第5話前半 ハズレスキルで日雇い無双(ただし誰にも言えない)
鐘が鳴って、悠真は跳ね起きた。
一つ、二つ、三つ——四つめで、時計塔だと気づいた。七つ鳴り終わるまで、心臓が落ち着かなかった。
薄暗い部屋の中で、悠真はしばらく寝台の上に座ったまま動けなかった。
窓の隙間から朝の光が細く差し込み、石造りの壁を白く照らしている。昨夜洗ったパーカーは椅子の背へ掛けてあったが、完全には乾いておらず、布のところどころに熊の血の跡が薄茶色く残っていた。
帰還の鐘ではない。
今のは、ただ時刻を知らせる鐘だ。
頭では分かっている。
それでも最初の一音が鳴った瞬間、ハンスたち三人の名前と、ギルドで静まり返った酒場が一気に蘇った。
鐘の音で体が固まるようになっていた。
「……最悪な条件反射だな」
悠真は額を押さえた。
寝たはずなのに体は重い。
森でほとんど眠れなかった疲労と、昨日一日中歩き続けた筋肉痛が、二日分まとめて押し寄せてきたようだった。
それでも今日は働かなければならない。
所持金は十銅。
昨夜の宿代が三十銅。
同じ宿へもう一泊するなら、今のままでは足りない。
「異世界来て三日目で家賃の心配か……」
もっと剣だの魔法だの、そういう心配をするものだと思っていた。
現実は思ったより生活感が強い。
悠真は顔を洗い、まだ湿っているパーカーを仕方なく着込んだ。
冷たい布が背中へ張りつき、思わず肩をすくめる。
部屋を出て階段を下りると、宿の戸口にガストンが立っていた。
「遅え」
「今起きたところです」
「見りゃ分かる」
ガストンは悠真の顔を一瞥し、持っていた布の塊を投げて寄越した。
「着ろ」
受け止める。
古いシャツだった。
厚手で丈夫そうな生地だが、何度も洗われたらしく色はかなり褪せている。
「これ、誰のです?」
「ヤコブの予備だ」
悠真の手が止まった。
ガストンは特に表情を変えなかった。
「仕事場に置きっぱなしだった。……あいつも、着てもらった方が喜ぶ」
「……そうですか」
悠真は少し迷ってから、パーカーの上に合わせてみた。
大きい。
袖も少し余る。
「でかいですね」
「ヤコブはお前より横に広かったからな」
「そこは縦じゃないんだ」
「腹だ腹」
ガストンは笑いながら歩き始めた。
悠真もその後ろを追った。
朝の鉄工区は、昨夜とはまるで別の場所だった。
まだ太陽が建物の屋根を越えきっていない時間から、そこらじゅうで槌の音が鳴っている。
カン。
カン、カン。
遠くでは炉の煙が空へ細く昇り、冷たい朝の空気に石粉と煤の匂いが混ざっていた。
荷車が石畳を軋ませながら通り過ぎ、その後ろを職人たちが忙しそうに歩いていく。道端には削り途中の石材や木箱が積まれ、人の声と金属音とラバの鳴き声が絶え間なく重なっていた。
悠真は首を巡らせた。
「朝からすごいな……」
「働かなきゃ食えねえからな」
「身も蓋もない」
「事実だ」
ガストンが連れてきたのは、坂道の途中にある工事現場だった。
古い石積みの壁を一度崩し、積み直しているらしい。
道の脇には四角く切り出された石が山のように積まれ、その横では男たちが二人一組になって石を運んでいる。
全部で八人ほど。
その中心に、ひときわ声の大きな男がいた。
「そこ、先に詰めろ! 上じゃねえ、下だ! 下が空いてんだろ!」
太い首。
日焼けした顔。
作業着の袖から出た腕は悠真の倍近く太い。
そして、左手の指が二本なかった。
「ボリス」
ガストンが声を掛ける。
男が振り返った。
「遅えぞ」
「七つの鐘で来いとは言われてねえ」
「職人は鐘が鳴る前に来るもんだ」
「俺は荷運びだ」
「口だけは親方級だな」
二人のやり取りから、付き合いが長いことだけは分かった。
ボリスは悠真へ視線を向けた。
上から下まで見る。
ヤコブの大きなシャツ。
その下から覗く見慣れないズボンと白いスニーカー。
悠真自身も、かなり妙な格好だと思う。
「こいつだ」
ガストンが言った。
ボリスの眉が少し上がった。
「……お前が、鐘の坊主か。ハンスたちを連れて帰ってきたってな」
知られている。
悠真は少し戸惑った。
「俺が連れて帰ったっていうか……札を持ってきただけですけど」
「同じだ」
「結構違うと思います」
「細けえな」
ボリスはそれ以上話を広げず、手に持っていた一枚の紙を掲げた。
「始める前に言っとくぞ」
現場にいた男たちが、作業を続けながら耳だけこちらへ向ける。
ボリスは紙へ目を落とした。
「一つ。積み石の下に手を入れるな。二つ。荷を担いだまま振り返るな。三つ。水は昼までに一杯は飲め」
一つずつ、はっきり読み上げる。
最後まで言い終えると、紙を下ろした。
「字が読めねえ奴がいても、ここじゃ誰も死なせねえ。以上」
短い。
だが、妙に耳へ残った。
左手の失われた指が視界に入ったからかもしれない。
誰も死なせない。
昨日まで、三人の死と一緒にいた悠真には、その言葉が思った以上に重く感じられた。
ボリスが顎をしゃくった。
「死人を連れて帰ってくる奴は、仕事も最後までやる。日当五十。倒れたら自分で起きろ」
「採用ってことですか」
「働けりゃな」
五十銅。
宿代が三十。
差し引き二十は残る。
悠真の中で一瞬にして生活計算が成立した。
「やります」
「返事はいいな」
「金ないんで」
「さらにいい」
ボリスは笑った。
最初の仕事は、切り石を積み場まで運ぶことだった。
見るだけなら単純に見えた。
山から石を持つ。
二十歩ほど離れた壁の前まで運ぶ。
置く。
それだけ。
悠真は一番小さそうな石を選んだ。
両手を掛ける。
「ふっ……!」
持ち上がらない。
石は地面と一体化したように動かなかった。
「……嘘だろ」
腰を落とす。
もう一度。
腕へ力を入れる。
今度はほんの少し浮いた。
だが数センチで限界だった。
「重っ……!」
すぐ隣で作業していた男が笑った。
「新入り、腰が死ぬぞ」
「これ、一人で運ぶんじゃないんですか?」
「見りゃ分かるだろ」
男が指した先では、二人の作業員が一本の太い棒に石を吊り下げ、前後から担いでいる。
「先に言ってくださいよ……」
「先に聞けよ」
正論だった。
悠真は腰を伸ばした。
昨日までなら、ここで終わっていた。
重い石は重い。
自分の体は普通。
筋力が急に増えたわけでもない。
けれど今は、別の方法がある。
石を見る。
積む場所を見る。
距離は短い。
はっきり見える。
問題は、誰にも気づかれずに使うことだった。
悠真は周囲を見た。
ボリスは坂の上で別の男に指示を出している。
ガストンは荷車から道具を降ろしている。
ほかの作業員も、それぞれ自分の仕事で忙しい。
「……今なら」
石へ手を置く。
壁際。
まだ石が置かれていない空間。
そこ。
石が消えた。
次の瞬間。
狙った場所へ、何の音も立てずに現れた。
悠真は一瞬動きを止めた。
「……できた」
熊を消した時とは違う。
崖の上へ狼を飛ばした時とも違う。
恐怖がない。
血も出ない。
ただ、重い石が必要な場所へ移った。
もう一つ。
周囲を確認する。
誰も見ていない。
そこ。
二個目の石が移る。
三個目。
四個目。
悠真は次第にコツを掴んでいった。
同じ場所へ続けて置くのではなく、作業員が運んだように見える程度に間隔を空ける。
人が近くにいる時は使わない。
視線が外れた瞬間だけ。
そして、ときどき本当に石へ手を掛け、いかにも頑張って運んでいるように見せる。
「はあ……はあ……」
膝へ両手をつく。
演技だ。
ほとんど疲れていない。
「俺、何やってんだろ」
能力を隠すために、全力で疲れたふりをしている。
ラノベで想像していたチート生活とは、かなり方向が違う。
それでも嫌ではなかった。
むしろ、妙に楽しい。
自分一人では一センチもまともに持ち上げられなかった石が、意識するだけで軽々と移る。
しかも誰も怪我をしない。
何度使っても息切れもしない。
石の山が、目に見えて減っていく。
一時間ほど経った頃。
現場の男の一人が手を止めた。
「……おい」
別の男も振り返る。
「何だ」
「石、減ってねえか?」
悠真の肩が僅かに跳ねた。
「そりゃ運んでるから減るだろ」
「いや、そうじゃなくて。減るの早くねえ?」
男たちが石の山を見る。
壁際を見る。
また石の山を見る。
「新入り」
「はい」
「お前、いつ運んだ」
悠真は一瞬だけ考えた。
「さっき、こう……根性で」
沈黙。
「根性」
「はい」
「根性で石は軽くならねえぞ」
「気持ちは軽くなります」
「何言ってんだこいつ」
近くで笑いが起きた。
その声に気づいたボリスがやって来た。
石の山を見る。
ほとんど残っていない。
次に、悠真を見る。
悠真はとりあえず息を切らしたふりをした。
「はあ、はあ……」
ボリスの目が細くなる。
「……サボってんのに、終わってるのは、なんでだ」
「……効率です」
「一番信用できねえ言葉が出たな」
悠真は目を逸らした。
危ない。
思ったより減らしすぎた。
調子に乗った。
次から少し加減しよう。
そう思った直後、また誰かの視線が外れた。
つい。
もう一個だけ。
悠真は山の端にある石を見た。
壁際に空いている場所。
そこ。
石が消えた。
しかし。
「あ」
狙いが少しずれた。
石は壁の手前、休憩用に置かれていた木箱の真上へ現れた。
木箱の上には。
肉のパイがあった。
次の瞬間。
ぐしゃ。
「俺の昼飯!」
男の悲鳴が響いた。
悠真は固まった。
石の下から潰れたパイの端が覗いている。
「……風、ですかね」
「どんな風だよ!」
現場中から笑いが起きた。
悠真も笑った。
失敗した。
けれど、何だかおかしかった。
昨日までは能力を使うたび、血や死が隣にあった。
今は昼飯が潰れただけだ。
怒鳴っている男も生きている。
周りも笑っている。
石を壁へ運ぶ。
ただそれだけのために使える。
悠真は自分の手を見た。
これだよ。
これが俺の求めてたチートだよ。
人殺しの道具か、荷物運びか。……だったら、荷物運びでいい。




