第60話:ふたつの世界を結ぶ一杯
深い原生林を渡る風は、かつての刺すような冷たさをすっかり脱ぎ捨て、どこまでも柔らかく、甘い新緑と百花の香りを孕んでいた。
魔獣の異常活性化という未曾有の災禍を退けてから、数ヶ月。
激戦によって傷ついた森は、精霊樹の神秘的な息吹と豊かな季節の巡りによって驚異的な回復を遂げ、見渡す限りの木々の梢は、陽の光を浴びて瑞々しい深緑の波を打っている。テラスの周囲を取り囲む青い星型の野花たちは、まるで夜空の星座をそのまま大地に零したかのように咲き乱れ、梢のあちこちからは、鈴を転がすような小鳥たちの澄み切った囀りが、幾重にも重なって降り注いでいた。
そして――朝の木漏れ日を一身に浴びて誇らしげに掲げられているのは、紅霜樹の一枚板で作られた、あの新しい看板だった。
蜜蝋ワックスで飴色に磨き上げられた木肌には、ふたりの手で丹念に彫り込まれた文字が、深い陰影を帯びて鮮やかに浮かび上がっている。
『森のカフェ アクスベル境界店』
『珈琲と、温かい焼き菓子』
看板の下をくぐり抜ける風が、軒下に吊るされたセレス草のドライハーブのブーケをカサリと揺らすたび、ライムとミントを思わせる清涼な芳香がテラス一面へと零れ落ちていく。
山小屋のテラス席は、まだ午前九時を回ったばかりだというのに、すでに満員の熱気と笑い声に包まれていた。
「ち、ちょっと、ダミアン副官! いくらなんでも食いすぎじゃないっすか!? もう三杯目でしょうが!」
「うるせえや、リュカ! 食える時に限界まで胃袋に詰め込むのが辺境警備隊の鉄則だろうが! それに、シオリさんのオムライスを残すなんて選択肢、この世のどこにもねえんだよ!!」
テラス中央の長テーブルで、空になった皿を両手で高々と掲げて叫んでいたのは、赤毛の副官・ダミアンだった。
身にまとった黒革の鎧は、あの激戦の傷跡を工兵の手で綺麗に修復され、鈍い光沢を放っている。以前のようなやつれや疲労の色は微塵もなく、頬はつやつやと紅潮し、その鳶色の双眸は、美味しいご飯への無尽蔵の情熱で爛々と輝いていた。
「シオリさぁぁん! オムライス、もう一丁! 今度はチキンライス大盛りで、卵は極限までプルプルのやつをお願いしやすっ!!」
「はいはい、すぐ作りますから、ダミアン君は少し落ち着いてお冷を飲んで待っていてくださいね」
キッチンのカウンターの向こう側から、栞がくすくすと笑い声を返した。
洗いざらしのリネンエプロンをきゅっと引き締め、後ろで束ねた艶やかな黒髪のサイドには、あの『星屑の銀鉱石』のヘアピンが、朝の光を吸い込んで凛と瞬いている。
カウンターの上のガスコンロでは、真っ黒な鋳鉄製フライパンが、小気味よい音を立てて熱せられていた。
――ジュワワワワッッ!!
角切りの鶏もも肉と甘みの強い玉ねぎが、香ばしいバターの海の中で弾け飛ぶ。
裏の清流で炊き上げた艶やかな白米を放り込み、木べらで手早く切るように炒め合わせる。
そこへ、現代の濃厚なトマトケチャップを鍋肌から豪快に投入した。
――ジュウゥゥゥッ!
熱されたケチャップの酸味が心地よく飛び、凝縮されたトマトの甘みと旨味が、一粒一粒の米へと均一にコーティングされていく。皿の上に美しくラグビーボール型に盛り付けられた、湯気立つチキンライス。
続いて、小さめのスキレットに平飼い卵三個と少量の生クリームを流し込み、強火で一気に菜箸を回転させる。
――トントン、トントン……。
手首を軽く叩いて巻き上げたオムレツは、表面はつるりと滑らかなシルクのようで、内部は極上の半熟のトロトロ感を完璧に封じ込めている。
チキンライスの上にふわりと乗せ、ナイフの刃先を中心へと当てた。
――スッ……。
刃が入った瞬間、まるで花がほころぶように、内側から黄金色の半熟卵がとろりと両脇へと雪崩れ落ち、チキンライスの山をすっぽりと黄金の毛布のように包み込んだ。
仕上げに、煮詰めた自家製デミグラスソースをたっぷりと回しかけ、パセリを散らす。
「はい、ダミアン君。特盛りオムライス、お待ち遠さま!」
「うおおおおおっ! 女神降臨! いただきますッッ!!」
木皿を受け取ったダミアンが、スプーンを力任せに突き立て、大口を開けて頬張った。
――ハフッ、ハフハフッ……!
「んんん〜〜〜っ! これこれこれ! バターの香りと卵のトロトロ感が、舌の上で溶けて消えちまう! 肉もプリップリで、ソースのコクがたまんねえっす!!」
歓喜の雄叫びを上げるダミアンの隣では、すっかり怪我の完治したリュカとマークが、木皿の上のスコーンを巡って激しい火花を散らしていた。
「マーク、お前さっきチーズスコーン食っただろ! この最後のルミナスベリーのスコーンは俺の分だ!」
「何を言うかリュカ! 怪我の回復期には果実のビタミンが必要不可欠だと隊医も言っていたぞ! 貴様の貧弱な腕前では、このスコーンの重厚なバターの旨味を受け止めきれん!」
「関係ない理屈をつけるな! 力ずくでも奪い取ってやる!」
ふたりが競い合うようにして、焼き立ての熱いスコーンを左右から割り、大口でかじりつく。
――サクッッ! ザクザクッ……!
幾重にも折り重なった香ばしい生地が心地よい破断音を立て、中から発酵バターの甘いミルクの香りと、熟成チーズの濃厚なコク、そしてルミナスベリーの甘酸っぱい果汁がジュワリと口いっぱいに広がる。
「「うめええええええええっっ!!」」
若い兵士たちの咆哮が、秋の森の青空へと吸い込まれていく。
テーブルの間を飛び交っていたのは、人間たちだけではなかった。
「ピィッ! ピキャキャッ!」
四枚の薄羽を虹色に光らせたポムが、仲間の森のピクシーたちを引き連れて、楽しげに空中で宙返りを決めている。
ポムたちは、兵士たちの肩や頭の上にちょこんと降り立つと、皿の隅に添えられた自家製イチゴジャムや生ハチミツの雫を、小さな指先ですくい取っては、美味しそうに舌鼓を打っていた。
兵士たちも嫌がるどころか、「おいポム、こっちのジャムも美味いぞ」「羽にソースをつけるなよ」と、すっかり打ち解けた様子で目尻を下げている。
かつて、魔獣を狩るだけの過酷な防壁だった境界の森。
飢えと不眠に苛まれ、死の恐怖に怯えていた騎士たち。
そのすべてが、この温かな山小屋のテラスで、美味しいご飯と焼き菓子を囲み、心からの笑顔を咲かせている。
カウンターの奥で、栞はドリップケトルを傾けながら、その光景を愛おしそうに見つめていた。
祖父の形見である、細口の銅製ケトル。
裏の清流から汲み上げたばかりの、魔力を宿した奇跡の超軟水が、シュンシュンと心地よい湯気を上げている。
陶器のドリッパーにセットされたペーパーフィルターの中には、深煎りのマンデリンの粉が、山盛りに整えられていた。
ケトルの注ぎ口から、一筋の細い湯を静かに落とす。
――ポタ、ポタポタ……ジュゥゥッ……。
熱湯が漆黒の粉の芯に触れた瞬間、まるで深い眠りから目覚めた大樹のように、粉がふっくらと巨大なドーム状に膨らみ上がった。
立ち上る、真っ白な濃密な蒸気。
きめ細かな琥珀色のクレマが幾重にも波打ち、焦がしカラメルと大地のようなビターアロマが、爆発的な勢いでテラス中へと広がっていく。
三十秒の蒸らしの後、栞はゆっくりと「の」の字を描くように、湯の筋を落とし続けた。
サーバーの底に、深い闇を溶かし込んだような黒褐色の液体が、トトトトト……と澄んだ音を立てて満ちていく。
その所作のひとつひとつに、栞の魂のすべてが込められていた。
――私、本当に……ここへ来てよかった。
ふっと、胸の奥底から温かな感慨が湧き上がってくる。
ほんの数ヶ月前までの自分は、都会の満員電車に揺られ、擦り減ったヒールの踵を見つめながら、出口のない暗闇の中で泣いていた。
他人の理不尽に耐え、都合のいい歯車として扱われ、生きる意味すら見失いかけていた三十歳の会社員。
けれど、祖父の真鍮鍵が導いてくれたこの場所で、泥まみれで行き倒れていたあの不器用な男と出会い、料理を作り、珈琲を淹れ、言葉を交わしていくうちに――。
自分自身の人生を、自分の足で歩き直す勇気を取り戻すことができた。
誰かの命令で動くのではない。
自分の手で選んだ食材を、自分の手で火にかけ、大切な人たちの命と笑顔を守るために生きるということ。
それは、どんな大企業の役職や安定よりも、遥かに尊く、誇らしい生き方だった。
――その時だった。
――サクッ、ザッ。
テラスの階段を上がってくる、聞き慣れた、けれど誰よりも重厚で力強い足音が響いた。
「あ……」
栞が顔を上げた瞬間、テラス席の兵士たちが一斉に背筋をピンと伸ばし、居住まいを正した。
「た、隊長! お疲れ様ですッ!」
「境界の巡回任務、異常なしであります!」
現れたのは――レオンハルトだった。
漆黒の甲冑を隙なく身にまとい、背中にはあの大剣。
朝一番の北の防衛ラインのパトロールを終えて戻ってきたところなのだろう、その肩には朝露の冷気が微かに宿っていた。
けれど、その佇まいには、かつてのような「氷の番犬」の刺すような殺気は微塵もなかった。
部下たちの敬礼に対し、レオンハルトは小さく片手を挙げて応えた。
「……楽にしろ。非番の朝に、隊規を振りかざす気はない」
「へへっ、さすが隊長! あ、隊長、シオリさんのオムライス、今日も絶品っすよ!」
ダミアンが口元にケチャップをつけたままニヤニヤと笑いかけると、レオンハルトは呆れたように小さく息を吐いた。
「ダミアン、貴様……朝から三皿目だな。後で訓練場で十往復走らせるぞ」
「げぇっ!? なんでバレてんすか!?」
兵士たちのドッと湧き上がる笑い声を背に受けながら、レオンハルトは大股で歩みを進めた。
向かう先は、ただひとつ。
カウンターの奥で、ドリップケトルを手に微笑む栞の元だった。
レオンハルトはカウンターの脇へと回り込み、栞のすぐ隣へと立った。
そして――。
――スッ……。
手袋を外した大きな掌が、栞のエプロンの腰元へと、あまりにも自然に、そっと添えられたのだ。
「…………っ」
栞の身体が、微かに跳ね上がった。
腰に触れる、男の武骨な指先の熱気。
大剣を背負った逞しい身体がすぐ真横に寄り添い、革と森の爽快なアロマがふわりと鼻先をかすめる。
レオンハルトは栞の耳元へと、ほんのわずかに顔を寄せた。
他の誰にも聞こえないような、低く、甘やかな重低音。
「……手伝おう」
男の薄い唇から、優しく囁かれたその言葉。
至近距離で見つめ合う銀の双眸には、夜明けの光よりも温かな、深い情愛が満ち満ちていた。
「レ、レオンハルトさん……みんなが見てますよ……っ」
栞が頬をカッと林檎のように赤く染め、小声で抗議すると、テラス席の兵士たちから、待ってましたとばかりに盛大な冷やかしの声が上がった。
「ヒューッ! 隊長、朝からごちそうさまですッ!」
「手伝おう、じゃねえよ! ただシオリさんに触りたいだけだろあの人!」
「おいダミアン、それ以上言うと本当に午後の訓練で首が飛ぶぞ!」
「コホンッッ!!」
レオンハルトはわざとらしく咳払いをひとつし、冷ややかな銀の眼光で部下たちを一睨みした。
けれど、その白皙の耳たぶは、隠しようもなく真っ赤に染まり上がっており、唇の端は照れ隠しの苦笑いに微かに緩んでいた。
男は腰から手を離すと、カウンターの上に並べられていた温かい陶器のマグカップを、大きな手で手際よく並べてくれた。
「……珈琲を、注ぐのだろう」
「ふふ……はい。ありがとうございます」
栞は微笑み、抽出を終えたばかりの珈琲サーバーを持ち上げた。
なみなみと注がれる、漆黒のマンデリン。
表面から立ち上る真っ白な湯気が、朝の澄み切った陽光の中で、キラキラと金色の光の粒子をまとって天井へと昇り詰めていく。
甘いオムライスの香り。
香ばしい焼き立てスコーンのバターの匂い。
そして、深く芳醇な珈琲のアロマ。
満たされた胃袋と、あふれる笑顔。
そして――真横に寄り添う、最愛の人の確かな体温。
もう、どこへも逃げる必要はない。
過去の傷も、孤独も、涙も、すべてはこの瞬間のためにあったのだと、胸の奥底から確信が満ちてくる。
祖父が遺してくれた山梨の古民家。
そして、この異世界の豊かな森に佇むログハウス。
ふたつの世界を結ぶ重厚な欅の扉の向こう側で、相沢栞は、自らの手で選び取った最高の居場所を見つけ出したのだ。
栞はエプロンの紐をきゅっと整え直すと、両手で淹れたての一杯を掲げた。
黒髪のサイドで、星屑のヘアピンがキラリと誇らしげに輝く。
テラスを埋め尽くす仲間たちへ、そして隣で優しく見守る愛しい人へ向けて。
栞は満面の、春の陽だまりのような眩い笑顔を咲かせ、高らかに声を響かせた。
「――いらっしゃいませ! 週末の森のカフェへ!」
ふたつの世界を結ぶ扉の向こうで。
温かく、優しく、そして最高に美味しい日々が、これからも永遠に続いていく。




