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第1話 まずは手を洗え

「……まずは、お前ら手を洗え。」


神殿に沈黙が落ちた。


神官たちは顔を見合わせる。


老人も固まっていた。


まるで意味が分からないと言いたげな顔だった。


神崎は深いため息を吐いた。


異世界に召喚された。


勇者と呼ばれた。


世界を救えと言われた。


だが今の神崎にとっては、そんなことはどうでもよかった。


目の前の連中の手が汚い。


それが問題だった。


「て、手を……ですか?」


神官の一人がおずおずと尋ねる。


「ああ。」


「なぜでしょう?」


神崎は眉間を押さえた。


頭が痛い。


本当に頭が痛い。


「なんでって。」


「汚ぇだろ。」


神官たちはまた顔を見合わせた。


神崎は周囲を見回した。


床には土埃。


召喚陣の周囲には無数の足跡。


神官たちはさっきまで床に膝をつき、祈りを捧げていた。


その手で。


神崎の肩を叩き。


腕を掴み。


額に触れた。


考えれば考えるほど嫌になってくる。


「病気になるぞ。」


神崎が言うと、


神官たちは不思議そうな顔をした。


「病気……ですか?」


「ああ。」


「ですが、神殿には神聖魔法がありますので。」


神崎は固まった。


嫌な予感がした。


「手は洗わないのか?」


「必要ありません。」


「なんで。」


「神の加護がありますので。」


神崎は天井を見上げた。


夜勤明けのクレーマー対応の方がまだ話が通じた気がする。


その時だった。


視界の端に青白い光が浮かんだ。


【固有スキル:《医療記録カルテ》を取得しました】


「……あ?」


神崎は目を細めた。


文字は消えない。


幻覚かと思った。


だが身体は妙に軽い。


頭も冴えている。


過労で倒れた直後とは思えなかった。


【周囲対象を解析します】


次の瞬間。


目の前の神官の頭上に文字が浮かび上がった。


【軽度発熱】


【睡眠不足】


【栄養状態:不良】


【推定:上気道感染症】


「なんだこれ。」


思わず呟く。


神官たちは再びざわついた。


神崎は目の前の男を指差した。


「お前。」


「は、はい!」


「昨日から咳してるだろ。」


神官が凍り付いた。


「え?」


「喉痛いな。」


「え?」


「身体だるいな。」


「え?」


「あと今日熱出るぞ。」


神官の顔色が変わった。


「な、なぜ分かったのですか!?」


周囲の神官たちが騒ぎ始める。


「さすが勇者様!」


「神の眼だ!」


「奇跡だ!」


好き勝手言っている。


神崎は呆れた。


(いや、見えてるんだけどな……)


だが説明しても無駄そうだった。


そんなことを考えていると、


先ほどまで泣いていた老人が一歩前に出た。


「おお……!」


「やはり予言は本当だった!」


「私は大神殿神官長フィリウス。」


老人は深々と頭を下げる。


「勇者様のお力は本物だったのですね!」


神崎は即答した。


「違う。」


「え?」


「俺は勇者じゃない。」


「ですが召喚陣は――」


「知らん。」


神崎は立ち上がった。


身体を軽く動かす。


異常なし。


呼吸正常。


意識清明。


少なくとも今すぐ死にそうではない。


「では勇者様。」


「だから違う。」


フィリウスは困ったように眉を下げた。


「失礼しました。」


「それでは、なんとお呼びすればよろしいのでしょうか。」


神崎は数秒考えた。


そして答える。


「神崎。」


「神崎悠真。」


神官たちがざわつく。


「カンザキ……」


「ユウマ……」


聞き慣れない響きらしい。


フィリウスは頷いた。


「では神崎様。」


「様はいらん。」


「では神崎殿。」


「好きにしろ。」


神崎は近くの椅子へ腰を下ろした。


眠い。


腹も減った。


それに状況が何一つ分からない。


「それで。」


フィリウスが姿勢を正す。


「神崎殿。」


「なんだ。」


「どうか我らの話を聞いていただけませんか。」


神崎は面倒そうに頭を掻いた。


「五分。」


「はい?」


「五分だけだ。」


「それ以上は残業だからな。」


神官たちは意味が分からず首を傾げる。


神崎は気にしなかった。


異世界だろうが何だろうが、


説明という名の長話が面倒なのは変わらない。


フィリウスは咳払いを一つした。


そして厳かな声で語り始める。


「この世界は今、魔王軍の脅威に晒されています――」


神崎は静かに天井を見上げた。


勇者。


魔王。


世界の危機。


そんなものより。


まず先に。


この世界の衛生環境をどうにかした方がいいんじゃないか。


本気でそう思った。

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