プロローグ
沖縄県糸満市――。ここは海人の街。
日本最南端のコンビニ、日本最南端の道の駅などという看板があちこちに見受けられる場所で、僕は日本最南端のエッテリアでテリヤキバーガーとポテトのセットをガツガツ食べていた。
沖縄県には、信じられないくらい多くのファストフード店があり、大手から個人店まで様々なお店がある。僕は自宅から近いエッテリアをよく利用し、今にもあふれそうな和風ソースとシャキシャキのレタスが挟まれているテリヤキバーガーは、よく食べる一品だった。この日、仕事が休みの僕は昼食をとったあと入院中の妻に頼まれていた日用品を買いにいくつもりでいた――が、テーブルの上に置いていたスマホが突然震えだし液晶画面には、見覚えのある電話番号が目に入った。
僕は電話に出る前に、ポテトを慌てて口の中に入れ、コーラで胃に流し込む。そして、ついにこのときがきたかそう思いながら、スマホを耳に当てた。
「はい。上原です。はい、はい。わかりました。急いでいきます」
僕は、電話を切る前に立ち上がりゴミ箱にトレイの上の紙くずを捨てた。そのあと、ポケットからバイクのキーを取り出し、小走りにエッテリアを出る。
あまりにも慌てた様子に、きっと店員はびっくりしてるはずだろう。しかし、急がなければいけない用事があるのは事実で――こんなにも急ぐときは、人生でなかなかあるものではない。例えば、仕事で大事な打ち合わせがあった日に寝坊したとしても、僕の性格からいえば急ぐことはしない。妻との待ち合わせに遅れる場合でも、こんなに慌てふためいたり急いだりはしない。僕はマイペースな人間だし、急ぐことやせかされることは大嫌いだ――しかし、今日このときは違う。今日は僕の人生にとって特別な日なのだ。
僕はエッテリアの駐輪場に停めていたバイクに跨りエンジンをかける。それから思い切りアクセルを回し、目的地へと向かう。
僕の妻、杏が入院している産婦人科は近道をしなくても十分はかからないが、ここは急がなければいけない。できる限り信号がない道を選び、スイスイとバイクを走らせ、わずか5分で産婦人科の看板が見えてくると、僕は気が急いでしまい産婦人科のバイク置場の壁にぶつかりそうになった。
バイクのエンジンを切り、ヘルメットをかぶったまま産婦人科の門をくぐる。
杏が出産のために入院している病室は2階にあり、僕は陸上選手並みに駆け足で階段をあがった。
息を切らしながら二階の待合室にたどり着くと、杏の父親の尚也と母親、佳江が椅子に座って待っているのがわかった。
僕は肩を上下に動かしながら息を整え、二人に近づき頭を下げた。
「こんにちは。すみません。遅れまして」
「俊くん。もうすぐだってさー」
佳江がいつものきれいな透き通る声で言った。
僕は、杏の両親が苦手なわけではないが、何故か緊張を覚え何も言えず、愛想笑いを浮かべた。おそらく緊張の原因は、初めての出産ということと――これから双子を産むからだろう。
今年、三十五歳になる杏は双子を身ごもった。ただでさえ、初めての出産なのにまさかの双子に僕は驚き、無事に出産を終えることを毎日のように願っていた。しかしながら、出産は命に関わることであり、心配は拭えない。杏は気が強いが、体は小さく体も丈夫なほうではない。この産婦人科は、評判が良く糸満市でも有名な病院であるものの何があるかわからないのかが出産で、気がつくと僕はここにきてもおどおどしていた。その姿は落ち着きのない子供そのものだろう。
「ちょっと、俊くん。ウロウロしないで、座っていなさい。大丈夫さーね」
僕は佳江の言葉に頷くが、椅子に座っている尚也に視線をやると、僕と同じようにソワソワしているのがわかった。生粋の海人であり、気性の粗い義父でもこのような態度を示すかと思うと、僕の心が少し軽くなる。
母は強し――そう誰かが言っていた意味が、ここにきてわかる気がするし、杏が無事出産したら今まで以上に僕を顎で使い、パワーアップするのは考えるまでもない。
僕は椅子に座りそんなことを考え、数分が経ったとき――担当の看護師さんが待合室に入ってきた。彼女はイケイケの元ヤンキー感がある知念さん。マスクをしているから素顔はわからないが、目元はバッチリと化粧が映えている。
彼女は僕たちに近づくと嬉しそうに言った。
「上原さん。無事に産まれましたよ。双子の女の子です」
「よかった。で、妻は?」
「はい、母子共に健康です」
「そうですか。よかった」
僕はほっと胸をなでおろし、知念さんに目を戻す。彼女は満面の笑みを浮かべながら何度もおめでとうございます、そう言ってくれた。きっと、出産に立ち合った何人もの妊婦さんに祝福の言葉を伝えているのだろうが、僕にとって知念さんのおめでとうは言葉にできないくらい嬉しかった。
今日、六月二十五日――僕にとって新たな記念日が一つ増えた日になった。
出産してから五日が経ち、今日は杏と子供たちが退院する日だった。
杏が出産を終えてからの僕の日々は、病院から戻ってくる三人のために、慣れない掃除をしたりベビー用品を運んだり――それからもちろん会社のみんなと祝福をあげたりと、やることが多かった。
これからはパパとしてできることをする――僕は子育てに協力的でいたいし、子供たちのそばで成長を見守りたい気持ちが強い。仕事で育休を取るところまではしないが、生活のベクトルを仕事から家族に向けようと思っていた。
僕が双子の出産を終えた杏と対面したのは、尚也と佳江と喜びをわかちあってから一時間後のことだった。相当疲れているだろうな、そう思っていた僕は優しい言葉をかけてあげようと言葉を頭の中で巡らせていたものの、ベットに横になっていた杏が僕より先に発した言葉に思わず僕は拍子抜けをしてしまった。
「焼き肉が食べたい」
杏らしいといえば、杏らしいが――。
「杏さん。食べ放題をごちそうしてあげるから、今はゆっくりしよう」
僕は杏のことをいつも杏さん、と呼んでいる。それは僕が、年下ということもあるが一番の理由は気の強い妻だからで、もし僕が反抗的な態度をとれば、耳をふさぎたくなるような言葉とボクサー並みのパンチが飛んでくるからだ。この世で一番怖いのは、幽霊や沖縄のハブではなく妻だと僕は思う。これは揺るぎない事実だ。だが、そういうことも面と向かって言ったら命までないだろう。
僕の愛車、ミニクーパーに佳江を乗せて病院に向かう。病室に到着すると、杏と二人の子供が待っていた。ベビーベットですやすやと寝ている双子を覗き見て、僕はお姫様だと改めて思った。かわいい、愛おしい――その言葉、表現しか見つからない。ずっと、いつまででも眺めていられるだろう。きっと、これから何十年とこの子たちの成長を感じる度に、この日のことを思い出すに違いない。
僕はうっとりしながらも、視線を杏に戻し二人を起こさないよう小声で言った。
「杏さん。忘れ物はない?スマホの充電器とか大丈夫?」
「うん。大丈夫だけど、必要な物は揃えてくれた?」
「もちろん!西松屋に行ってきたし、買い揃えてきたよ。どう?これいいでしょ」
僕は杏に見えるように洋服を両手で広げた。この洋服は悩みに悩んだ末、選んだ洋服できっと気に入ってくれるはずだろう。だって僕はいいパパになるのだから――。
しかし、杏は洋服を見ると、大きくため息を吐いて肩を落としたのがわかった。
「あんたさ。この子たち、女の子なのにどうしてグレーとか青系しかないのよ。普通、ピンクとか赤でしょう。馬鹿?馬鹿なの?」
杏の大きな声が僕の鼓膜を刺激する。その声は、病院を揺らしてしまうくらいに感じる。
僕は言い訳を必死に考える。このままだと、命はない――だが、考えれば考えるほど、僕は言葉が思い浮かばず声が口から出てこなかった。
「杏。これはね、父さんと母さんが選んだのさーね。俊くんじゃないさー」
お義母さん、すみません――僕は心の中で感謝の意を示す。こういうときの義母は頼りになるし、娘の杏の性格をよく知っている。今までも何度か助けられたが、今回は頭が下がる思いだ。
僕は杏が佳江に、ああでもないこうでもないと言っているのを尻目に、さりげなく杏の視界からフェードアウトしていき双子のお姫様に近づいた。二人に顔を近づけ互いの顔を見つめる。起こさないようにしていたつもりが、二人は同じタイミングで薄ら目を開け、口をもごもごとしはじめる。かわいい、かわいい――。それにしてもよく似ている。まあ、双子だから当然か。
お姫様たちの顔立ちをよく見ると、目は僕に似ていて、鼻の高さは完全に杏の血を引いている。
僕は二人の手を握ろうと思い、人差し指を近づけ触れてみる。お姫様たちの手は小さく温かく柔らかい。マシュマロみたいな弾力があるし、お餅のように丸く触り心地は最高だった。
「まあ、グレーなら譲ってあげてもいいけど」
杏の声と態度が怒りからいつもの様子に戻ったのを耳にした僕は、機嫌が戻ってきたことを察し、ここぞとばかりに声をだす。
「そろそろ、家に帰りましょうねえ」
僕はお調子者のように言って、荷物を手に取った。
僕と杏は職場結婚だった。東京産まれ東京育ちの僕は、東京ホテル&リゾートに新卒で入社し、二年前に副支配人の肩書で沖縄に転勤してきた。そのとき、フロントのサブマネージャーとして働いていたのが杏だった。
僕は出勤初日に杏を見たときから、一目惚れしてしまい、勝手にこの人が自分の妻になるだろうそう決めつけていた。しかし、付き合うまでは一筋縄ではいかず、何度もアプローチを続け、付き合うまでに二回ほど振られた。そして、最後のチャンスだと心に決めてかかった三度目の告白でようやく付き合うまでになった。告白が成功したとき、僕は子供のように喜び何度もガッツポーズを繰り出した。今は懐かしいあの頃――。それが、今では強くてたくましい女性に、母親に変身している。こんなに変わるのかと思うくらい。
お姫様たちと暮らしはじめて一週間が経った日、僕は仕事が終わりマンションに帰った。玄関を静かに開けたあと、真っ先に足が向かうのは双子のお姫様たちのところで、この日もベビーベットですやすやと寝ている。二人の名前も決まり、長女は美来、次女が来美と名付けた。当然のことながら、名付けたのは杏だ。
僕は二人に小さな声でただいまと呟き、着替えを済ますとリビングに入った。すでに、杏は夕食をテーブルに並べて一緒に食べる準備をしている。
食卓にはゴーヤチャンプルがあり、他には島豆腐など――まさに沖縄料理が並んでいた。
「いただきます」
僕はそう言うと、大きく口を開いて胃に流し込んでいく。
「あんた、本当に美味しそうに食べるよね。作り甲斐があっていいさーね」
「でしょう。それが俺の取柄なんです」
僕はそう言うと、首を縦に動かした。
「今日ね、二人とも笑ったんだけど、同じタイミングだったから面白かった。あとね、寝るときとかおならをするときも一緒なのよ。やっぱり双子ってすごいわねえ。あと、お母さんが来てくれてね、手伝ってくれた。あ、そうだ。お母さんが持ってきた刺身を出すの忘れてたわ」
僕は、話し好きの杏のマシンガントークに頷きながら――ときよりマジで?すげー、かわいいな、と言う。中身のない返事をしているが、もし、杏の話に一回一回反応していたら、僕の体重は減り続けてしまうだろう。
杏が冷蔵庫から、刺身を取り出しテーブルに並べて口を開く。
「俊。今月から小遣いを五千円にするからね」
僕は唐突な決定事項に思わず声を失う。人間は予想外の言葉を耳にすると、言葉が出ず何も考えられないことは知っていたが、まさか本当にそうなるとは思わなかった。
「ちょっと、待って」僕は口の中に入っている白米をさんぴん茶で流し込み、絞りだすように言ってさらにつづけた。「いきなり何を言い出すかと思ったら、小遣いを減らすっていうのはちょっと困るなあ。俺もいろいろとほしいものとかあるし」
「はあ?何を呑気なこと言ってるのよ。うちは双子ちゃんなのよ。将来は大学にも行かせたいし、早いうちから貯金しておきたいさーね。まあ、私が職場復帰したらちょっとは増えるかもしれない」
「増えるよ、じゃなくてかもしれないってのは――」
「文句あるわけ?」
杏が口を尖らせながら強い口調で言う。僕の話を途中で遮るぐらいだから、すでに交渉の余地はないだろう。しかし、僕は引き下がらずに訊ねた。
「まだ、産まれたばかりだし、気が早いんじゃないかな?」
「そんなのは関係ないし。いつどうなるかわからないんだから、今のうちに貯金をしておきたいの。かわいいお姫様たちのことを考えたら小遣いが減るぐらいなんてことないでしょうに」
「そりゃそうだけどさ。タバコ代とかどうすればいいんだろう」
「タバコなんてやめなさい。ビールも減らしなさい」
「マジで?」
「うん。マジ?」
座っていながらも僕は、KO寸前のボクサー並みにダメージを追い立ち上がれそうになかった。ただ、確認の意味も込めて改めて杏に訊ねた。
「育休の間だけなんだよね?本当なんだよね?その言葉」
「順調にいけばそうなるでしょう」
僕は杏が鼻先をぽりぽりとかくのを見て確信を抱いた。これは嘘をついているなと――。杏は自分に不都合なことがあると、必ずと言っていいほど鼻をかく癖がある。
「嘘だったら?」
「まあ、そのときはそのときでしょうね。これはね、決定事項であって相談じゃないからよろしくね。あっ、そうだ。それでもどうしても小遣いが欲しかったら、副業をはじめたらいいじゃない。うちの会社は副業してもいいしね」
「これ以上働いたら過労死するわ」
「そうねえ。いっそ死んでくれたほうが保険金が入っていいかもね」
「そんな冗談言ってもらっちゃ困るよ」
「えっ、冗談じゃなく本気でそう思ってるけど。まあ、副業するっていっても肉体労働じゃない仕事だってあるだろうし、あんたならうまくできるんじゃない?私は、あんたができる男だと思ったから、付き合ったしこうして結婚したんだけど?はて、見間違いだったかな」
杏はそう言うと、何事もなかったかのように刺身を口に入れ咀嚼をはじめる。それから、またお姫様たちの今日の出来事を楽しそうに話しはじめていた。




