った。

「でもオキク。よかったな。隆浩に幸せにしてもらえ。」

「あら、泰佑すねてんの?」

「馬鹿言うなよ、素直な気持ちだよ。」

「も一回ちょっと待ってください青沼さん。泰佑とはどんなご関係なんですか。」

「会社の同僚よ。」

「ほら、前に話したいじめっ子だよ。」

「ああ…。じゃあ石を投げて気持ちいい奴ってのは泰佑のことだったんですか。」

「そんなこと言ってたのか?やっぱりな。」

「あたりまえでしょ。そもそも…。」

「キャーッ、ネズミよー。」

 今度はナミとテレサの二重奏で希久美の言葉をかき消す。

「うるさいわね、わかったわよ。ところで泰佑と石嶋さんはどういう関係なの?」

「高校時代のバッテリーです。」

 石嶋の即答に今度はナミが反応した。

「えっ、あの野球部の、あの2番手バッテリー?」

「荒木先生ご存じなんですか?」

「ナミ先生ご存じなんですか?」

「はーい、皆さん注目。」

 テレサがベッドの上に立ちあがって皆の話を中断させる。

「ここで重大発表がありまーす。そうするとですね、ここに居る5人は、みんな駒場学園の卒業生ってことがわかりましたー。」

「えーっ。」

 5人一斉の驚嘆の声のあと、息せききったように思い出話に花が咲く。

「あのー…。」

 帰ってきたミチエが申し訳なさそうに入ってきた。

「同窓会でお楽しみのところ申し訳ないんですが、もう面会時間は終了したと看護師さんに怒られてしまって…。」


 ベッドでユカを寝かしつけながら石嶋は、意外なこともあるものだと今日の病院での一件を思い出していた。5人がみんな同じ高校だったとは…。でも、友達に囲まれたナミ先生は、診察室での威厳のある女医とは違って、女子高校生のようで可愛らしかった。また、新たな一面を発見してしまったようだ。野球ばかりやっていた自分だけど、高校時代にナミ先生とすれ違っていたかもしれない。どんな女子高校生だったんだろう。やっぱり可愛かったんだろうな。希久美もテレサも居たのに、石嶋はナミの事ばかり考えていた。


 泰佑は病室のベッドの上で、久しぶりに会った希久美を思い返していた。やっぱりあいつはかっこいい女だ。しかし自分は情けない姿を見せてしまった。こんなのは良くない。なんか希久美の前でこれ見よがしに自分の衰弱を見せつけて、同情を誘っているようだ。おとなしく養生して、一から出直そう。希久美を男として愛せないのは、本当につらいが、石嶋ならいい奴だし、きっと希久美を幸せにしてくれるに違いない。病室の薄い布団を頭から被り、何度も自分に言い聞かせていた。


 薔薇の花弁が浮いているバスタブに浸かりながら、テレサはワインを飲んでいた。今日はなんか面白かったな。あたしこんなドタバタ劇が大好き。このままなんの決着も迎えないで、いつまでもドタバタ出来れば楽しいんだけど…。でも、ちょっと気になるな。5人でしょ。男の数と女の数を考えるとどうやっても女がひとり余る計算だわ…。まあしょうがないか、所詮世の中いす取りゲームだからね。テレサはグラスに残ったワインを飲みほした。


 宿直室で論文を読むナミ。今夜はやけに長く感じる。石嶋がつき合っている相手が希久美であることに少なからぬショックを受けていた。希久美は親友だから、なおさら親友の付き合っている男と恋愛なんかできるわけない。でも、希久美は石嶋をどう思っているんだろう。石津先輩とばかり言い争っていて、石津先輩と居る時には石嶋が眼中にないような気さえする。そういうわたしは、自分は石嶋とばかり言い争っている。冷静になろう。そう私は医師なのだから。そんな考えにふけっていると、携帯が鳴った。相手は希久美であった。

「ナミ、私決めたわ。協力してくれる。」

 希久美から聞いた協力依頼内容にナミは度肝を抜かれた。


 翌日の夜、病院に元女子高生3人組が集結した。希久美の装いを見たナミが感嘆する。

「懐かしい…。10年前の制服なんて、良く持ってたわね。」

 ナミと肩を組んで希久美の制服姿を見ていたテレサも会話に参加する。

「それに、高校の制服がまだ着れるんだ。」

「日頃のエステとジムの成果かしら。」

 ナミがため息をつく。

「あーあ、私は絶対無理。背は変わってないけどもうウエストなんかとんでもない。」

「私はまだ着れるわよ。」

 テレサがあごをつんとあげながら、さらに自慢を加え始めた。

「でもなぜか、胸だけがきつくて…。あのころに比べて大きくなったのかな。」

「あんたの場合は男に揉まれ過ぎよ。」

「ちょっと失礼じゃない。」

「でもさ、テレサも高校の制服を着ることがあるの?」

「彼氏の中に好きな奴がいてね…。」

 希久美とナミが吹き出す。慌てテレサがふたりの口をふさぐ。

「ちょっと静かにしなさいよ。ここは病院でしょ。」

「でもさ、私も来る時大変だったのよ。コートで隠してはいるものの、ちらちら見えちゃうから、オヤジどもにじろじろ見られちゃって…。絶対コスプレの玄人だど思われてるわよね。」

「コスプレを楽しむには、コツがあってね…。」

 テレサの解説を希久美が遮る。

「テレサ、んなぁ事はどうでもいいの。お願いして来たもの持ってきた。」

「はい、インタービュー用のインカムとレシーバ、イヤホン。」

 希久美が受け取ると、今度はナミに向って言った。

「ナミの方は?」

「病室を個室に変えといたわ。本人は不思議がっていたけど…。それに、さっき静脈麻酔打っておいたから、今本人は朦朧としているはずよ。たぶんからだも自由に動かせない状態。」

「オーケー!」

 希久美が、インカムを制服の下に装着し、みずからを奮い立たせるために両手で自分のほほを叩いた。

「オキク、いい。何度も言うようだけど、心の中に入って行くことはとても危険なことなの。なんだかんだ言っても、オキクは素人なんだから、石津先輩の心の声を聞いてあげるだけでいいのよ。他の人に話すことが本人に問題を自覚させるために一番いいことなの。それが回復への第1歩になるんだから。ごみの遮蔽物で閉ざされた川の流れでも、自分でどけられる小さなごみを見つけることさえできれば、あとは自らの回復への欲求が水圧となり遮蔽物を流し、川は徐々に平常の流れを取り戻すの。」

「わかった。」

「絶対!オキクが、問題がなんだか教えてあげようとか、問題を取り除いてあげようとかしちゃだめよ。」

「わかった。」

「私達はここで、レシーンバーを通して聞いているから。問題があればインカムで連絡するし、あなたもわからないことがあったら聞くのよ。」

 ナミが言葉を詰まらせた。

「でもさ…、プロの医師がこんなことに加担して、本当にいいのかしら…。」

 直前に怖気づくナミの肩をテレサが叩く。

「深く考えないの。観光旅行だと思えばいいのよ。石津先輩の脳の中を旅行するなんて、なんか興奮するじゃない。」

「慰めが慰めになってないのよ。物事の本質がまったくわかってない!あんたはいつも…。」

 希久美がまとめている髪を解いた。いつもは風に美しく揺れていた長い髪が、高校時代と同じく肩の上の線で切られていたのだ。ナミとテレサが息を飲んだ。

「あんた、そこまで…。」

「いくわよ。」

 希久美が泰佑の病室のドアノブに手を掛けた。


 泰佑は、長いこと睡眠と覚醒の間をさまよっていた。夢を見ては目を覚まし、目を覚ましているかと思えば夢であったり。昼なのか、夜なのか、朝になったのかも自覚できない。時間のない海に漂っているようだ。すると荒天の空から一筋の光が射して、泰佑のからだ全体を照らしている感覚を覚えた。光ではない、視線だ。まぶたを開けようとするが、あまりにも重くて、思うように開かない。からだはもちろんのこと、手の指先さえも、少しも動かすことができない。やっとのことで、まぶたを開けると、枕元で自分を見つめている女性のシルエットが目に入った。焦点があわず誰かわからない。女子高校生のようだった。

「菊江か…。」

 泰佑はやっとのことで、声を絞り出した。

「ひさしぶり、石津先輩。」

「お前死んだんじゃ…。」

「そうですよ、天国からいつも先輩を見てたの気付かなかったですか?」

「どうしてここへ…。」

「先輩があまりにも情けないから、見てられなくて。」

「そうか…。」

 泰佑はしばらく黙っていたが、何度も唾を飲み込んで、強い声を作ろうとしていた。これだけははっきり伝えようとする意思が希久美にもわかった。

「菊江、酷いことしてごめんな…。」

「そうですよ、酷いですよ。私泣いちゃいました。」

「本当にごめん…。」

 希久美は、泰佑の謝罪には答えず泰佑の汗ばむ額をなぜながらしばらく黙っていた。

『オキク、ここで許してあげるのよ。』

 インカムからナミの声が聞こえた。希久美はそれでも何も言わなかった。ただ、泰佑の額を撫ぜ続ける。

『何してるの?はやく許しの言葉を与えるのよ。』

 希久美から出てきた言葉は違っていた。

「石津先輩、絶対に許しません。」

「ああ、そうだろうな…。わかってたよ。」

 希久美は、今度は泰佑の手を握った

「ところで、なんでこんなになっちゃたんですか?」

「ふふふ、情けない。」

 泰佑のその後の言葉が出てこない。希久美は握っている手の力を強め、泰佑を力づけた。励まされた泰佑がようやく口をひらく。

「実はね…。」

 泰佑は、シェラトンホテルで希久美に話したと同じストーリーを、かすれる声でゆっくりと話し始める。

「…。好きになった女性を男として愛せない。女性としての幸せをあげることができない。そんな自分が息もできないくらい情けなくて、彼女のことも自分のことも忘れたくて仕事してたら、いつの間にかここに運ばれてたんだよ。」

『うわっ、ねえこれってすごくない。石津先輩の頭の中にある、まぎれもない本心を聞いたのよね…。』

『シッ!』

 テレサの興奮した声がイヤホンを通じて聞こえてきた。

「石津先輩、その女のひとがそんなに好きなんですか?」

「ごめん、菊江にはわるいけど…。」

「その女、やめた方がいいですよ。石津先輩を殴ったり蹴ったり、薬盛ったり、挙句の果てに遊びで先輩をホテルに誘ったりしたんでしょ。何考えてるかわかりません。」

「でも、何やらせてもカッコいい女性なんだぜ。焼いてるのか?」

「違います!もっとも死んでしまった私には関係ないですけどね。」

「安心しろ、親友がお見合いしている相手なんだから、これ以上近づかないよ。」

「お見合いだなんて…。」

『そんなこといいから!薬が効いてる時間は短いのよ、次へ行って!』

 ナミに遮られて、希久美の質問は次の段階へと進む。

「でも、どうして私とだけできたんでしょうね?」

「そうだね、どうしてかね。」

「私と出会う、もっと、もっと前のこと話して下さいよ。」

 泰佑は、今度は何も答えなかかった。何かが飛び出さないように、まぶたと口を固く閉じているようだった。希久美はベッドにあがると、泰佑の傍らに横たわり、腕枕をして泰佑の頭を包んだ。泰佑は、希久美の香を体に取り込むように深く息を吸った。

『ちょっと、オキク。あんた何やってるの?』

 ナミの問いにも答えず、希久美は質問を続ける。

「安心して話してください。私はここにいるし、ずっと先輩を見ているから…。」

 泰佑は、希久美の腕の中で大きくため息をついた。

「何から話せばいいんだ…。」

「小さい頃の話ですよ。まぶたを閉じたら、ほら子供が見えたでしょ。」

「ああ…。」

「その子は何してるんですか?」

「…お母さんを探してるんだ。幼稚園で折り紙のリボンが上手く出来たから、見せたくて…。」

「お母さんは居ました?」

「見つかった。でもマイナスイオンが出る敷布団を売るとかで、知らない叔母さん達と相談している。」

「それでどうしたの。」

「話が終わるのを待ってた。」

「いい子ですね。」

「叔母さん達が帰ったから、お母さんを呼んだんだ。けど…呼んでも、呼んでも、こっちを見てくれない…。」

 希久美は、泰佑の髪をなぜながら黙って次の言葉を待った。

「その子は…頭にきて、折り紙をくしゃくしゃにして床に放り投げた。でも、そのごみですら、何に日もそのままになってた…。」

 知らずに泰佑の頭を抱く希久美の腕に、力がこもっていた。

「でも、そんなことばかりじゃないでしょ。」

「ああ、今度はお化粧台の前に居るお母さんを見つけた。これから訪問販売にいくから化粧しているらしい。一緒に連れて行ってくれるんだって。」

「よかったわね…。」

「行くとまたこの前の叔母さん達が待ってた。お母さんが、これから知らない人の家に行くから、ここで待ってなさいって言った。」

「どこで待ってたの?」

「小さな公園だよ。…待っても、待っても、お母さんは帰ってこなかった。暗くなって、怖くなってお母さんを探し歩いた。歩き疲れて、歩道でしゃがみ込んでいる時におまわりさんに拾われた。」

 希久美は泣きながら夜道を歩いている幼い泰佑を思い描いた。胸が痛んだ。

「警察に呼ばれて交番に来たお母さんは、これから公園へ迎えに行くところだったと、盛んに言いわけをしていた。でもね、おまわりさんにその公園の位置を尋ねられて、お母さんは答えることができなかったんだよ。」

 警官と母親の言い合いを見ながら、交番のベンチでひとりぽつんと座る泰佑の幼い姿を思い描いた。もう希久美は涙を押さえることができなかった。もちろん、インカムを通じて話を聞いていた外のふたりの目にも、涙が溢れていた。

「だったら、最初から産まなければいいんだ。産みさえすれば、子供は勝手に育つと思い込んでる。いいや、そう思い込んでくれる方がよっぽどましかも知れない。だって、その子の母親は産んでることすら忘れてるんだよ。」

 泰佑の目尻から、大粒の涙が一筋流れた。

「そりゃそうだよな…。その子の存在自体を忘れてるんだから、その子がいくら呼んでも、見てもくれないし、来てくれるはずもない。」

 そうよ、全部吐きだしなさい。息を荒くして語る泰佑だが、希久美はそれを押さえようとはしなかった。

「女なんてみんなそうだ。自分にやりたいことができれば、他のことは簡単に忘れる。自分の産んだ子さえ忘れるくらいなんだから、男のことを忘れるなんて朝飯前だ。しかも心に波風をまったくたてずにやってのける。そんな相手を同じ人間と思えるか?自分に言わせれば妖怪だよ。妖怪相手にセックスなんか出来るわけがない…。」

 ここだ、ここが核心だ。泰佑の話を聞いている3人がみな、そう直感した。希久美が叫んだ。

「でも私とは出来たわ。」

 泰佑が思わず希久美の顔を見上げる。

「そうよ、出来て当たり前だわ。だってあたし2年も先輩のこと見つめ続けてたんだから…。知ってたんでしょ。それだけ見守ってたら、妖怪じゃなくなるわよね。」

 希久美は泰佑を自分の胸の中で強く抱きしめた。

「居るのよ、先輩。私の様に何年も先輩を見続けて、それでもまだ見飽きないで見続けるような馬鹿な女が。」

「菊江、お前…。」

「私は死んじゃったけど…。必ずそんな女はいるの。そりゃぁ、私みたいないい女は少ないから、何度か失敗するかもしれない。でも恐れないで、時間をかけてそういう女を見つけるのよ。そして、今度は先輩がその人を見つめ続ける番よ。その人と作った家族を見つめ続けるの…。」

 希久美の言葉を聞いただれもが、彼女の言葉に感動して流れる涙を止めようがなかった。ナミもテレサも、病室の外で声を押し殺し、抱き合って泣いていた。


「あのう、荒木先生」

 抱き合って泣いているナミの肩を看護師が叩いた。

「えっ、なに?」

 涙を拭きながら慌てて立ち上がるナミ。テレサは崩れた化粧を見られないように顔をそらした。

「あのう、急患なんですけど、PHS鳴ってませんでした?」

「ご、ごめんなさい。テレサあとは、菊江が静かに去るだけだから頼むわよ。できるだけ早く戻るから…」

 インカムをテレサに投げ渡して、ナミは看護師とともに救急処置室へ走って行った。


「石津先輩、神様から貰った時間も残り少なくなったわ。そろそろ帰ります。」

 希久美は、ベッドで半身を起こし泰佑に言った。長い時間話していたから、薬が切れかかっているかと心配したが、泰佑はまだ身体が動かせないようだ。

「そうか…。今日は来てくれてありがとう。」

「最後にお願いなんですけど…。」

「なに?」

「私が天国に帰っても、あのホテルに誘った性悪女は、だめですよ。」

「だから、親友の見合い相手には近づかないって。」

「安心しました。」

「自分も菊江に最後のお願いしていいかな?」

「だめです。いくら謝っても許しません。」

「そうじゃないよ。」

「なら、なんです?」

「その…。一緒に連れて行ってくれないかな…。」

 希久美の胸がキュンと鳴った。ここで、なんでそんなセリフがはけるの。狂おしいほどこの男が愛おしく感じられた。

「そんなこと今言うんだったら、あの時私ひとり残して、出て行かないでくださいよ…。」

「ごめん。」

「だめに決まってるでしょ。」

「そうか…。無理言ってごめん。」


 インカムを通してふたりのやり取りを聞いていて、テレサの霊感が働いた。マイクに向かって指示を出す。

『ナミからのお達しよ。男性機能が回復しているか、キスして確かめてから去りなさいって。』


「えーっ?」

「どうした?」

 ひとりで何かに驚いている希久美を見て、泰佑が不思議そうに尋ねた。

「いいですか先輩。これから私が先輩に何をしても、動かないでください。私に触ったら殴りますよ。」

「どっかで聞いたことがあるセリフだな…。」

 希久美は、起こした半身を泰佑に近づけて、泰佑の頬を優しく支えながらキスをした。ホテルでキスをした時と違って、泰佑の唇は荒れていてざらざらしていた。けれど、泰佑の心の奥底を知ってしまった今では状況が違っている。頭のてっぺんで鳴る鐘はあの時以上、いや想像を絶するほどのボリューで希久美の全身に響いた。希久美が嫌がる自分の身体をなだめてようやく唇を離すと、息が上がっていてなかなか話し出すことができない。

「ハァ、ハァ、どうです…からだに変化ありましたか?ハァ…。」

 目をつぶって希久美のキスを受け入れていた泰佑が薄眼を開けた。口もとに悪戯な笑みを浮かべていた。

「どうかなぁ…。なんかあったような、なかったような…。悪いけどもう一度お願いできるかな。」

「えーっ、もう一回ですか?」

 嫌がった希久美だが、それでも身体は泰佑の唇に吸い寄せられていた。突然泰佑が希久美を抱きしめた。

「不思議だ、あの時と同じだ。体に力が満ちて来た。」

 ついに薬が切れたんだわ。今度は泰佑が希久美を抱きしめて力強いキスをした。希久美は、10年間このキスを待っていたことに気付いた。

「わかりました、石津先輩。菊江は今夜一晩、先輩のものになりますから…。好きにしてください。でも…壊しちゃだめですよ。」

 熱い喜びのうねりの中で、意識が薄れていく希久美は、こう言うのが精いっぱいだった。


「オキク。武士の情けだ。」

 外にいるテレサが、インカムのスイッチを切った。


「ごめんなさい。時間がかかっちゃって。」

 ナミが急患の処置を終えて戻って来ると、ベンチの上で泣いている希久美の肩をテレサが優しく抱いて慰めていた。

「どっ、どうしたの?」

「大丈夫よ。オキクは悲しくて泣いているんじゃないから。」

 テレサがウインクをしてナミに答える。

「石津先輩は?」

「ひっく、幸せな顔して、ひっく、ぐっすり寝てるわ。もう大丈夫よ。ひっく。」

 今度は泣きじゃくる希久美が答えた。

「あれからいったい何が起きたの?」

「まあ、話しはあとまわしにして、とりあえす打上げに行きましょう。ナミも帰れるんでしょ。」

 テレサが希久美を助け起こして、歩き始めた。ナミが慌てて後を追う。

「打上げって…。なんか軽すぎない。」

「いいのよ。」

「オキクったらまだ泣いてる。何があったのよ?」

「慌てないの、ゆっくり話してあげるから。」

「でも飲みに行くなら、高校の制服はまずいんじゃない。」

「そうね、ナミのロッカーに着替えあるでしょ。」

「あるけど…。なにオキクその歩き方、どうしたの?」

「ひっく、ちょっと痛くて…。」

「えっ?えっ?なんで?なんでよ?」

「ひっく、ひっく、ほっといてよ!」

「そうよね、いくら久しぶりだからって、あの回数はないわよねぇ。」

「あんた、聞いてたの!ひっく。」

「えーっ、何の話しなの?気が狂いそうだわ。早く聞かせてーっ。」

 仲良し三人娘は、肩を組んで廊下の奥へ消えて言った。


 希久美は、自宅の電話の受話器を置いた。

「誰からなんだ?」

 義父が興味津々に、しかしさりげなさを装って希久美に問いかけた。

「この前過労で倒れた同僚のおばあちゃんからよ。」

「なんで?」

「この前お見舞いに行ったから、お礼の電話よ。」

 先週、泰佑は退院した。おばあちゃんは、お礼とともに、今は生活に落ち着きを取り戻して元気に働いていると報告してくれた。

「なんで本人じゃなくて、おばあちゃんなんだよ?」

 義父に説明は難しい。泰佑は菊江との約束を忠実に守っているのだ。

「もう…。お義父さん、うるさい。お母さんなんとかしてよ。」

 希久美が自分の部屋に逃げ込もうとする背中に義父の言葉が追いかける。

「来週末、石嶋君を家に呼んだから、おまえも家に居ろよ。」

 希久美が立ち止まった。そして振り返るとものすごい剣幕で義父に言い返す。

「なに余計なことしてるの!」

 あまりの剣幕に、さすがの義父もからだをこわばらせる。台所から希久美を叱る母の声がした。

「でも母さん、お義父さんの魂胆、見え見えよ。」

 希久美は大きな音を立てて、自分の部屋に駆け上がった。荒々しくドアを閉めると、ベッドに倒れ込んだ。

「元気に働いている…か。元気な泰佑を、周りの女の子がほっとくわけないしね…。」

 枕に顔を埋めながら、希久美はつぶやいた。


 石嶋は、ユカを寝かしつけるために部屋の明かりを消した。外が妙に明るいなと窓を見ると、煌々と月が青白い光を放っていた。反射しているだけなのになんであんな明るいんだろう。今日の月は、夜空の星を従えた王様のようだ。石嶋はふと青沼専務を思い出した。彼に、明日の土曜に自宅に来いと呼ばれたのだ。すると、次にすごい剣幕で怒っているナミ先生の顔が浮かんできた。『おい、石嶋隆浩。お前の想いはどこにあるんだ。』そうだよな、そろそろ自分の想いがどこにあるのか結論を出さなければいけない。ここに泰佑がいてくれたら相談できるんだけどな。病院で会った以来、あいつなんだか自分を避けてるみたいだ。ふと、ベッドを見るといつの間にかユカが半身を起こして石嶋をじっと見つめていた。

「どうしたユカ?」

 ユカが心配そうに石嶋の顔を覗きこんでいる。そして、小さな手を石嶋の額に当てた。

「ははっ、大丈夫。ヒロパパは病気じゃないよ。」

 ユカが枕の下から、ゴムチューブにつながった紙コップを取り出すと、片方を耳に当て、そしてもう片方を石嶋に向けた。

「すごいな、手作りか?ユカもお医者さんになるのか?」

 ユカがうなずいた。

「それじゃ折角だから、診てもらおうかな…。」

 石嶋は分厚い胸をユカに差し出し、ユカはパジャマの上から手作り聴診器を胸にあてた。

「なあ、ユカ。ヒロパパの心臓の音が聞こえるかい?」

 ユカは首をかしげている。石嶋はそんなユカの仕草が可愛くて仕方がなかった。

「もし聞こえたら、ヒロパパの心臓が、何と言っているか教えてくれないか。」

 ユカは胸をあきらめて、今度は石嶋の左手を取った。脈を採っているようだが、手を添える位置が全然ずれている。

「ユカはよく知ってるなぁ。そこでも心臓の音が聞こえるんだよね。聞こえるかい?」

 今度はユカが笑顔になって力強くうなずいた。そして、石嶋の左手首にゴムのリボンをはめたのだ。石嶋はそれがなんであるか憶えていた。ナミ先生がユカに買ってくれたシュシュだったのだ。


 ふろ上がりの泰佑は、石嶋と同じ月を見ながら缶ビールを飲んでいた。退院以来、忙しい毎日が続いていた。しかし、入院前とは違うさわやかな忙しさだった。今までゆっくりあの夜を考える暇もなかったな。明るい月に菊江のシルエットを重ねながら、あの夜の夢を思い出していた。

「それにしても高校生じゃあるまいし、女の子を抱いている夢をみるなんて、俺もガキだよな。」

 醒めないでくれと願っても、醒めてしまうのが夢だ。正直、朝病院のベッドの上でひとり目覚めた時は、どうしようもない虚脱感を感じた。鮮明に覚えている分だけ、目覚めた時のショックも大きかった。しかし、退院して病院を出た時、妙に身体が軽く感じられたのも事実だ。よくわからないが、何かが変わったような気がしていた。

 泰佑は男として、菊江の身体を愛し、そして希久美の心を愛することができた。でも、男として身体でも心でも愛することができる女性なんて本当に居るのかなぁ。そう思いながらも、疑問に思うこと自体が、自分にとっては大きな変化だと泰佑は気付いた。疑問は常に可能性のかけ橋なのだ。

 今日テレサにあった。オリンピックへ向けて、女性の強化選手を取り上げた編集タイアップを申し入れてきたのだ。企画は受け入れられたが、別れ際、泰佑の顔をじっと見つめて言ったテレサの言葉が胸に引っ掛かっていた。

『男って、ほんと馬鹿よね…。』

「そうさ、馬鹿で結構。要は顔を前に向ければいいんだ…。」

 許してはもらえなかったが、菊江は天国に帰って行った。オキクへの気持ちには蓋をした。ふたりとも素晴らしい女性だった。一生ふたりのような女性と出会えないかもしれない。でも、可能性だけで十分だ。明るく生きていける。泰佑は、菊江とも、希久美とも、ちゃんと決別して、出直すべきだと考えた。まず何からやろう。生身のオキクとは今まで通り距離を開けていれば、逢わないようにすることができるだろう。しかし、幽霊の菊江とはそうもいかない。そうだ、夢で逢わないように、後生大事に抱えていた菊江の手紙をちゃんと弔うことにしよう。泰佑は、菊江の手紙を取り出すために、本棚からアルバムを取り出した。そしてアルバムを開くと、手紙の代わりに一枚の紙切れがひらひらと舞落ちた。手にとって紙きれのメッセージを読んだ。

『ばかやろう!死んじまえ!』

 泰佑はしばし呆然とした。なぜ手紙が無くて、このメッセージがはさんであったのか必死に考えた。見覚えのある字だ。今まで聞いた言葉の断片の数々が、今まで見たシーンの断片の数々が、無作為に蘇っては、竜巻に吸い込まれるようにある方向に向かって収束していく。そしてようやく、テレサの言葉の本当の意味に気がついた。


 希久美の玄関の呼び鈴が鳴った。

「おっと、石嶋君かな。やけに早いな…。ほら希久美出迎えるぞ。」

 結局義父に逆らえなかった希久美が、嫌々リビングのソファーから立ちあがった。ここで石嶋と逢ってどうするつもりもない。義父が何と言おうと、石嶋が何と言おうと、来た時と同じ状況で帰ってもらおう。希久美はそれだけを考えていた。

 義父が玄関のドアを開けて招き入れた青年の顔を見て、希久美は硬直した。

「君は誰だ?」

 驚いた義父が強い語気で青年を誰何する。

「石津泰佑と言います。」

「何者だ?」

「お嬢さんの会社の同僚です。」

「何しに来たんだ?」

「小川菊江さんである青沼希久美さんに逢いに参りました。」

「お義父さん、そんなやつ追い出して!」

 踵を返して部屋に逃げ込もうとする希久美の手を、泰佑が掴んだ。

「お前、希久美になんてことするんだ!」

 娘を助けたい一心で、義父が握った拳を泰佑の顔に殴りつけた。泰佑は避けもせず、義父の拳固を受けた。泰佑の口から流れる血があごを伝わってワイシャツの襟を赤く染める。しかしそれでも、希久美をつかむ手も離そうとしない泰佑に、もう一発見舞おうと、義父が拳固を振り上げた時、希久美が自らの身体を泰佑と義父の間に投げだした。泰佑が希久美の身体を抱きとめると、義父を正視して赤く染まった口を不自由に動かしながら言った。

「どうか、少しだけお嬢さんとお話をさせてください。少しだけでいいんです。」

 泰佑の迫力に押され、義父はいいとも、ダメとも言えなかった。義父が動きを止めたことを確かめると、泰佑は希久美の腕を持って外に連れ出していった。玄関を出る時に、石嶋と出くわした。

「石嶋、お前には悪いが、譲れないんだ。」

 そう言い残して泰佑は希久美の腕を引いて出ていった。

 石嶋はふたりの後ろ姿を見送ると、事態が飲み込めないままとりあえず青沼専務に会うために、家の中に入っていった。玄関で青沼専務が奥さんになだめられている。

「俺がお前の家に始めて行った時も、あんな目つきしていただって?嘘だろ。勘弁してくれよ。希久美、大丈夫かな。」

 希久美を追おうとしている義父の袖を、希久美の母は離そうとしない。義父は母になだめられながら、ようやく石嶋の存在に気付いた。

「あっ、石嶋君。来てたのか…。」

「何かあったんですか?」

「いや…。すまんが今日はこのまま帰ってくれるか。この償いは必ずするから…。」

 石嶋は、希久美とのことについて、自分の会社人生を賭してまでも、青沼専務の意思と違った決着をつけにきたのだが…。もしかしたら泰佑に助けられたのかもしれないと思った。


 希久美は腕を引かれている間中、思いつく限り、ありとあらゆる罵詈雑言を泰佑に浴びせていた。泰佑は希久美を近くの小学校のグランドに連れ出して、ようやく手を離した。泰佑はバックネットに立てかけてあったも木製のトンボを手にすると、膝を使って柄を折ろうとした。木製とはいえ、比較的太い角材の柄はなかなか折れない。そのうちスーツのズボンも破れ手も赤くなってきた。

「あんた、何やってんの?」

 希久美が呆れて泰佑に言うも、泰佑はやめようとしない。やっとのことで折ったトンボの柄を希久美の前に投げ出した。ひと仕事終えた泰佑は肩で息をしながら、希久美に言った。

「いつから青沼希久美になったんだ。」

「泰佑には関係ないわ。」

「どおりで探しても見つからないわけだ。おまけに死んだなんて嘘言いやがって。」

「私は嘘を言ってないわよ。」

「じゃあ俺が夢で会った幽霊の菊江は誰なんだ。」

 希久美はそっぽを向いて返事をしなかった。

「まあ、そんなことはどうでもいい。ほら菊江、その棒で俺を殴れ。俺が憎くてしょうがないんだろう。」

「そんなことしない。そんなことしても許さないし、あんたなんか叩く価値もないわ。」

「俺だって許されようと思っていない。だから菊江の手で俺を一回殺して、一緒に成仏してくれ。」

「何バカなこと言ってるの。」

「そうでもしないとオキクと始められない。」

「そんな都合のいいこと言ってんじゃないわよ。」

 しばらくふたりは棒を間に睨みあっていた。やがて、泰佑が両手をズボンのポケットに突っ込んで話し始める。

「おい菊江、お前渋谷の待ち合わせ場所で初めて俺に抱かれた時のこと憶えているか?」

 希久美のこめかみの血管がピクリと動いた。

「なんだかんだ言っても、幸せそうな顔してたよな。でも、その時俺は別なことを考えていたって話したっけ?」

 ついに希久美が切れた。棒きれを掴むと泰佑の首筋めがけて振りおろしたのだ。泰佑はよけなかった。当たった首筋が、赤く腫れた。それでも泰佑は話し続ける。

「ラブホテルへ行く途中も、ひっぱっていたはずの俺が知らぬ間にお前に追い抜かれてたよな。」

 今度は、棒を泰佑の頭に振りおろした。希久美の顔は怒りで真っ赤になっていた。泰佑の額にひとすじ血が流れた。

「そうだ。ラブホテルに入る時に顔を見られたくないなんて言って、両手で顔を隠した。だから前が見えなくて、ドアにぶつかってたのを思い出したよ。」

 希久美は棒を横に払う。棒は泰佑の肘に的中して鈍い音がした。骨がなんとかなったようだ。

「入口で部屋の写真見ながら、あれもいい、これもいいって…。お前なかなか入る部屋を決められなかったよな。」

 希久美は泰佑の胸を突いた。咳き込んで泰佑の顔がゆがむ。

「ラブホテル入った時、小銭が無いって言ったら、釣銭がでたら恥ずかしいって、自分の財布からじゃらじゃら小銭出してた。」

 希久美の振りおろした右膝への一撃で、泰佑は地面に片膝をついた。

「そう言えば、ぼこぼこ動くベットが珍しいってはしゃいでたっけ。」

 希久美はもう一方の膝を打った。泰佑は、たまらず両膝を折って跪く。

「それに、ガラス張りのバスルームが恥ずかしいから、俺に目隠ししたよな。」

 棒がもう一度泰佑の肩に打ちおろされる。もう泰佑はふらふらだ。

「馬鹿だよな、お前。枕元にあったコンドームの袋を見て、ティーパックだと言い張ってた。」

 口をふさぐために、希久美は棒を泰佑の口めがけて振り払った。口の中が血で真っ赤になった。それでも泰佑は喋るのをやめなかった。

「覚えているか?いざベットに運んで強く抱きしめたら、お前、気を失いやがって。」

 ついに希久美は、泰佑の頭に致命的な一撃を見舞った。泰佑はついに、地面に倒れた。ぼろぼろのスーツのあちこちのほころびから、血がにじんでいる。地面にあおむけに倒れながらも息も絶え絶えに、泰佑が最後のコメントを吐いた。

「まだ…高校生だった俺が…気を失っている可愛い女の子を…だく勇気なんか…あるわけないだろう。からだの変化が…確認できたら…そのまま帰ったの…知ってた?」

 そのコメントを聞いて、希久美の体中の血液が逆流した。

「このばかやろー。お前なんか死んじまえっ。」

 希久美は渾身の力を込めて、10振目を打ちおろした。棒は、泰佑の頭の寸前のところで地面にあたりはじけ飛ぶ。棒を激しく振り回していた希久美の手は、もう真っ赤にはれていた。荒い息をしながら、空を仰いだ。ラブホテルで何があったにしろ、この男は私に悲惨な10年を過ごさせたことに間違いはない。

 泰佑はもう動かなかった。しかし希久美は泰佑の心配などまったくしなかった。こんな奴死んで当たり前だ。希久美は振り返えると、地面に倒れる泰佑を残し校門に向かって歩き始めた。やがて、希久美は不思議な現象に気付く。ホームベース上で倒れている泰佑から離れれば離れるほど、足が重くなっていくのだ。それでも、希久美は自分を励まして足を動かした。泰佑の引力の及ばぬところへ、早く脱出しなければ。もう少しでグランドを抜けようとした時、その声が希久美の耳に届いた。

「ヘーイ、外野ぁー。」

 泰佑のキーの高い良く通る声だ。突然、希久美の目の前が真っ白になる。やがてざわざわと野球部の部員たちの声が聞こえてきた。

『ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ。ライトー。』

『声出して行けーっ。』

 白光に目が慣れて、希久美が振り返ると、グランド一杯に真っ白なユニフォームを着た野球部員が散らばり、希久美に向かって声を掛けていた。

『ライト、よっつだ、よっつー。』

 高校時代に見た、焼けつくような日差しの中で、ファーストが、セカンドが、サードが、ショートがいる。右を見れは、センター、そしてレフト。目を戻せばマウンドでピッチャーさえもが、希久美に手を振って盛んに声を出している。忘れていたあの頃の熱さと汗のにおいが、今ここにあった。そして、幻ではない確かな声が、また希久美の心の中に届いた。

「ヘーイ、ライトー。」

 呼ばれた方角を見ると、ホームベース上で倒れていたはずの泰佑が、起き上がり、膝に手をついて声を張り上げている。周りを見るといつしか部員たちの姿は消えていた。

「もういいだろー。キャッチボール始めようぜー。」

 希久美の頭の中で、高校時代に見つめていた泰佑の様々な姿が、走馬灯のように廻った。どの姿もかっこ良かった。封印はしていたものの、泰佑が叩かれながら語ったラブホテルの事も今鮮明に思い出した。気を失ってからの事は聞かされて驚いたが、今考えると笑い話のような気もする。

「また、お前の球受けさせてくれよー。」

 改めて満身創痍の泰佑を見た。顔が笑っていた。なんであいつ、この状況で明るくにこにこ笑えるんだろう。希久美の頭の中で、会社で再会してから発見した新しい泰佑の姿が、走馬灯のように廻った。どの姿も嘘が無く誠実だった。しかも私はこいつの心の奥底にある本当の姿まで見てしまった。泰佑の事を私以上に知っている人間はいないだろう。それにしても、彼は私たちに何度薬を盛られたことだろうか。気の毒な気がするが、正直滑稽だ。

「バックホーム!」

 キャッチャーにそう言われれば、野手は何も考えず返球するしかない。希久美は自分の身体から、何かが抜けて行くのを感じた。泰佑の言う通り、菊江が成仏したのだろうか。


 菊江が体中傷だらけの泰佑を家にかつぎ込んだ時は、家じゅう大騒ぎになった。慌てる義父に構わず泰佑を自分のベッドルームに運びあげた。ドロドロのスーツを脱がせて、希久美はとりあえず傷だらけの身体を温かい濡れタオルで拭いてあげた、

「なによ。今更恥ずかしがる仲じゃないでしょ。」

 希久美はパンツ一丁の泰佑の背中をたたく。泰佑は大げさに痛がった。母が持ってきてくれた薬を、体中に塗りながら、希久美はポツポツと泰佑に話しかけた。

「いつわかったの?」

「昨日の夜、菊江から貰った手紙を燃やそうと思って…。」

「そうだった…大後悔だわ、そんなところに証拠残すなんて…。」

「手紙返せよ。俺の宝なんだから。」

「いやよ!」

 希久美は、傷口に無理やり面棒を突っ込む。

「痛て、やめろよ、そういうこと。でもさ…、菊江になって楽しかったか?今でも制服が似合うんだな?」

「黙れ、この変態。ああ、あたしもほんとに馬鹿。こんな変態に、2回もバージンを捧げるなんて…。」

 泰佑が固まった。

「えっ、あの夜が…。」

 希久美は返事をしなかった。

「オキク、あの…俺…ちゃんと責任取るから…。」

「お前馬鹿か?ラブホテルで逃げた男が言うセリフか。また叩くぞ。」

 妙に真剣に言った泰佑が滑稽で、思わず希久美も笑ってしまった。泰佑は希久美からの攻撃から逃れるために枕に顔を埋めた。

「オキク…。」

「なによ。」

「オキクの匂いがする…。」

「もう一回言うけど、あんた変態ね。」

「なあ、こっちこないか…。」

「かー、人間って変わるもんだわ。シェラトンホテルでは、怖くて震えてた男がねぇ。」

「なあ、いいだろ?」

「わたし的にはかまわないけど、下でお義父さんが聞き耳立ててるし、殺されるわよ。」

 絶妙なタイミングで、心配した義父が希久美を呼ぶ声がした。

「おーい、希久美。そのお客さんはいつ帰ってくれるんだ?」

 希久美が泰佑の耳元でつぶやいた。

「こんどは、お義父さんに恨まれたみたいね。怖いわよー。」


 宿直勤務明けの早朝、病院を出るナミの携帯が鳴った。相手は石嶋だった。ユカがまた熱が出た。それもかなり高い熱だと切迫した声で言っていた。救急車を呼べと、ナミは指示を出したがどうしてもユカが先生に会いたいと言って聞かない。そうね、私はユカちゃんとヒロパパの強い味方だから。そう呟きながら、ナミは仕方なくタクシーを飛ばした。

 石嶋の家に飛び込んでみると、ユカはキッチンの食卓で楽しそうに座っていた。

「石嶋さん、これどういうことです。」

 だまされた怒りをあらわに、ナミは石嶋に詰めよった。

「どうぞ、座ってください。ユカと自分が朝食を作りました。食べて行って下さい。」

 石嶋はナミの剣幕を一向に気にせず、にこにこしながらナミにいすを勧めた。

「だますなんて…。」

 ユカが、ナミの前で、おはようございますと丁寧にお辞儀をした。その仕草が可愛くて、ナミの怒りもどこかへ行ってしまった。仕方なく、勧められた椅子に座る。

「失礼だとは思ったんですが、ナミ先生は、ユカのことを持ちださないと、自分に会って下さらないから…。」

 ナミは石嶋の顔をみつめた。

「今日は、ユカではなく、自分がナミ先生にお会いしたかったんです。自分が作ったからまずいでしょうけど、ちゃんと朝ご飯食べて頂かないと、帰しません。」

 ナミは、目の前にあるオムレツを見た。形も崩れて見るからにまずそうだ。しかし、きれいな黄色が目に眩しく、立ち上る温かい湯気がナミのほほを撫ぜる。ナミはオムレツを一口食べた。確かにオムレツはまずかったが、それでもフォークを口に運びながら、小さな声で呟いた。

「困ります。プライベートでお会いするのは…。オキクの手前もあるし…。」

「先日、青沼さんの家へ行きました。そうしたら、目の前で泰佑が青沼さんをさらって行きましたよ。『お前には譲れん。』なんて怖い顔してね。」

 ナミのオムレツを食べるフォークの手が止まった。

「もっとも、青沼さんの家に行ったのは、失礼ながら、お嬢さんとのことをお断りするつもりで行ったんですけどね…。ああ、ナミ先生、口にケチャップついてますよ。」

 石嶋がナミの唇についたケチャップを、親指で拭った。ナミは自分の顔が火照って来るのがわかった。

「自分の本当の想いがどこにあるか、見つけました。ユカの力を借りたのは、相変わらず情けないんですが…。」

 石嶋がナミのあごを指で支えると、ゆっくり顔を近づけテーブル越しに、ナミに口づけをした。ナミは、石嶋にあごを指で支えられた時点で、もう目を閉じていた。石嶋のキスは甘酸っぱいケチャップの味がした。崩れそうになる身体を、なんとか堪えて抵抗を試みる。

「ユカちゃんの前でそんなことして…。」

「いいんです。ユカも公認ですから。」

「私の気持ちは考えないんですか…。」

「たったふた言に、自分の気持ちを秘めるなんて…。解読するのに時間がかかりましたよ、ヨボ。」

 今度は、ユカが抱きついてきてナミのほほにチュウをした。

「これからはユカと自分がナミ先生の強い味方になりますから。いつでも、ご飯を食べに来てください。」

「正直言ってヒロパパのつくったご飯は美味しくないです。」

 目に一杯涙を溜めながら、それでもオムレツを口に運ぶナミの肩を、たくましい腕と可愛らしい腕が包んでくれた。


 半年の時が経った。


 リオデジャネイロのアントニオ・カルロス・ジョビン国際空港の到着ロビーで、泰佑は希久美が出てくるのを心待ちにしていた。泰佑は、JOCの仕事で次回オリンピックの開催地となるリオへ赴任しているのだ。もっとも、なぜ遠いリオへの赴任に自分が選ばれたのかに関しては、希久美の義父の影響があることは容易に想像できた。やがて、サングラスをかけた希久美が凛とした歩調で出てきた。あいかわらずカッコいいな。泰佑はその姿に見惚れていた。

「ようこそ、リオへ。」

「さすがに24時間の旅は身体にくるわね。」

 希久美は、サングラスを外しながら泰佑の歓迎の言葉に答えた。

「久しぶりに見ると、オキク、綺麗になったな。」

「なにが久しぶりよ、毎日スカイプしてるじゃない。長旅でむくんでるんだからそんなに見ないで。」

 そう言いながらも、希久美もまんざらではなさそうだった。

「お疲れのところ申し訳ないが、付き合ってくれないか。荷物はアシスタントに家に運んでもらおう…。荷物はどれ?」

 希久美は、山もりの荷物を指し示す。

「ちょっと多すぎない?」

「女の旅は、こんなもんなの!それにおばあちゃんから頼まれた物も入ってるしね。」

 泰佑は同行してきていた現地のアシスタントに、希久美の荷物を指示する。

「Bem-vindo esposa !(ようこそ、奥様!)」

 アシスタントは、希久美にそう言うと、苦労しながら荷物を運んで行った。

「ねえ、泰佑。彼なんて言ったの?」

「えっ、まあ、ウエルカムって感じかな」

 希久美は視線を合わさず答える泰佑に、妙なよそよそしさを感じた。


 泰佑はタクシーを駆って、希久美をリオのダウンタウン「セントロ」にあるサン・フランシスコ・ダ・ペニテンシア教会へ連れて行った。中に入った希久美は、その黄金に輝くゴチック建築と高い天井に描かれた絵画に圧倒された。泰佑は希久美の腕をとって祭壇の前に進む。祭壇の前では、司祭が立ってふたりを待っていた。泰佑は立ち止まると希久美の肩を持って正対する。そして、ポケットから指輪を取り出した。

「希久美、結婚してくれ。」

 希久美は、泰佑の突然のプロポーズに驚くこともなく平然としていた。

「なにこれ。祭壇の前で、司祭まで用意して、サプライズプロポーズ?」

「ああ。」

「泰佑。ここで、私が断ったらどうするの?」

「受けてくれるまでこの教会から出さない。」

「勝手ねぇ。」

「自分の妻はオキクしかいない。」

「私としか子供作れないからでしょ…。」

「いいじゃないか、浮気もできないんだから。」

「ああ、こんなの私が夢に描いたプロポーズじゃないわ。しかも相手が泰佑なんて…。」

「オキク!」

「わかったわよ…。さっさと済ませましょう。」

 希久美は覚悟を決めて、祭壇に向き直った。司祭は何やら言っていたが、ポルトガル語なので何を言っているのか皆目見当がつかない。泰佑は、満面の笑顔で、希久美の薬指に指輪をはめた。おごそかな空間の中で、誓いの言葉とキスを終えたふたりは、腕を組んで教会の出口にむかって歩いた。

「オキク、しあわせだよな。」

「はいはいはい。」

「突然でびっくりしたか?」

「はいはい驚きましたよ。到着したとたんにあなたの妻になるなんてね…。」

「そうだろ。」

「驚きついでに泰佑もびっくりさせてあげましょうか?」

「なに?」

「あなた夫になった瞬間に、お父さんよ。」

「えっ」

「ばかね、泰佑の顔見るためだけに、丸一日かけて飛行機でやってくるわけないでしょ。そんなお人好しじゃないわ。」

「えーっ、じゃはなからプロポーズ断る気なんか…」

「私は刺し違えるつもりで来たの。泰佑とは気合いが違うわ。」

 おなかに当たらないようにしながらも、泰佑は喜びで希久美を強く抱きしめた。

「苦しいわよ…離して。」

 希久美も笑顔で優しく泰佑の背中をたたいた。

「でも、喜ぶのは早いわよ。」

「なんで。」

「わたし帰るつもりが無くて、仕事も辞めてここに来たの。」

「だから、あんな大荷物なのか…。」

「それに、置き手紙に私がここに来る理由を正直に書いたから、そのうちきっとお義父さんがあなたを殺しにやってくるわ。」

「でもさ、孫の顔見れば慈悲もわくだろ…。」

「甘いんじゃない…。」

 希久美と泰佑は尽きせぬキャッチボールを繰り返しながら、腕を組んでリオのダウンタウンに消えて行った。


 結婚式を終えたナミがユカを寝かしつけて石嶋のもとに戻ってきた。

「今日の式に泰佑達が来れなくて残念だったね。」

「昨日スカイプで話したけれど、あっちもオリンピックが近づいて準備が大変なんだって。オキクも石津先輩を手伝っているようだし…。」

 ナミは化粧台で肌を整えながら言葉を続けた。

「それに、オキクも身重で長時間の飛行機の旅は危ないんじゃない。」

「向こうで産むのか?」

「そうね。オキクのお母さんが行ったみたいよ。」

「勇気あるな…。ああ、だから今日は青沼専務の機嫌が悪いんだ。ひとり残されちゃって…。」

 石嶋は、化粧台の前のナミをじっと見守っていた。そして、ナミに近づくと軽々と抱き上げた。

「きゃっ。」

「そろそろ僕たちも寝ますかね…。」

「まだ準備が…。」

「もういいでしょ。」

「女の子はいろいろ準備が…。」

「泰佑と違って、僕はさんざん待ったんだから、これ以上はもう待てないよ。お・ま・え。」

 そう言いながらナミをベッドに運んで行った。ナミをベッドに優しく置いた石嶋は、ナミを想いやり、決して急がないように自分を言い聞かせて体を寄せていく。すると、目を固く閉じたナミがなにか呟いているのが聞こえた。

「ちょっと、ナミ先生。ここでその呪文はないでしょう。僕は雷じゃないんだから。」

「だって…。」

「ユカの誕生日に兄弟をプレゼントするって約束したのは、ナミ先生ですからね。」

 そう言うと石嶋は布団を持って、抱き合うふたりにすっぽりとかぶせた。


 「ああ、暇だわねぇ。」

 テレサがホテルのラウンジでひとりカクテルを飲んでいた。付き合ってくれる希久美もナミも今夜は居ない。手持無沙汰に、ラウンジの入口を見ていると、パリッとしたジャケットに身を包んだいい男が入ってきた。

「あーん?」

 テレサが彼を目で追っていると、気付いた彼がテレサに笑顔で挨拶して来た。しかもテレサに向って歩いてくる。テレサは慌ててバッグを探った。そして一粒の錠剤を取り出した。

「取っておいてよかった…。」

 実は、『やれなくなる薬』にサービスでついてきた『やりたくなる薬』は、みっつだったのだ。

「セックスから始まる恋愛だって、あると思います。」

 テレサは万全の態勢で、彼を待ち受けた。

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