蠢く闇の手(後編)
本日3話目です。
諦めの混じる悲痛な声を上げた久瑠実であったが、次の瞬間、困惑気味に思いがけない言葉を口にした。
「あれ?! 痛くない……」
久瑠実は、きょとんとした表情で状況を確認する。ナイフは、間違いなく彼女の身体に5cmほど刺さっている。それに、出血もあるし、ナイフの冷たさも感じる。ただ、痛みを全く感じない。
(なんで?! これって、グレイスさんの手品?! そう言えば、さっき指から火を出してたよね)
パニック気味になりながらも、久瑠実は目の前の状況を理解しようと考えを巡らせる。
「大丈夫よ。すぐ終わるわ……」
グレイスは、困惑する彼女にそう声を掛けると、ナイフを握る手に力を込めて鳩尾の方へ移動させていった。
「……」
身体が激しく傷つけられていくのを目の当たりにしているにも関わらず、久瑠実は叫び声も上げずただぼーっとその状況を見つめるだけであった。彼女にとって、今行われている事が、現実なのかそれとも非現実なのか正確な判断が出来なかったのである。
ようやくナイフが引き抜かれた時には、すでに久瑠実の身体は刺し込まれた場所から下腹部までが縦に切り裂かれた後だった。
(これ、やっぱり手品だ。だって、こんなふうに切られちゃったら、普通気を失っちゃうはずだもん)
久瑠実は、この状況を非現実であると結論付けた。それは、この状態に至って、なお意識がはっきりしている事があり得ないと思ったためであった。
そうこうしているうちに、彼女の身体は、切られた部分が見えない力で強引に左右へ引っ張られた。一瞬にして裂け目が大きく広がり、臓器が曝け出される。途中、わきの下の辺りから、ボキッボキッと指を鳴らすような音が数回聴こえたが、久瑠実は目の前に広がる光景に驚き、それを気に掛けるだけの余裕が無かった。
(凄い! 理科室の人体模型とそっくり)
現状を、手品か奇術だと思い込んでいる久瑠実は、初めて見る光景に目を見張った。
普通、年頃の女子中学生が、大量の血液や人体の臓腑を見て、このような感想を持つことは無いだろう。大体、今時の女の子ならば、『キモッ』とか『グロッ』といった感想になるはずだ。たとえ、気が動転していたり、臓器が本物そっくりに作られた偽物だったとしてもである。
では、なぜ彼女がそうならなかったのか……
それは、少し前に久瑠実が話した通り、両親が医者であり彼女自身も医者を目指している事と、自宅にある臓器の写真が載った医学書を目にする機会に恵まれていた事に起因する。つまり彼女は、臓器というものに対してある程度の耐性があったのだ。
「ひゃうっ……」
グレイスが、ローブの袖を捲った手を体内に入れ、臓器を弄り始めたと同時に、久瑠実は短い悲鳴を上げた。
(きっ、気持ち悪い! 体の中を、なにかが這い回ってる感じがする。これも手品?!)
久瑠実には、具体的にどこを触られているかは分からない。ただ、くちゃくちゃという音と共に、気持ち悪い感覚が全身に駆け巡っているように感じたのだ。
彼女が、気持ち悪さを振り払おうと、頭を左右に振りながら目を白黒させていると、今度は別の感覚が襲いかかった。
「あっ!!!」
不意に久瑠実を襲った感覚の正体は、尿意であった。彼女は、これまでの人生の中で感じたことのない、強い尿意に苛まれ始めたのである。
「ああっ、いやぁ……」
彼女の様子に、グレイスは愉快そうに笑みを浮かべる。
「どう? もの凄くおしっこしたくなってきたでしょ? 今、貴女の膀胱を私が握っているからよ」
「やめっ、やめてぇ!! 出ちゃう!! ホントにおしっこ出ちゃうからぁ!!!」
「うふふふふふふっ。我慢しなくてもいいのよ? 思いっ切り出しちゃいなさい。ほら、ほら、ほらぁ」
狂喜の笑みを浮かべ、グレイスは一定のリズムで右手に握った膀胱へ力を加えていく。
「いやっ、いやぁ~~~~~~~~~!!!」
次の瞬間、久瑠実の大きな叫び声と共に、《シャー、ビチャビチャビチャ》という水音が響いた。グレイスの右手によって膀胱に強制的な刺激を加えられた結果、久瑠実の我慢は限界に達し人前で盛大に放尿させられてしまったのである。
「あっ、あっ……」
人としてあまりにも恥辱的な出来事に、久瑠実は虚ろな目をしてすっかり放心したようになってしまった。
「さてと、お遊びはここまでにして、そろそろ本題に移らないと。のんびりしてると鮮度が落ちて、苦労して手に入れた生贄がダメになってしまうわ」
血に濡れた右腕を久瑠実のスポーツタオルで拭いながら、グレイスはそう呟いた。
彼女は左腕の袖を捲り、右手に先程のナイフを再び握る。グレイスの瞳には、規則正しいペースで脈打つ心臓が映っていた。
彼女は、動き続ける心臓を包み込むように左手で掴むと、ナイフで血管を切り離していく。手早く済ませる事を優先にしているのか、ナイフの動きはやや乱雑で、肺や気管に傷が付くのもお構いなしである。
「ごほっ、ごほ、ごほ、ごほっ……」
久瑠実が苦しそうに、むせたような咳をし始めた。
「ひゅー、げほ、げほ、げほ、がはっ……」
呼吸がしにくいのか、大きく息を吸うと喘息の発作に似た音が鳴り、再び激しい咳を繰り返すと、最後は少量の血を吐いた。
それすらも気に掛けず、グレイスは淡々と作業をこなす。程なく、最後の血管を切り終えたグレイスは、血に染まった左手に握られた心臓を、久瑠実に見えるように持ち上げた。
「くるみちゃん、大丈夫? ほら、これが心臓よ」
真っ赤に染まった心臓は、身体から切り離されているのにも関わらず、今までと変わらないペースで動き続けている。
その光景に、放心していた久瑠実が気を取り戻す。
荒い呼吸を繰り返し、額にうっすらと汗をにじませ、やや怯えた視線を向けながら、久瑠実は今まで疑問に思いつつも聴けなかった事を恐る恐るグレイスに尋ねた。
「グレイスさん。これって、手品なんですよね? 私、そのお手伝いをしてるんですよね?」
尋ねられたグレイスは、一瞬きょとんとした表情になったものの、直ぐに言葉の意味を理解したのだろう。
「くるみちゃん、なに言ってるの? これは、“手品”じゃなくて“現実”。だから、この縦に切り裂かれた体も、流れてる血も、全部あなたのもの。もちろん、この心臓もね」
ニンマリとした笑みを浮かべ、さも当然といった感じで答えた。
「嘘……」
目を見開いて驚く久瑠実は、
「で、でも…… 全然痛くない。それに心臓だって、取り出したのにまだ動いてるじゃないですか!」
苦しそうな息遣いをしながらも、気丈にも大きな声を出して捲し立てる。
「そうね。でもそれは、私が魔法を使ったからよ。そうそう、くるみちゃんに1つ嘘をついてた事があるわ。私、シスターじゃなくて魔女なのよ」
久瑠実の話をグレイスは、事もなげにさらっと受け流す。そして、祭壇の奥に描かれた幾何学模様の方へ歩き出しながら、話しを続けた。
「おかしいと思わなかった? 身体は動かせなくて痛みも無いのに、触られた感覚があって意識もしっかりしてる。内臓を弄られて、お漏らししちゃったり咳き込んだりっていう反応がある。そんな事、どんなに凄いマジシャンでも出来るわけないじゃない」
グレイスは、コツッ、コツッとステップを踏むように踵を鳴らしながら、何も描かれていない一画へ歩を進めた。
それの姿を追いかけるように頭を動かしながら、久瑠実は睨みつけるようにグレイスを見つめ続ける。
「これは、召喚の魔方陣。これを完成させるには、新鮮で活きの良い心臓が必要なの。くるみちゃんに手伝って欲しかったのは、心臓を取り出すための生贄になってもらう事。それだけよ」
目的の場所に辿り着いたグレイスは、久瑠実の方を向くと心臓を持った左手を彼女に見せつけるように突き出す。真下は、何も描かれていない真っ白な床がある。
「で、でもっ、でもっ! 私の事、あんなに優しくお世話してくれたじゃないですか!!」
「それも全部、この心臓のため…… フォン・デヴァジェ・フラーム……」
叫ぶような久瑠実の問いかけに、冷ややかな態度で答えたグレイスは、そのまま意味不明な言葉を紡ぎ始めた。それと同時に、心臓を強く握りしめる。
「ぐっ、ぐるじい…… やべで…… ぐるじ、いよ…… ごほごほごほ……」
途端にもがき苦しみ、うめき声を出す久瑠実。
そんな久瑠実の姿を見る事も無く、グレイスは儀式を続けていく。
握り締められた心臓から絞り出された血液を使い、床に幾何学模様が描かれていく。それに反応してか、すでに描かれていた部分が、淡く光り始めた。
「……ヴォルファ・レグ・ゼガム!」
《グシャッ》
3分ほど経った頃、グレイスは力強い声を発すると、伸ばした爪を食い込ませるようにグッと心臓を握り潰した。
魔方陣は、淡い光を忙しなく点滅させ始める。
「ごっほっ、ごっほっ、ごっほっ……」
祭壇の上で、激しくむせる久瑠実。自らの心臓が潰されても、彼女はまだ生きているのだ。
一方、グレイスは握りつぶした心臓から滴る最後の血液を使って、英語のように見える文字を書き上げていく。
程なく、ふわりと一瞬大きく光を放った魔方陣を見て、グレイスは満足そうに1人頷くと、ビクビクと痙攣を繰り返している心臓を部屋の隅に投げ捨てた。
「ああっ…… 私の心臓がっ……」
その光景を見ていた久瑠実が、涙で濡れた顔を歪ませながら悲痛な声を上げる。
そんな彼女の声に、グレイスは薄ら笑いを浮かべながら、元の場所へ戻って来た。
「くるみちゃん、あなたのお蔭で私の望みにまた一歩近づいたわ。ありがとう」
「じゃ、じゃあ、もう用は無いですよね。お家に帰らせて下さい!」
「それは無理よ。だって、ほらあなたの心臓はあんなになっちゃったし、身体だってこんなふうに切り裂いちゃったら元には戻らないもの」
グレイスが指差した方へ久瑠実が顔を向けると、涙で霞む視界の先には、動きを止めあちこち傷だらけの肉塊に変わり果てた心臓がぼんやりと見えた。
「私、どうなっちゃうの?」
今までのそれと比べて弱々しくなった涙声で、久瑠実は呟く。
その声が聴こえなかったのか、それとも無視しただけなのか。グレイスは、淡く光る右手で久瑠実のつま先に軽く触れると、先程のナイフで右足の親指を軽く切り裂いた。
「痛いっ!!」
途端に大きな声を上げた久瑠実であったが、すぐに不思議そうな表情を浮かべる。
「急に痛みが戻ってビックリしたでしょ? 私が、足の部分に掛けていた魔法だけ解除したからよ。ねぇ、くるみちゃん。もしも、お腹に掛かってる魔法を解除したら…… あなた、どうなっちゃうのかしらね?」
「だめっ! 今、そんなことしたら私、死んじゃう! お願いします。何でもしますから、止めて下さい!!」
薄ら笑いを浮かべるグレイスに、久瑠実は目を見開いて懇願する。
だが、グレイスが久瑠実の耳元で囁いた言葉は、彼女を絶望へ叩き落とす冷たく残酷な一言だった。
「ごめんなさい。私、もうくるみちゃんに用は無いの。だから、このまま死んでちょうだい。生贄になってくれて、ありがとう。さようなら……」
「やだぁ…… 止めて…… お願い…… グレイスさん…… 助けて下さい……」
ゆっくりと離れていくグレイスに、久瑠実は泣きじゃくりながら助けを求める。
しかしその願いも空しく、グレイスは光る右手を久瑠実の鳩尾から下腹部までの間を、滑らせるようにサッと振った。
次の瞬間───
「ギャァァァァァァァァァァァァァァァーーーーーーー」
大きく目を見開き、おおよそ上げた事が無いであろう叫び声を上げながら、久瑠実はガクガクと大きく痙攣をし始めた。それと同時に、腹圧に耐えかねた内臓が、《ボンッ》という音が聞こえそうなほどの勢いで体内から飛び出す。
グレイスは、その様子に見向きもせずに振り返ると、
「片付けておきなさい」
突如現れた黒い影に言い残し、扉の方へ歩いて行く。
久瑠実は、黒い影に抱ええられ、部屋の隅で折り重なっている死体の山へ投げ捨てられた。
ビクビクと痙攣する久瑠実が、涙で濡れる瞳で最後に見たもの……
それは、誇らしげに胸を張って遠ざかって行く、グレイスの後姿であった。




