2 糸満の女性
三年生は九月中旬になると、実力テストの回数が増える。今までは約二ヵ月に一回のペースだったが、これからは月に一回が当たり前になり、その分僕の指導も熱が入った。
この仕事をはじめるとき、僕は会社理念のようなものを決めていた。
まず、第一は生徒を叱らないこと、上から目線で自分の感情を押し付けないことだ。指導を受ける子供たちは勉強がわからなくて授業を受けるので、そのことをしっかり自分の頭の中に叩き込み、ちょっとやそっとのことが起こっても動じないよう心掛けている。怒るという行動は互いの信頼関係を失くしてしまい、それによって萎縮し勉強することが嫌になってしまうことがある。だからこそ僕は、生徒の意志を尊重して接していくことを徹底していた。
二つ目は、無理だとか諦めるとか否定的な言葉を生徒に言わないことだ。点数が志望校に届いていない現状でも、志望校に行きたいという思いが強い生徒がいるのはもちろんであり――いや、ほとんどの生徒がそうなのかもしれない。僕はそうした生徒に対して、自分のできる限りのことをやって、精一杯背中を押し合格に導かなければならない。解けない問題に向き合う生徒に、正解を簡単に伝えるのではなくヒントを与えながら努力をさせることが、僕の仕事だろう。
最後は生徒の夢を馬鹿にしたり、無理だと言わないことだ。子供の夢は無限の可能性を秘めているし、広がっていることは間違いないのだ。子供というのはたわいもないきっかけで好転することがあり、さらにコツを掴めば思いがけないくらい点数が伸びる可能性も考えられる。そして、その自信によって不可能とも思えることを簡単に成し遂げることだってできるだろう。
「――した」
僕の意識はどこかに飛んでいて、琉人の言葉で我に返った。
「先生、終わりましたよ」
琉人が繰り返しそう言うと、僕はプリントを受け取り採点をはじめた。ここ最近は、勉強慣れしてきたのか調子が良く手が止まることも少なくなってきているが――僕は声に出ないように心の中で唸り声をあげた。惜しい、勿体ない、という表現がぴったりだ。それなりに理解はしていると思うが、詰めが甘い。単純なミスは一点を争う入試では命取りとなる。僕は採点している赤ペンを置いて言った。
「琉人。見直しはしたか?」
「あっ……まだかも……」
「見直しは大事だぞ。ホームランを打ってホームベースを踏み忘れたらアウトでホームランは帳消しになるだろう。じゃあ、一分だけ見直しをしようか」
僕は野球に例えると、琉人は嬉しそうに笑った。それから琉人の手元にプリントを置いた。
「はい、じゃあはじめ」
琉人は穴があくくらいプリントに目を近づける。その姿は見直しというより、鑑定人のようで思わず僕は笑いそうになった。
「ここか……」
琉人がやってしまったという顔色で声をもらし、自分で赤のペンを筆箱から取り出した。訂正、間違ったところは必ず赤でするよう僕は言っていて、琉人はその約束をきちんと守っている。僕は彼が素直なところが好きで、反抗してくることはないところが、さらに伸びしろがあると思っている。なにごとも、紳士に、素直に誠実にしていればきっといいことがあるだろう。
僕はひと段落ついたと思い、腕時計に目を落とす。授業を開始してからすでに五十分が経過していて、そろそろ集中力も切れてくるころだ。僕は琉人が手が止まったり、調子が悪かったり、流れがよくないなと思ったタイミングで休憩を取ることに決めている。人間はいつもいつも調子がいいわけではないし、集中力がないまま勉強をつづけても結果はでないし、頭に入ることはない。
「よし、じゃあ休憩しようか」
「はい。ようやく休憩ですね」
琉人が鼻から息を吐く。体の大きい彼の鼻の穴は百円玉が入るくらいの大きさで、鼻毛がでているときもある。さらに、最近は顎髭がぽつぽつと目立ちはじめ、少年から青年に変わりつつある。
僕の休憩中の楽しみは、琉人の話を聞くことだった。先週は恥ずかしい表情を浮かべながらも、彼女ができたと僕に打ち明けてくれた。彼女は同じ中学校の一歳下の子で、バスケット部に所属しているらしい。受験の時期が迫っている状況で彼女に夢中になってしまわないか、僕は一抹の不安が胸を過るが――いいほうに考えれば、その彼女のために勉強を頑張るというふうに意気込んでくれることもあり得るので、とりあえずは琉人の好きにやらせるようしている。あくまで、今のところという条件はつくが。
「そうだ。そういえば遠征って島ナイチャーでしょ?」
琉人はずっと聞きたかったことがあるような声色を出す。
「そうだよ。東京生まれの、東京育ちだな」
「都会だなあ。いいなあ」
「何がいいの?沖縄だって都会だろ?」
「そうかな。田舎だと思うけど」
「都会と田舎の境界線がわからんけど、沖縄は海が綺麗じゃん。特に糸満の海は本当に綺麗だよな。コバルトブルーの海って感じで、最初見たときは感動した。まあ、ずっと住んでいる琉人にとってはそれが当たり前なんだろうけどな」
僕は出されていたアイスコーヒーを飲んだ。玉城家のアイスコーヒーはその辺のインスタントコーヒーではなく美味しい。きっと僕の小遣いでは買えないくらいのいいコーヒーだろう。
「うん。そうだよね。海はすぐそこにあるし、いつも見てるからあの海が当たり前になってる」
「人だって、面白い人が多いよな」
「たしかに陽気な人が多いし、いつもゲラゲラ笑ってる。うちのおじいとおばあなんかほんと元気」
琉人が大好きなポカリスエットを喉を鳴らしながら飲む。
「先生は今は島ナイチャーだけど、これからはうちなんちゅになれるようにいろいろ教えてもらわないといけないな。先生はルーキーだし、沖縄のことは全く知らない」
「え?俺が教えるの?」
「そうだよ。先生は沖縄に来てまだ日が浅い。でも、琉人は十五年もここにいるんだから、先生より詳しいのは当然。方言、文化、習慣とか沖縄は独特だから教えてもらいたいな」
「だったら、ビシビシ教えますけど!」
「まずな、将来先生の娘が方言を話せるのに父親が話せないっていうのもおかしいことだし」
「だからよー」
琉人はにやけ顔で突っ込みを入れた。この「だからよー」という口癖は、杏だけではなく杏の両親もよく使う言葉だ。標準語で育った僕は方言とは縁が薄い。もちろん、大学時代の友人や会社の同期には東北の人もいたし関西の人もいた。言い方や言い回し、表現の仕方などその地方によってさまざまだが――こと沖縄に限ってはもはや日本とは思えない方言をよく耳にしていて、そのたびに僕は杏に通訳を頼んでいる。最近では僕も変な感じで言葉の語尾を伸ばしたりして、方言がうつってきているのは自覚していた。
僕と琉人はたわいもない話をつづけるが、休憩の十分が終わるアラームが鳴った。
「よし。休憩終わり!後半戦をはじめるぞ」
僕は気持ちを切り替えるように、高い声で言った。
「もう?終わり?まさかやー」
僕が働いている糸満ホテル&リゾートは近くに糸満漁港があり、部屋からは糸満の海が一望できる。この日、いつものように出勤するとフロントには黒いスーツを着た熊谷支配人が立っていた。
「おはようございます」
僕は軽く会釈をしながら言った。
「おはよう」
糸満ホテル&リゾートは約百室ある客室の他に、宴会場、ゲストハウス、チャペルがある。僕は副支配人の肩書で、婚礼部門の責任者を兼務していた。熊谷支配人は沖縄に来る前、大阪本社でも宿泊部門の責任者をしていて、婚礼部門に関しては経験があるもののやりたがらなかったようだ。その理由はわからないが、僕が耳にしたところによると、婚礼担当になると朝が早く土日も休みを取れないから――ということらしいが本当のところはわからない。そういうこともあり、ブライダル課には一切タッチしないし、口癖は「もうそっちは副支配人に任せるから」だった。
僕は熊谷支配人とあいさつを交わしたあと、今日の予定を確認してブライダル課の事務所フロアに足を踏み入れ席に座った。
ブライダル課の男性社員は僕と課長の名渡山だけで、他の六名は二十代から三十代の女性だ。ほとんどの社員が地元沖縄の人間で、事務所内は方言が飛び交っている。
僕がパソコンの電源をいれ、キーボードを叩こうと思ったとき、課長の名渡山が近づいてきた。彼は産まれも育ちも糸満市でこの辺りの地理には強く、島ナイチャーの僕は彼を頼りにしている。
「おはようございます」
「おはよう」
「今日はこれから雑誌に掲載する写真と婚礼プランのミーティングをしようと思うんですが、よろしいですか?」
「もちろん、大丈夫だよ。そっか。もう、そんな時期か」
ブライダルの写真やプランの入れ替えは、半年の一回のペースで進めていて、夏が終わった九月頃からは前期の反省を踏まえた上で対策と対応を行なっていた。
僕は名渡山の顔を見つめながら首を縦に動かしたが、ふと彼の表情に違和感を覚えた。いつも明るい名渡山の顔が暗い気がする。他に何か言いたいことでもあるのだろうか。まさか退職したいとか、休職したいとかそういうことを言いたいのか。
言いにくいのならばこちらから助け舟をださなければならないと思った僕は、声に出さずにわざとらしく大袈裟に「ん?」という表情を見せると、名渡山は重い口を開いた。
「あの、副支配人……」
「どうした?」
「目の下にクマができてますけど、大丈夫ですか?やっぱり双子ちゃんだと大変ですか?」
「え、嘘?」
僕は引き出しから鏡を取り出し、自分の顔を見る。確かに――僕の目の下にはクマがあった。
「まあ、一人夜泣きするともう一人も泣かなきゃいけないと思って泣いちゃうから大変だけど……それに杏さんだけに子育てを任せられないしなあ」
「なるほど。実はさっきもみんなで話をしていたんです。副支配人、体調大丈夫かな。寝不足になってないかなって」
僕は苦笑いをした。そして、ここの社員たちが本当に優しい人ばかりで、心が温まった。
「大丈夫だよ。これでブライダルの売り上げが悪かったら死ぬかもしれないけど、今は売り上げもいいし、みんな頑張ってるから大丈夫。心配かけてすみませんね」
僕はわざとらしく名渡山に頭を下げた。
「自分に出来ることがあったら遠慮なく言ってください。今は割と余裕がありますから」
名渡山はそう言うと、満足そうな顔で会議室へと足を向けた。
僕は、心配をかけてしまっていたことを深く反省し、目元を軽く揉んでから立ち上がった。
「さて、ミーティングに行くか」
今日のお昼のまかない飯は、料理長特製ラーメンで僕は勢いよく麺を啜っていた。
午前中のミーティングは何事もなく平穏な雰囲気で終わり、今週土曜日に新郎新婦役のモデルを呼んで撮影することになった。そのあと僕は、午前中の業務を終えると一目散に食堂に行きまかないを胃に入れている。
料理長が作るまかない飯の中で、特にこのラーメンは絶品で何度食べても飽きない。スープのベースは煮干しでコクが深く濃いのでやみつきになるくらいだ。僕はまかない飯のメニューがラーメンのときは、いつも二人前を注文し部活終わりの高校生のようにガツガツと食べていた。
一心不乱にラーメンを半分くらい食べ終えたとき、僕の目の前に一人前の器をもった女性が座った。
「あ、島袋さん。お疲れです」
「お疲れぇ」
フロント課長の島袋あずさが笑顔を向けて言った。彼女は杏と同期入社で出身高校も同じなので、大の仲良しだ。杏は出産後も相変わらず島袋にラインをしたりしているようで、この二人がタッグを組んだときは最強で僕は全てを投げうってでも服従するだろう。杏もそうだが、同じくらい島袋も気が強く癖のある糸満の女性だった。
「杏はどう?元気にしてる?ちゃんと食べてる?寝れてる?子育ては順調?
島袋の質問攻撃に、僕は箸を動かしながら答える。
「どうですかねえ。双子ですからね。大変ですけど何とか無事ですよ。毎日怒られてますけど。そういえば、島袋さんのところはお子さんは三人でしたよね」
「うん。そうよ」
僕はさり気なく座っている島袋を見つめた。杏もそうだが、この島袋もそれなりにスタイルがよく子供を産んだとは思えない。
「うちは三人がバラバラだったけど、一気に二人ってなればそりゃ大変だけど、やっぱり大事なのは睡眠と食事だかね。特に杏は体力を使うからあなたがちゃんと食べさせないといけないさーね」
「はい。そのためにも仕事を頑張っていますし、家事もやるように――」
「そんなの当たり前さー。ちょっと家事をはじめたからって大きな顔をしちゃいけないよ」島袋は僕の言葉を遮るとさらにつづけた。「それより、写真はいつ撮りに行くの?もう予約した?もうすぐ百日記念でしょう?」
僕は頭の中にクエスチョンマークが浮かんだ。百日記念とはいったいなに――
「はあ……まあ、もうすぐですけど」
「あなた、その顔をしているってことは何も知らないのね。全く、まだナイチャー気分でいるんですかぁ?お婿さんなんだからいい加減いろいろ学ばないと」
「そんな、そんな。ちゃんと学んでるつもりですけど」
「つもり?つもりじゃダメでしょうが!」
僕は何故か叱られ、学校の先生に叱られている小学生のように縮こまった。
「ダメって言われてもですね……」
「あのね、沖縄では百日記念っていって、産まれてから百日前後に写真を撮るの。知らなかった?杏から何も言われてない?」
「言われたような、言われてないような。聞いたような、聞いてないような」
「杏はあなたのどこがよかったのかしら……はぁ」
島袋は肩をすくめて溜息を吐いた。
「あっ、あれでしょう。お食い初めみたいなやつですよね?」
「まあ、それに近いかもね。杏のことだから予約しているとは思うけど、まだ何も決まっていなかったら私に言って。知り合いにフォトスタジオで働いている人がいるから」
「わかりました。つまり、営業ってことですね。でも、島袋さんが杏にラインでもしたらどうですか?」
僕は鼻で笑いながら皮肉めいた感じで言ったが、島袋は一瞬眉間に皺をよせた。
「なんちゃって……わかりましたよ。必ずお伝え致します」
「そういうことでよろしくね。でさ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけどね。ここだけの話なんだけど――」
島袋は職場の噂話が大好物だ。いつも僕に話してくるときは「ここだけの話」という枕言葉をつける。しかし、それは杏と話すときにも使っていて、もはやここだけの話ではない。
僕は話が長くなると思い、伸びつつあるラーメンを急いで口の中に入れはじめ、島袋の話など話半分どころか、右から左に聞き流した。




