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プロローグ

――ナースコールが鳴っている。


ピンポン、ピンポン、ピンポン。


「おい看護師! 水はまだか!」


「さっきから呼んでるだろ!」


「ねぇ、ちょっと! うちの父の順番まだなの!?」

 

「神崎さん、採血まだです」

 

「神崎さん、このインシデントレポート今日中です」

 

「神崎さん、夜勤一人欠員です。お願いできますか?」


「……は?」


神崎悠真は、ナースステーションの椅子に座ったまま、死んだ魚のような目で天井を見上げた。


「今日、俺、日勤だよな?」


「ええ。でも人いないので」


「……そう。」


当たり前のように追加される残業。


当たり前のように消える休憩。


当たり前のように鳴り続けるナースコール。


「神崎さん!」


「はいはい。」


「〇〇号室の患者さんが『飯がまずい』って怒ってます!」


「俺が作ったんじゃねぇよ。」


「〇〇号室の家族が『担当変えて』って……」


「変えろ。」


「〇〇号室の患者さん、また暴れて……」


「……行く。」


ため息をついて立ち上がる。


病室の扉を開けた瞬間、老人が怒鳴った。


「遅いんだよ!!」


ペットボトルが飛んできた。


神崎は避けた。


「お前ら看護師は何やってんだ!!」


「……。」


「金払ってるんだぞ!」


神崎は笑った。


営業スマイルだった。


「そうですね。」


「でしたら、もう少し投げる物を選んでもらっていいですか?」


「は?」


「次は硬い物だと危ないんで。」


「てめぇ!!」


「あ、あと。」


神崎はカルテを見ながら淡々と言った。


「水分制限、守ってくださいね。」


「クソが。」


「はい、お互い様で。」


病室を出る。


後輩看護師が青ざめていた。


「だ、大丈夫なんですか……?」


「大丈夫じゃない。」


「え?」


「この仕事してて大丈夫な奴なんかいねぇよ。」


ピンポン。


ナースコール。


ピンポン。


ピンポン。


ピンポン。


「……。」


「神崎さん?」


神崎は静かに立ち上がった。


「行くぞ。」


「え?」


「どうせ誰か呼んでんだろ。」


「でもさっきの患者さん、暴言ひどかったじゃ……」


神崎は眉間を押さえた。


「患者なんか好きじゃねぇよ。」


「家族も嫌いだ。」


「クレーマーなんてもっと嫌いだ。」


「……。」


「でも。」


カルテを閉じる。


「死なれると後味悪い。」


「それに。」


「報告書が増える。」


「……神崎さん。」


「だから助ける。」


「仕事だからな。」


その夜。


夜勤は続いた。


一時間だけの仮眠。


冷えた缶コーヒー。


終わらない記録。


インシデント。


急変。


救急搬送。


怒号。


泣き声。


謝罪。


そして。


「神崎さん!!」


「……何。」


「救急、CPAです!」


「了解。」


走る。


心臓マッサージ。


アンビュー。


指示。


薬剤準備。


怒鳴る。


「テンポ落とすな!!」


「換気!」


「時間確認!」


「諦めるな!!」


汗が落ちる。


息が切れる。


誰かが泣いている。


誰かが祈っている。


神崎はただ、胸骨圧迫を続けた。


「戻れ。」


「戻れよ。」


「……クソ。」


「こんなところで死ぬな。」


数分後。


「……戻りました。」


静寂。


そして安堵の声。


後輩が泣きながら笑った。


「助かりました……!」


神崎は乱暴に手袋を外した。


「そうか。」


「神崎さん……すごいです。」


「……。」


「俺はすごくない。」


「え?」


「たまたまだ。」


「たまたま助かっただけだ。」


そう言って、ナースステーションへ戻る。


記録を書かなきゃならない。


報告もしなきゃならない。


仮眠なんて、もうない。


椅子に腰を下ろした。


限界だった。


身体が重い。


頭が痛い。


視界が揺れる。


「……もう。」


誰にも聞こえない声で呟く。


「疲れた。」


ピンポン。


ナースコール。


ピンポン。


ピンポン。


「神崎さん!」


「……。」


「神崎さん!?」


誰かが肩を揺らしている。


うるさい。


もういいだろ。


俺は勇者じゃない。


聖者でもない。


ただの看護師だ。


それなのに。


どうしてこんなに。


どうして、まだ。


――ピンポン。


――ピンポン。


――ピンポン。


暗闇の中。


どこか遠くで、誰かの声がした。


『勇者様……!』


「……あ?」


『勇者様!!』


「うるせぇ。」


重い瞼を開く。


見知らぬ天井。


見知らぬ服。


見知らぬ人々。


そして。


白いローブを纏った老人が、涙を流しながら叫んだ。


「予言の勇者様が、お目覚めになられた!!」


神崎悠真は、数秒間沈黙した。


「……。」


「……は?」


「勇者様! どうか我らをお救いください!!」


頭が痛い。


眠い。


腹が減った。


帰りたい。


そして何より。


周囲の人間たちの手が、土埃で汚れているのが目についた。


神崎は深いため息をついた。


そして、異世界で最初に口を開いた。


«「……まずは、お前ら手を洗え。」»


こうして。


暴言、隠蔽、夜勤、そして救命で心をすり減らした限界看護師は――。


異世界で『白衣の勇者』として祭り上げられることになる。

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