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第34話:平日の闖入者とポムのお昼寝

深い原生林の木立を縫って近づいてくる金属音は、テラスの空気を微かに震わせるほど重厚だった。


――カチャ、チャリン。


規則正しく、けれど決して急ぐことのない、ゆったりとした歩調。


週末にダミアンを連れて現れたときのような荒々しい勢いも、雨の夜に傷つき倒れ込んできたときのような頼りない引きずり音もない。背の高いシダの青葉を慣れた仕草で押し分け、足元の腐植土を軍靴の底でしっかりと踏みしめながら、その巨躯は木漏れ日のスポットライトの中へと姿を現した。


黒髪に、射抜くような銀の双眸。


百八十センチを優に超える長身を包むのは、いつもの漆黒の甲冑だった。


だが、その装いは先週までの張り詰めた完全武装とはどこか異なっていた。背中に背負っていたはずの巨大な両手大剣はなく、腰に吊るされているのは巡回任務用の標準的な片手半剣(バスタードソード)が一振りだけ。肩から羽織った黒いウールマントも留め金が緩めにかけられ、首元には防刃用の分厚いゴルゲット(喉輪)ではなく、動きやすさを重視した黒革のインナーが覗いている。


非番の日の、単独での自主的な森の見回り。


部下を引き連れることもなく、討伐任務の殺気配をまとうこともなく、ただ境界の森の平穏を確かめるためだけに歩いていた――そんな風情だった。


男は、木立の切れ目から山小屋の敷地へと足を踏み入れた瞬間、何気なくテラスへと視線を走らせた。


いつものように、無人のウッドデッキを確認し、軒下に吊るされたハーブの揺れを一瞥して、そのまま立ち去るつもりだったのだろう。


――だが。


男の足が、空中でピタリと止まった。


踏み出しかけた右足が地面に落ちることなく、わずかに浮いたまま硬直する。


銀の双眸が、信じられないものを見たかのように見開かれた。


そこにいたのは――。


初夏の柔らかな木漏れ日を浴びながら、丸太のベンチにゆったりと腰掛け、手元に置かれたアンティークの大きなカフェオレボウルから立ち上る白い湯気に包まれながら、静かに文庫本を広げている、相沢栞の姿だった。


「………………」


静寂。


原生林の風が、梢を揺らしてサワサワと葉擦れの音を立てる。


レオンハルトの視線は、テラスの手すりから、欅(けやき)の一枚板のテーブル、そしてそこに座る栞の顔へと、まるで現実の輪郭を確かめるかのように何度も往復した。


瞬きを一度。二度。


普段の彼であれば、どんな奇襲を受けようとも一瞬で剣の柄に手を伸ばすはずの男が、完全に金縛りに遭ったかのようにその場に棒立ちになっている。


日曜日ではない。


太陽の傾きを見れば一目でわかる、正午を少し回ったばかりの、月曜日の真昼間。


これまでの数週間、彼女が姿を現すのは常に「週末の決まった時間」だけだった。月曜日の朝になれば忽然と姿を消し、土曜日の朝になるまでは、この小屋の扉は決して開くことがなかったはずなのだ。


男の喉仏が、ゴクリと重たい音を立てて上下した。


ようやく動いた長い足が、ぎこちない足取りでテラスの階段へと向かう。


一段、二段と軋む音を立てて階段を上がり、ウッドデッキの上へと踏み込んできた。


そして――。


「…………な」


絞り出されたのは、地を這うような掠れ声だった。


男は眉間に深い溝を刻み、眉根を寄せて、まるで幽霊か幻影を見るような眼差しで栞を凝視した。


「……なぜ……こんな平日の真昼間に、あんたがいるんだ……?」


低く、困惑に満ちた重低音。


その問いかけがあまりにも真面目で、そして心底からの狼狽を滲ませていたため、栞は思わず胸の奥で小さく吹き出しそうになった。


栞は開いていた文庫本の上にそっと栞紐を挟み、パタンと閉じた。


そして、両手を膝の上で重ねると、悪戯が成功した子供のように、ふわりといたずらっぽく微笑んでみせたのだ。


「こんにちは、レオンハルトさん。驚かせちゃいましたか?」


「お、驚くどころの話ではない……! 今日は月曜日だぞ? あんたの世界では……その、あの理不尽な務めがある日ではなかったのか……!? なぜここにいる? まさか、何か良からぬ事態に巻き込まれて、逃げ込んできたのではあるまいな……!?」


男の顔に、急速に別の種類の緊張が走った。


もしや追手をかけられたのか、それとも身に危険が迫って逃避してきたのかと、銀の瞳が鋭い警戒の色を帯び、周囲の木立へと無意識に視線を走らせる。その過剰なまでの心配ぶりに、栞の胸の奥がじんわりと温かくなった。


「ううん、違いますよ。誰かに追われたわけでも、トラブルがあったわけでもありません」


栞は首を横に振り、テラスの爽やかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。


「私ね、会社を辞めることにしたんです」


「……辞める……?」


「はい。来月末で正式に退職します。引き継ぎも全部完璧に終わらせて……今日から『有給休暇』という、長期のお休みに入ったんですよ」


「……ゆうきゅう……きゅうか……?」


レオンハルトの口から、聞き慣れない異界の単語が、ぎこちなくこぼれ落ちた。


男は眉根をこれでもかと寄せ、まるで難解な古代魔導書の暗号でも解読するかのように、真剣な顔で小首を傾げている。


「それは……何かの軍法上の処分か? 任務を解かれ、蟄居(ちっきょ)を命じられたということなのか……?」


「あはは! 違います、処分なんかじゃありません!」


栞はたまらず声を立てて笑ってしまった。


アクスベル王国の過酷な軍務に身を置く彼にとって、「働かずに長期間休む」という概念は、職務怠慢か処罰のどちらかでしかあり得ないのだろう。


「有給休暇っていうのはね、これまで真面目に働いてきた人が、お給料をもらいながら堂々と休むことができる、正当な権利なんです。誰にも文句は言われませんし、悪いことでも何でもないんですよ」


「……働かぬのに、給金を貰える権利……? そんな馬鹿な制度が、世の中に存在するのか……?」


「ふふ、私の世界にはあるんです。だからね……」


栞は立ち上がり、テラスの手すりへと歩み寄り、見渡す限りの原生林へと両手を広げてみせた。


「今日からしばらくの間、私は週末だけじゃなくて、平日もずっとここにいます。平日常駐ですよ、レオンハルトさん」


「………………っ」


男の身体が、ピクリと震えた。


平日常駐。


その言葉の意味を、レオンハルトの頭脳がゆっくりと、時間をかけて咀嚼していく。


週末の数時間だけ、幻のように現れては消えていく存在だった彼女が。


この静かな山小屋に、明日も、明後日も、何日も続けて留まり続けるということ。


男の表情から、困惑と疑念のヴェールが、春の陽射しに溶かされる霧のように、すうっと消え去っていった。


そして――。


いつも氷のように張り詰めていた、あの冷徹な「氷の番犬」の銀の双眸に。


ふっと、見たこともないほど柔らかく、温かな光が宿ったのだ。


それは、厳しい冬の雪解けを告げる日差しのような、どこまでも穏やかで、深い安堵の色だった。


男は自覚がないのか、固く結ばれていた薄い唇の端を、ほんのわずかに緩めていた。


胸元から、長いため息が零れ落ちる。


「……そうか」


低く、掠れた呟き。


たった三文字の言葉の中に、どれほどの安らぎが込められていたか。


過酷な辺境の警備任務で擦り切れ、孤独に耐え続けてきた男にとって、この森の奥に「いつでも帰れる温かな場所」があり、そこに「彼女がいてくれる」という事実が、どれほどの救いになるのか。言葉以上に、その緩んだ目元が雄弁に物語っていた。


――その時だった。


――ピピィッ!


栞の膝の上で丸まっていたポムが、短い声を上げてパッと目を覚ました。


栗色の巻き毛をパタパタと振り、大きな琥珀色の瞳を擦りながら見上げた先には――見上げるような長身の、黒騎士の姿。


以前であれば、甲冑の威圧感に怯えて栞のポケットへ逃げ込んでいたはずの小さな妖精。


だが、今のポムの瞳には、警戒の色など微塵もなかった。


「ピキャッ!」


ポムは嬉しそうに羽を広げると、栞の膝からふわりと舞い上がった。


そして、空中で弧を描き、一直線に向かった先は――。


なんと、レオンハルトの左肩だった。


――トンッ。


防具の隙間、黒革とウールが重なり合う肩当ての柔らかな毛皮の上へと、躊躇うことなく軽やかに着地したのだ。


「……ぬ?」


レオンハルトが驚いて視線を斜め上へと向ける。


大人の掌にすら収まる小さなピクシーは、屈強な騎士の肩の上でトコトコと二、三歩足踏みをすると、毛皮の毛並みを小さな手で器用に整え始めた。


そして――。


くるりとその場で一回転し、犬や猫のように身体を丸めると、レオンハルトの首筋の温もりにすっぽりと寄り添うようにして、ペタリと座り込んでしまったのだ。


「ピィ……」


小さなあくびをひとつ。


四枚の半透明の薄羽をパタリと畳み、琥珀色の目蓋をすうっと閉じる。


先ほど栞のカフェオレの泡を舐めて満腹になった胃袋と、初夏の心地よい木漏れ日、そしてこの大男が放つ独特のどっしりとした安心感。


それらが完璧に噛み合った結果、ポムは歴戦の騎士の肩の上で、一切の警戒心を脱ぎ捨てて、本格的な『二度寝』――お昼寝を始めてしまったのだ。


すー……、すー……と、微かな寝息がレオンハルトの耳元をくすぐる。


「…………おい」


レオンハルトの身体が、完全に石化した。


肩の上の小さな生き物を落とさないよう、首を右に傾けたまま、身動きひとつ取れなくなっている。


銀の瞳は大きく見開かれ、どうしていいか分からず助けを求めるように栞へと視線を泳がせている。


「シ、シオリ殿……これは……どういうことだ……? なぜ俺の上で寝ている……?」


「ふふっ、ポムったら、レオンハルトさんの肩がよっぽど居心地いいのね」


栞は口元を押さえ、くすくすと笑い声を漏らした。


身長百八十センチを超える筋骨隆々の大男の肩の上で、手のひらサイズの妖精が無防備に丸くなって眠っている。そのあまりにもシュールで、けれど胸が温かくなる光景に、笑わずにはいられなかった。


「……動いていいのか? 落としたりはせんか?」


「大丈夫ですよ。そっと撫でてあげたら、もっと喜びますよ」


「なっ……撫でる……!?」


男は戦慄したように息を呑んだ。


大剣を振るい、巨大な魔獣の首を刎ね落としてきた自らの武骨な右手を、恐る恐る持ち上げる。


無数のタコと傷跡が刻まれた、大きな指先。


力加減を誤れば、この儚い小人の骨など一瞬で砕いてしまいかねない。男は額にうっすらと緊張の汗を滲ませながら、まるで極限の爆破物を解除するかのような慎重さで、人差し指の腹をポムの栗色の巻き毛へと近づけていった。


――そっ……。


触れた瞬間、ポムが微睡みの中で「ピ……」と小さく喉を鳴らし、レオンハルトの指先に自らの小さな頬をすり寄せてきた。


「…………っ」


レオンハルトの息が止まった。


指先を通して伝わってくる、あまりにも小さく、柔らかな生命の脈動と温もり。


男の指先が、ぎこちなく、けれどこれ以上ないほど優しく、ポムの頭を撫で下ろす。


ポムはますます安心したように丸まり、男の首筋の温かな皮膚に額を預けて、深い眠りへと沈んでいった。


その光景を見つめるレオンハルトの横顔は、もはや「氷の番犬」と呼ばれる男のものではなかった。


困惑と、戸惑いと、そしてどこまでも不器用な愛おしさに満ちた、ひとりの優しい青年の顔。


白皙の肌の耳たぶが、先週の朝と同じように、ほんのりと淡い桜色に染まり上がっていくのを、栞は見逃さなかった。


「……本当に、人が悪いな、あんたも……こいつも」


レオンハルトは観念したように小さく息を吐き出すと、肩の上のポムを起こさないよう、抜き足差し足のような極端に静かな足取りで、テラスの中央へと歩み寄った。


欅のテーブルの上に目を落とす。


そこには、栞が先ほどまで飲んでいた、ぽってりとしたカフェオレボウルが置かれていた。


表面にはまだ、きめ細かなミルクの白い泡がわずかに残り、そこから立ち上る深煎り珈琲のビターな香ばしさと、温められたミルクの甘美な匂いが、ふわりと男の鼻腔をくすぐった。


ピクリ、と男の喉仏が動く。


甘党の男にとって、この甘くまろやかな香りの破壊力は絶大だったらしい。


銀の瞳が、無意識のうちにボウルの中身をじっと見つめている。


栞はその視線の意味を察して、胸の中で微笑んだ。


時計を見ると、太陽はすでに頭上をわずかに過ぎ、正午を三十分ほど回ったところだった。


朝から森を巡回し、歩き回ってきたであろう男の胃袋は、今頃どうなっているだろうか。


砦の不味い乾パンと塩辛い干し肉の昼食を食べてきたとは思えない。いや、非番の日であれば、なおさら砦の不味い食堂を避けて、空腹のまま森を歩いていた可能性すら高かった。


栞はエプロンの紐をきゅっと直すと、ベンチの脇に立つレオンハルトを見上げた。


「ちょうどよかった」


栞が穏やかな、けれどどこか弾むような声で呼びかける。


「レオンハルトさん。お昼、まだですよね?」


「…………」


男は一瞬、誤魔化そうとするかのように視線を彷徨わせた。


だが、誤魔化しきれるはずもなかった。


――グゥ……。


男の鋼鉄の胸当ての奥底から、小さく、けれど誤魔化しようのない空腹の虫の音が、遠慮がちに響いたのだ。


レオンハルトの耳たぶの赤みが、一段と濃さを増した。


男は観念したように短く息を吸い込むと、小さく、本当に申し訳なさそうにコクンと頷いた。


「……ああ。まだだ」


「ふふ、やっぱり! すぐ作りますから、座って待っててくださいね」


栞が満面の笑みで促すと、レオンハルトは肩の上のポムを気遣いながら、慣れた様子でテラスの丸太ベンチへと腰を下ろした。


深く体重を預け、手すり越しに広がる原生林の木漏れ日を眺める男の背中には、先ほどまでの緊張はすっかり消え去っていた。


平日の、静かで贅沢な森の時間。


愛しい隠れ家カフェのキッチンで、栞は腕まくりをしながら、今日のために仕入れてきたとっておきの食材たちへと、心躍らせながら手を伸ばした。

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