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島ナイチャー  作者: まっは
島ナイチャー
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1 良き妻

 僕の目の前には体の大きな男の子が座っている。身長は一八〇センチを超え、体重は本人の申告によると九〇キロらしい。大きな体の割に顔は小さく、頬にはできたばかりのニキビができている。野球をしていた少年はスポーツ刈りの頭を左手で触りながら、数学の教科書を睨んでいた。

 少年の目の前には因数分解の問題が並び、解けて当然の問題だったが、少年は全くペンが進まずペン回しをしていた。

 僕は器用に回っているペンを見つめながら一回、二回と数えると思わず目が回りそうになっていた。

「はい、そこまで。終了」

 しびれをきらした僕は、心の中で溜息を洩らしそう言うと、少年は肩を落としシャープペンを机に置いた。

「はあ……もう、駄目だ。解けない」

「おい、おい。琉人。駄目とか言うなよ。とにかく今は、間違えてもいいから考えて答えをだすんだ。間違っても先生は怒ったりしない。考えることが大事。一生懸命、頭を働かせて頭を鍛えることが今の琉人には必要なんだ」 僕は笑顔で励ましながら、さらに琉人に言う。「大丈夫だ。やればできる。できないことはない。よし。とりあえずあと二問、必死にやってみよう。はい、スタート!」

「うん。わかりました」

 琉人は大きい体に似合わない消えそうな声を絞り出し、再び問題に取り掛かった。

 小遣い交渉にあっけなくKO負けした僕は、次の日から気を取り直し副業を始めることに決めた。

 僕は大学時代に大手の塾講師としてアルバイトをしていた経験があったので、いろいろと考えた末にその経験を活かし家庭教師をすることにした。家庭教師を選んだ理由は、経験があったこともそうだが――短時間で稼げる効率的な仕事だと思ったからだ。

 本業であるホテルの仕事は日勤で忙しく、時間が空くのは夜しかない。しかし、夜は夜でお姫様たちの相手をしなければならいし、きっと杏も子育てには積極的に参加してほしいと願っているに違いないと思っていたので反対の声が返ってくるだろうと予想していた。そして、反対の声を理由にそこから再度、小遣いアップの交渉に入ろうと思っていたが――杏はあっさりと「いいよ。やってみたら」と僕の顔も見ずに想定外の返事をした。なによりお金が大切な彼女にとっては、僕の副業などどうでもいいようで、自分の小遣いを自分で稼ぐことは当然のようだ。もちろん、副業の収入は全て僕の懐に入れていいことになり、そのこともしっかりと約束してくれた。

 思いたったら即行動――精神の僕は早速、糸満市のフリーペーパーに広告を掲載した。初期投資をそこまでかけられないので、広告の枠は一番小さくとても目立つものではなかったが、奇跡的にも問い合わせがあった。その記念すべき一人目の生徒が、糸満市の野球大好き少年――玉城琉人、中学三年生だった。

 必死になってやってみようと言うのは簡単だが、琉人にとって勉強に頭を切り替えるのは大変なことだった。今まで、部活の野球に生活の大半を費やしてきた彼は、中学三年生の最後の大会で敗北するとすぐに受験生へと姿を変えた。家族の話では野球以外はゲームをしている姿しか見たことがないと言っていたが、そこまで成績が悪いわけではないし、学校の宿題を忘れたこともなく、評定も悪いとは言えない

。普段からそれなりに机に座っていた時間もあったらしく、成績は五科目で二九〇点前後だった。

 しかし、琉人が希望する志望校の合格ラインは三三〇点が必要で、あと四〇点は必要だ。

 授業をする前にヒアリングをしたところ、琉人の点数配分は社会と国語が七〇点と立派だったが数学、英語が五〇点に満たないときがあったため、そこが強化すべきところだと僕は思い数学と英語を指導することに決めた。また、琉人自身もやはりこの二科目をどうにかしたいと思っていたようで、どのように勉強したらいいのか、どうやったら点数がアップするのか悩んでいたらしい。

 僕は琉人の家族から勉強の進め方や授業科目、回数について先生の思うように進めていいと一任されていたこともあり――それならばと週二回、数学と英語を指導することに決めた。

 そして、授業開始から一カ月が経った、八月最後の授業である今日は数学の授業をしている。

「先生、出来ました!多分大丈夫かな」

 琉人は先ほどの暗い表情とはうって変わり、明るい顔色と低い声で言った。

「どれどれ……どんな感じかな……っておい」

 僕は琉人が解いた答えを見て思わず声を失った。なぜなら、惜しいどころかかすりもしていないからだ。どこでどう計算したらこうなるのか、いやどういう思考をしたらこんなとんちんかんの答えがでてくるのか――そんなレベルなので怒る気にもならなかった。

「琉人。これ、どうやってこの答えをだしたんだ?」

「なんとなく、こうじゃないかなあ的な感じで。へへへ」

「感じで?」

「うん。感じで」

 琉人は少し楽しそうな笑みを浮かべて言った。

「そういう解き方は入試のときにやってはいけないけどな。自分の将来がかかっているのに、こんな感じかなっていう風に問題を解いて、落ちたら悔いが残るだろう?試験のときもそうだけど、常日頃から解く問題に対してちゃんと取り組んで、悔いのない答えをださないと駄目だ」

「それはわかっているんですけどね。へへへ」

「おいおい……夏休みが終わってすぐ実力テストがあるし、そこである程度の結果をださないといけないのにへらへらしてる場合じゃないだろう」

 僕は苦笑いをしながら言った。もし、僕が大手の学習塾の講師をしていたのならもっと強く厳しく言うに違いないが、今は個人事業でありせっかくのお客さんが逃げてしまうのは避けたい。あくまで優しく接し、生徒の性格を見極めながらときには厳しく指導をしようと心に決めている。

 目の前にいる琉人は、褒めて伸びるタイプだ。やればできる、きっと大丈夫という言葉が彼にとっては魔法の言葉であり、それが自信につながるのは最初の授業のときから僕は感じていたし、授業回数を重ねるごとに僕の判断は間違いなかったと確信している。

 しかし、あまり調子に乗せると好き勝手やってしまうところがあるので、程よく引き締めなければならない。もちろん、宿題を忘れたときは強めに言うときはあるが、決して感情的にはならない。

 僕は問題の解き方をゆっくりとわかりやすく説明する。もともと琉人は基礎ができているので、しっかりと考えればできるはずで、焦りや自信のなさが信じられないような答えにつながってしまっているのだ。

「あ、なるほど。そうか。え、こんなに簡単だったの?マジで?」

 琉人はリアクション芸人のように、オーバーに頭を抱えながら言った。

「ほんと。な、ちゃんと考えて、ゆっくりやればできるんだ。できないと思いながら問題に取り掛かって、さらにこんなもんだろうって感じで答えをだしたら、絶対間違える。今日はそれを学んだならいいけどね。ハイ、もう時間だから、宿題を出しとくぞ。ここと、ここと、ここ。あと――」

「先生――そんなに宿題あったら学校の宿題ができない。困ります」

 琉人は僕の言葉をさえぎって言った。

「今の琉人の数学のレベルは、学校の宿題と先生の宿題でちょうどいいから言い訳は聞かん。それにな、明日までやってこいとか言ってないし、次の授業までやってくればいいんだからできるだろう?ほら、そんなに多くないからしっかりやるように。琉人ならできるよな?な?もし、先生に文句があるようなら、もっと増やしてもいいけど?」

 僕はわざと意地悪そうな言い方で、筆記用具をバックに入れた。琉人の授業日程は数学が月曜日、英語が木曜日で時間は午後七時から九〇分間だ。

「えっ、マジ?いや、文句はありません。はい、はい。やります。やります。頑張ります」

 琉人は首振り人形のようにこくりこくりと首を縦に動かしながら言う。彼は言われたことは素直にやる子で、僕はそこが気に入っている。また、母親の話では何度かゲームのしすぎで何度か怒ったことはあったようだが、反抗してきたことやひどい言葉を言われたことはないらしい。

「よし、じゃあ、そういうことでよろしくな。先生は帰るぞ」

 僕は右手で手を振ったあと、椅子から立ち上がる。時計の針は午後八時半を過ぎ、授業終了予定時刻を回っている。あっという間に過ぎるこの九〇分間は、僕の体内ではいつもの二倍以上のスピードで時が流れているように感じていて、このままいけばあっという間に入試日を迎えるに違いないだろう。

「あ、先生、そうだ。なんか、お父さんが話があるからって言ってましたけど」

「ん?話?」

「うん。なんか、心配なんだとか言ってたけど。何が心配なんだろう」

「あのな、お父さんの心配は琉人のことしかないだろう……いつも親は子を心配してるんだぞ」

 僕は部屋のドアを開けながら、わざとらしく溜息交じりに言った。それから、琉人に案内される形でリビングに足を踏み入れた。

「あっ、先生どうも、どうも。いつもありがとうございます」

 僕がリビングに入ると、ソファーに座っていた琉人の父親が立ち上がった――途端、僕は威圧感に押され思わず後ずさりしそうになった。琉人の体も大きいが、父親の体はもっと大きい。元力士、元プロレスラーと言っても納得するぐらいの体格で、技をかけられたら気を失うのは考えるまでもない。

「こんばんは。話があると聞きまして……」

 僕は会釈をしたあと、すすめられたソファーに腰を降ろした。本革のソファーの座り心地は最高で、リサイクルショップに売っているような安いソファーとは大違いだ。

「授業が終わって、早く帰りたいのにすみませんね」

「いえ、とんでもないです。早く家に帰っても邪魔者扱いされるか、いいように手伝わされるだけですからね。こうして外にいる方が気が楽でいいんです」

 僕は思わず本音がこぼれた。

「あら、先生そんな言葉が奥さんの耳に入ったら大変ですよ」

 僕の後ろからコーヒーを運んできた琉人の母親が言った。

 たしかに――こうした軽口を杏の前で言ったら命の保証はないだろう。

「かわいい双子ちゃんの子育ては大変でしょう?うちは琉人のほかにも二人いますけど、まあ大変だった。男の子で元気だし、夜泣きもすごかったわ」

「まあ、そうですね。やっぱり双子ですから、泣くのもお腹が空くのも同じタイミングのようで、妻には頭があがりませんよ。もともと尻に敷かれていましたし……」

「ははは。先生もそうですか。実は私もそうです」

 琉人の父親が大きく口を開けながら笑い、コーヒーを机に置いた母親は苦笑いをしながらソファーに座った。気づくと僕の隣には琉人が座っていて、四者面談のような形が出来上がっている。

「さて、先生。琉人はしっかり勉強してますかね。もし、言うことをきかないようでしたら、殴るなり蹴るなりしていただいていいですからね。うちは、子育てに鉄拳制裁は有りほ方針です」

「え、いや、さすがにそれは。しっかりと勉強してますから、ご安心ください。なあ?」

 僕は父親の大きな手や足に目をやり、殴られたときを想像すると背筋に寒気が走った。そして、打撲という軽い怪我では済まないことを思うと脂汗がでそうになっていた。もし、不合格などという結果がでたときには、僕は首をくくらなければならないかもしれない。

「今日、先生にお話したいのはですね、琉人がもう少し先生と勉強がしたいと言っていたので、時間を延長してくれないかというお願いです。まあ、今は週二回ですので三回に増やしてもいいんですけど、先生のご都合もあるでしょうし、どうかなあと。本人が勉強の面白さだったり、解ける問題が増えてきたって言っているし、勉強に限らずですが琉人自身がやりたいって言ったことをやらせてやるのが親の務めかなと」

「なるほどですね」

 琉人の授業は今月の上旬からはじめたばかりで、正直回数を増やしたり、時間を延長するのはまだ早いだろう。これが、十二月や一月なら考える間もなく頷くのだが。

 僕は少し間を取ってから言った。そして、こうして家族全員が膝を突き合わせながらじっくりと話すことは早々ないので、自分が思っていることを素直に口にだそうと考えた。

「せっかくの機会ですので、入試までの指導の具体的な話をしてもよろしいでしょうか?」

「ええ。どうぞ」

「琉人くんが志望している高校ですが、おおよその合格ラインは三三〇点です。それで、琉人くんの現状は二九〇点前後であと四〇点ほど足りていません」

「四〇点……もですか。それは大変だ……」

「お父さんは四〇点もと言いましたが、自分にとってはさほど難しいことではないと思っています。五教科で四〇点ですから、一教科八点。さらに、一問の配点が四点ですから、上乗せは一科目で二問正解すればいいんです。計算上でいくと簡単に思えますよね」

「確かに、不可能な数字ではないですね。うん、うん」

「ですので、今後、琉人君が勉強しなければいけないのはその部分です。正解できる問題は必ず正解をして、上積みができる問題を増やしていく。では、そのためには何が必要かと言うと……やはり自己分析です」

「自己分析?」

 僕の隣で座っていた琉人が首を傾げながら声をだした。

「勉強だけに限らず、なにごともそうですが最も大切なのは自己分析だと自分は思っています。自分が何が苦手で何が得意なのか。どこの単元が解けないのか、何年生の問題が解けないのか。それが、点数をアップする近道でしょう。ですので、琉人君にはその部分を聞いてみようかと考えていました」

「なるほど、自己分析ですか」

「はい。入試では三年生の問題よりも、一二年生の問題が多くでます。そこで、琉人くんがどこが苦手なのか聞いてみたいんですが」

「どうだ、琉人。お前が答えるんだ」

「うん、そうだな……二年生の終わりごろの単元が一番苦手さーね。あのときは部活ばっかりやっていたし、勉強をさぼってたから」

「勉強じゃなく、ゲームさー」

 これみよがしと、母親が大きい声で突っ込みを入れる。痛いところをつかれた琉人は口をとがらせながら変顔を作って舌をだした。

「数学、英語とも二年生の終わりの単元?」

 僕は琉人の両親に向けていた視線を隣の琉人に向けて訊ねた。

「うん。数学は証明のところで、英語は長文が駄目。全く解けない」

「わかった。じゃあ、そこをしっかりと学習していこうか」僕はそう言うと、居住まいを正し琉人の父親に顔を戻し続けた。「ではですね、これは提案ですが……通常の月、木は学校の授業の復習をやってもう1回の授業については、その苦手な単元に時間を使うというのでいかがでしょうか?ちょっと、自分の都合で申し訳ないのですが、追加の分の授業日は火曜日になったり、水曜日になったりしてしまうのですが」

「それは、問題ないです。今、先生から指導方針を聞いたし、あとは先生に全てをお任せします」

「わかりました。ありがとうございます」

「よし。じゃあ、琉人ちゃんと先生の指示に従うようにな。お前が自分から勉強したいって言ったんだから、ちゃんとやるように。先生、さっきも言いましたが、本当に宿題をやっていなかったり言うことを聞かなければ殴ってもいいですからね」

「殴るのはちょっと……大丈夫でしょう。琉人君は素直ですし、きっとやってくれるはずです」

 僕はそう言うと、琉人の大きな背中を優しく叩いた。実際のところ、僕は勉強を教えることはできるが、受験するのは琉人本人で入試日までは励ましながら自信を持たせることしかできない。そして、最終的には合格したいという強い気持ちが大事だろう。いくら副業とは言え、仕事を受けた以上は手を抜くことはできないし、幼い少年の将来がかかっているとなれば肩に力が入った。

「では、そういうことで今後もよろしくお願いします」

 琉人の父親はそう言うと、軽く頭を下げた。そのタイミングで母親が、ポケットからさりげなく茶色い封筒を取り出し僕の前に差し出した。

「先生、今月の授業料です。どうもありがとうございました。お疲れさまでした」

「いえ、ありがとうございます。来月もよろしくお願いします」

 僕は家庭教師の仕事として、初めてのお金を受け取った。小遣い稼ぎではじめた副業だったが、授業料の入った封筒を手にすると、お金の重さ以上の重圧を感じた。



「ただいま……帰ったよ」

 僕は小さな声で言いながら、玄関のドアを開けた。

 先週、声を大にして「ただいま」といったとき、ようやく眠りについたお姫様たちが目を覚まして泣き出してしまったので、夜遅い日はこうして静かに家に帰る。それから泥棒のように忍び足で歩きながら、ベビーベットが置かれている部屋に入り寝顔を覗いた。

 今日もすやすやと寝ている顔しか見れなかった僕は「パパ、頑張っているからね」そう心の中で言った。本当であれば、頭を優しく撫でたいところだが、これも杏にやめるよう釘を刺されている。とにかく一度寝たら起こしてはいけないのだ。

 僕は着替えを済ませリビングに入ると、あきらかに機嫌のいい杏の姿が目に映り、逆に不安が胸に押し寄せた。機嫌のいいときの杏ほど注意が必要で、絶対裏があるのは間違いない。警戒心の強い僕はソファーに座ると、無意識に背筋が伸びた。

「おかえりなさい。お疲れ様でした。どうですか?先生。授業は順調ですか?」

 杏の敬語口調に僕の血圧は上昇する。これは何かある。隠し事があるわけではないし、思い当たることもないが、謝った方がいいのだろうか。とりあえず頭を下げれば丸く収まるかもしれない。

 杏は温めた味噌汁をテーブルに置いたあと、僕の目の前に腰を降ろす。目が大きく、彫りが深い顔はまさに沖縄顔だ。綺麗というよりはかわいいという表現のほうがあってるだろうし、僕はこの顔にまず一目ぼれをした。子供を産んでからもその容貌は変わらず自慢の妻だ。性格がここまで強気な女性だとは思わなかったが。

 僕はご飯を食べようと箸を手にする。今日も食卓には沖縄料理が並べられ、沖縄の生活に慣れてきた僕は当然のようにご飯を口に運んでいくが、目の前にいた杏の様子をみた瞬間――動かしていた箸を止めた。なぜか彼女は、お手を待っている犬のように右手を出して待っている。何かの合図なのか、今日はエッチでもしてみようかという暗黙のサインなのかわからないが、とりあえず戌年の僕は杏の小さな右手の上に自分の右手を置いて忠実を誓うように「ワン」と言った。

「あんた、馬鹿じゃないの」

 杏はそういうと僕の脳天に強くチョップした。

「いてえ……何よ……何ですか?」

 僕は目を大きく開けて訊ねた。

「あんた今日、月謝日よね?」

「ん?まあ、そうだけど」

「そうだけどじゃないでしょ」

「はあ?どういうこと?」

「お金をよこしなさい」

「えっ?うそでしょ?」

「うそ言ってどうすんのよ。本気さーね」

 杏は眉間に皺を寄せながら僕を睨みつける。それはカツアゲをしてくる悪者だ。

「ちょっと待って。副業のお金は俺の小遣いだから渡す必要ないでしょう?」

「たしかにあんたの小遣いです」

「だったら――」

「でも、全部とは一言も言っていません」

 杏は僕の言葉を遮ると自信気に言った。ああいえばこう言う、やられたらやり返す精神は杏のモットーだ。そして、言ったら聞かない、譲らない彼女と対決することは僕にとって死を意味する――が、ここは僕も譲れない。ファイティングポーズを取らなければ今後もこうして搾取されつづけるだろう。意を決した僕は戦いを挑むべく、頭の中でゴングを鳴らした。

「全部とは言ってなくても、副業のお金は懐に入れていいと言ったのは杏さんだよ。それはちょっと……」

「で、いくらだったの?」

 杏は僕の話など聞く耳を持たず訊ねた。

「入会金が一万円、授業料が二万円。合計三万円」

「そう。じゃあ、二万円でいいわ」

「ちょっと、ちょっと、待ってよ。半分以上も取られたら困るんだけど」

「取られたら?なんか私が悪いことをしているような言い方さーね。気分わるっ」

「いや、そういうわけじゃないんだけど……副業の分は渡さなくていいってこないだ約束を……」

「あのね、俊……状況は日々変わるのよ。世の中は回っているのよ」杏はしみじみ言うとさらにつづけた。「あのときはそう言ったかも、かもしれない。けどね、今は違うの。実際、子育てをしてみて必要なもの、これから必要となってくるものがいろいろと出てくるのよ」

「例えばなに?」

「例えばってね、あんたにいちいち細かく言うつもりはないさーね」

 僕に攻められた杏は、コーナーに逃げた。ここは、追い詰めてパンチを打ちつづければ勝てるかもしれない。KO勝ちは無理でもTKO、もしくはタオルを投げて――と思い僕は口を開けようとしたが、カウンターパンチが僕を襲った。

「あのさ、ぐちぐち言って私そういうの好きじゃないんだけど。あんた男らしくないわねえ。情けない、ああ情けない。私の好きになった俊は男らしくて、細かいことなんか気にしない男だと思ってたけど、私の見間違えだったかしら。結婚した相手を間違えたかな……はあ、がっかりするわ」

「なにもそこまで言わなく――」

「うるさいわね!私はいつも二人を見て、忙しいのよ!なめてんの?え?どうなの?払うのか、払わないのか、どっちなのよ!」

 僕は杏が極道の妻にしか思えず、ちびりそうになった。これ以上の戦いはよくないだろう。もはや、この人にはどうやってもかなわない。戦いを挑むこと自体、間違っているのだ。

 杏は僕をぎろりと睨み、数秒の沈黙が流れる。コーナーに追い詰めていたはずの僕は、白旗をあげる決断を下す。

「わかりました……」

 僕は床に置いたバックから封筒を取り出し、中身だけを渡そうとしたが、杏は素早く僕の手から封筒を奪い取ると目を輝かせながら中身を覗いた。

「確かに三万円ね。あんたのことだから、少ない金額を言ってちょろまかすかと思ったけど、そこは褒めてあげましょうね。はい、どうぞ」

 杏は当たり前のように封筒から一万円札を取り出すと僕に渡した。

「ありがとうござます」

「うん。お疲れさまでした」

 僕はこのやり取りがおかしいと思いながらも、諦めるしかなかった。おそらくこれからもこうしたことはつづいていくのだろう。たしかに――杏が言うように子供にお金はかかるし、双子となれば一気に二人分の出費がかさむ。今のうちに貯金をしておかなければいけないのは当然で、娘たちが何かやりたいと言ったときにお金がないからダメだとは言いたくない。

「あのね、杏さん。一つ聞いてもいい?」

「ん?なに?」

 KO勝ちした杏は誇らしげに僕に顔を向けた。

「今まで二人で貯めてきたお金ってどのくらいあるの?俺、全くわからないし、見たこともないんだけど」

「気になるわけ?」

「そりゃもちろん……結婚する前から結構、搾取……いや、杏さんに預けたわけだから……」

「仕方ないわね。特別サービスよ」

 杏はそういうとリビングを出て行った。寝室のどこかに貯金通帳があるのだろうが、その所在は全くわからない。

 杏がお金にうるさいのには理由がある。それは、もちろん将来のこともあるが――それよりも一番は前の夫と離婚した原因がお金による苦労だったからだ。前の夫は給料の全てをギャンブルにつぎこみ、生活費を家庭に入れなかったらしい。そして、ギャンブルをするために借金を重ね、返済をするためにまた借金をしてという負のスパライルに陥り、さすがの杏も嫌気が差し離婚を決断したようだ――僕がらしい、ようだと言うのは直接杏から聞いた話ではないからで、杏の母親の佳江から結婚する前に聞いたからだ。結婚していたときの杏はお金のことで精神的にも参っていたのも僕は母親から聞いていた。こんなにも強気な彼女が毎晩のように泣いていたことも。ただ、そうした結婚生活を杏から聞きたいとは思っていないし、今後も僕は知らないふりをしていこうと思っている。いくら妻とはいえ、他人の過去を根掘り葉掘り聞くのは失礼だし、聞きたくもない。そう――大事なのは今であり、今が幸せならそれでいいのだ。僕と杏の間に双子のお姫様がいて、好きなものを食べれて、普通に生活を送れればいいそう思っている。

 僕は止めていた箸を動かしながら、ご飯を胃に落としていく。沖縄県民はジャンクフードが大好きで、胃にずしんとくるものを食べるが、杏が作る料理は栄養バランスがよく毎日野菜が食卓に並ぶ。杏がは常日頃から、人間にとって一番大切なのは食であり食こそが全てに繋がると言っている。食べるもので人間の気持ちは落ち着き、それによって仕事やプライベートが充実するものだと。

「お待たせ。はい、どうぞ」

 杏はリビングに戻ってくると、右手に持っていた通帳を僕に手渡した。通帳には「琉球銀行、糸満支店」の文字と杏の名前が記載されている。

 僕はなにか見てはいけないもののような気がしながら、おそるおそる通帳をめくっていく。そして、最終のページにたどり着き残高を見たとき――その金額に思わず目が飛び出そうになった。

「これ、マジ?いつの間にこんなに?」

「すごいでしょう。もちろん、私や俊が今まで一人で貯めていた分のお金も含まれているけど。まあ、それでもねえ……お姫様たちはこれからお金がかかるだろうから、多くあって困ることはないわよね。大学にだって行かせたいし、好きなことはやらせたいさーね」

「なるほど……杏さんはたいした人ですね……俺はいい奥さんを持ったかもしれない」

「かもしれない?」

「いい奥さんを持ちました。はい。毎日、幸せです。ありがとうございます」

「わかればよろしい」

 僕は杏に通帳を返してから、しみじみと彼女と結婚したこと、一緒にいれることに幸せを感じていた。




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