第5話後半 ハズレスキルで日雇い無双(ただし誰にも言えない)
その考えが腹の底へ落ちると、不思議なほど肩の力が抜けた。
誰にも見られないよう気を張る必要はあるし、転移させる場所を間違えれば、昼飯どころでは済まない。それでも、熊を殺した時とは違う。この力を使っても誰かが血を流すわけではなく、石が予定より少し早く運ばれるだけだ。
悠真はそれからも、普通に運べる石は周囲の男たちと一緒に担いだ。汗をかき、腰を曲げ、石粉で手を白くしながら働き、その合間に誰の視線も向いていない瞬間を選んで、一つか二つだけ切り石を積み場へ移す。
能力だけですべて終わらせようとはしなかった。
それではさすがに目立つ。
だが、八人の男が働く現場では、誰がどの石を運んだかまで逐一見ている者はいない。目の前の荷を担いでいるうちに、いつの間にか次の石が積み場へ増えていても、最初のうちは誰も疑わなかった。
「新入り、そっちの長いやつ寄越せ!」
「これですか?」
「それは短え! その横だ!」
指された方を見る。
悠真には、どちらも似たような石にしか見えない。
「全部同じじゃないですか」
「お前、石屋の前でそれ言ったら殴られるぞ!」
「俺、石屋じゃないんで」
「今、石運んでんだろうが!」
近くで作業していた男たちから笑い声が上がった。
悠真も笑いながら指定された石へ向かう。
腕はもう重かった。
腰にもじわじわ痛みが来ている。
能力を使えば一瞬なのに、それでも自分の体で石を担ぐことが嫌ではなかった。
汗をかいて、怒鳴られて、失敗すれば笑われる。
昨日まで命があるかどうかを気にしていた悠真にとって、その程度で済む一日はむしろありがたかった。
昼を過ぎる頃には、朝には山のようだった切り石の大半が擁壁の近くへ移っていた。
「おい」
誰かが石の山を振り返った。
「減るの早くねえか?」
悠真の肩がわずかに強張る。
別の男が汗を拭いながら答えた。
「今日は人数いるからだろ」
「こんな早かったか?」
「新入りが働いてんじゃねえの」
一斉に視線が悠真へ向いた。
「え?」
「お前、いつ運んだ」
「さっき、こう……根性で」
「根性で石は倍運べねえよ」
誤魔化しとしては弱かった。
幸い、そこでボリスの怒声が飛んできた。
「口動かす暇があったら手ぇ動かせ!」
「へい!」
男たちの視線が散る。
悠真は胸の奥で息を吐いた。
便利なのは間違いない。
だが便利だからといって、無制限に使えるわけではないらしい。
石が消える瞬間を見られなくても、仕事が早すぎればそれ自体が不自然になる。
今後はもう少し加減しよう。
そう思った直後、少し離れた場所から悲鳴が上がった。
「俺の昼飯!」
悠真は振り返った。
さっき転移させた石の下から、潰れた肉入りのパイが半分だけ覗いている。
男が膝をつき、信じられないものを見るような顔でそれを見ていた。
「誰だ! 誰がここに石置いた!」
悠真はそっと目を逸らした。
「……風、ですかね」
「石が風で動くか!」
現場のあちこちから笑い声が起きた。
悠真も笑うしかなかった。
精度が上がったと思っていた矢先だった。
調子に乗ると碌なことにならない。
それでも、胸の奥にあった重さは朝よりずっと薄くなっていた。
午後になってしばらくした頃、一人の老人が現場へ入ってきた。
重そうな帆布の道具袋を肩へ掛けている。
誰かに挨拶するわけでもなく、作業中の擁壁へ真っ直ぐ近づくと、積まれた石の一つを指の関節で軽く叩いた。
こつ。
少し場所を変える。
もう一度。
こつ。
悠真には何を調べているのか分からない。
老人は石の表面を撫でたあと、近くで作業していた男へ言った。
「その石、向きが逆だ。石には目がある。寝かせる向きを間違えりゃ、十年で割れる」
言われた男が露骨に嫌そうな顔をした。
「またかよ、爺さん」
「またじゃねえ。逆は逆だ」
「親方!」
助けを求めるような声が飛ぶ。
ボリスが振り返り、問題の石を一度見ると、迷いなく怒鳴った。
「直せ!」
「ええ……」
「十年後に俺の仕事だって言われて崩れたら、死人になっても腹が立つ!」
男はぶつぶつ言いながら石を外し始めた。
悠真は老人を見てから、近くまで来たボリスへ小声で尋ねた。
「あの人、誰です?」
「ベルクの爺さんだ。この辺の石垣を、半分は組んだ人だ」
悠真は思わず通りを見渡した。
坂道を支える石壁。
水路の縁。
古い家々の基礎。
意識して見ると、鉄工区は驚くほど多くの石組みに支えられている。
「半分って……かなりすごくないですか」
「昔からの石工だ。婆さんに先立たれてから、ああやって毎日口を出しに来る」
「本人に聞こえたら怒られません?」
「聞こえてる」
ボリスは平然としていた。
少し離れたところからベルクの声が飛んでくる。
「聞こえてるぞ、若造」
「ほら」
「親方も若造なんですね」
「爺さんから見りゃな」
ボリスはそれだけ言って作業へ戻った。
ベルクも追いかけて怒鳴ることはせず、次の石を確かめ始める。
やがて、悠真が転移で置いた一つの石の前で、その手が止まった。
石の表面ではない。
継ぎ目を見ている。
ベルクはしゃがみ込み、手のひらで石と石の境をゆっくりなぞった。
悠真の背中へ冷たい汗が浮かぶ。
別の場所へ行こうかと思った。
だが、あからさまに離れる方が怪しい。
「……妙だな」
老人が呟いた。
悠真は近くの石を持ち上げるふりをしながら耳をそばだてる。
「こいつには『置いた』跡がねえ。……最初っから、そこにあったみたいに座ってやがる」
今度こそ手が止まった。
ベルクが顔を上げる。
目が合った。
「これ、お前が置いたか」
「……丁寧に、置いたんで」
「丁寧、ねえ」
短い。
納得したようには聞こえなかった。
ベルクはもう一度継ぎ目へ指を這わせたが、それ以上は何も聞かなかった。
悠真はようやく息を吐いた。
転移する瞬間さえ見られなければいいと思っていた。
そうではないらしい。
石を何十年も扱ってきた人間には、「どう置かれたか」の痕跡まで見える。
能力そのものを隠しても、その結果に不自然さが残れば疑われる。
これは覚えておいた方がいい。
ベルクが腰を上げ、道具袋を担ぎ直した。
帆布が大きく沈むほど重そうだった。
「持ちますよ、それ」
悠真が手を伸ばす。
ベルクは半歩だけ体を引いた。
「触るな。まだ自分で運べる」
「あ、はい」
拒絶というより、譲れない線を引かれたような言い方だった。
悠真は手を引っ込める。
ベルクが通りへ向かって歩き始め、その背中を何となく目で追っていると、古い石垣の端に小さな刻印があることへ気づいた。
円。
その中央を、斜めの線が一本横切っている。
よく見ると一つだけではない。
少し離れた壁にもある。
向かい側の古い建物の基礎にも、同じ印が小さく刻まれていた。
「この印……」
ベルクが立ち止まった。
「爺さんのですか?」
老人は刻印へ視線を向けた。
ほんの一瞬だった。
「……昔の話だ」
それだけ言って、また歩き始める。
石の向きを指摘していた時とは声が違った。
悠真はそれ以上聞かなかった。
少し先で、ベルクが再び足を止めた。
壁に一枚の告示が貼られている。
赤い封蝋のついた紙だった。
現地の文字は読める。
視線を向ければ内容も分かるはずだった。
だが、紙を睨むベルクの横顔があまりにも険しく、悠真はそちらへ目を移すことができなかった。
通りを荷車が通り過ぎる。
車輪が石畳を鳴らし、近くの工房から流れてきた煤の匂いが風へ混じる。
それでもベルクはしばらく動かなかった。
「紙切れ一枚で、何十年を……」
低い声だった。
やがて道具袋を担ぎ直し、何も言わずに去っていく。
爺さんの顔が怖くて、紙の方は見られなかった。
悠真はその背中が通りの向こうへ消えるまで見送り、もう一度、石垣の印へ視線を落とした。
円に斜めの線一本。
なぜか、その形だけが記憶に残った。
仕事が終わったのは、太陽が大きく西へ傾いた頃だった。
昼間は白っぽく見えていた石壁が夕日を受けて橙色へ染まり、工房の煙突から伸びる煙にも赤い光が滲んでいる。朝から響き続けていた槌の音は少しずつ減り、代わりに片づけをする木箱の音や、帰り支度を始めた男たちの声が目立つようになっていた。
ボリスが一人ずつ日当を配っていく。
悠真の番になると、親方は銅貨を数えもせず、慣れた手つきで掌へ落とした。
「五十。明日も来い」
「いいんですか?」
「何がだ」
「また来ても」
ボリスは擁壁を見た。
朝には崩れていた場所が、夕方にはかなりの高さまで積み直されている。
「仕事は終わっただろ」
「まあ、終わりましたけど」
「なら文句ねえ。倒れたら自分で起きろ」
「それ毎回言うんですね」
「必要だから言ってんだ」
そこで会話は終わった。
悠真は掌の銅貨を見つめる。
五十枚。
重なった硬貨が夕日の光を鈍く返している。
働いて、金をもらった。……異世界で。
当然のことのようでいて、今の悠真には大きかった。
これがあれば食べられる。
宿にも泊まれる。
明日の朝まで生きるために、誰かへ頼み込む必要がない。
転移してから三日目にして、ようやく自分の足元へ小さな地面ができたような気がした。
現場を離れる頃には、通りへ夕食の屋台が出始めていた。
炭火の煙に混じって肉の焼ける匂いが漂い、朝から働き続けた腹が露骨に反応する。
悠真は肉串の屋台の前で足を止めた。
「一本六銅」
屋台の主人が言う。
「二本ください」
今日は払える。
そのことが少し嬉しかった。
銅貨十二枚を渡し、焼きたての串を二本受け取る。
一本目に齧りつく。
表面には焦げ目がつき、肉汁が熱いまま口の中へ広がった。中心は完全には色が変わっておらず、わずかに薄桃色が残っている。
悠真はこのくらいの焼き加減が好きだった。
「うま」
思わず声が漏れた。
もう一口いこうとした時、屋台の主人の顔がわずかに引きつった。
視線が悠真ではなく、その後ろへ向いている。
「どうしました?」
返事の代わりに、背後から重い靴音が近づいてきた。
悠真は振り返った。
背の高い男だった。
暗い茶色の髪。
左眉を横切る古い傷。
外套の下にはよく手入れされた装備が見え、派手な装飾はないのに、通りを歩く人たちが自然に少しずつ道を空けている。
男は屋台の焼き台を一度見た。
「中まで火を通せ。……規則だ」
「へ、へい。もちろんで」
主人の返事が妙に速い。
男の視線が横へ動いた。
悠真の手元。
齧りかけた肉串。
薄桃色の断面。
悠真は反射的に残っていた一口分を口へ押し込み、もう一本の串を背中へ回した。
何もしていません、という顔だけ作る。
男の目が一瞬細くなった。
気づかれている。
確実に。
だが何も言わず、そのまま屋台の前を通り過ぎていった。
足音が十分に遠ざかってから、悠真は飲み込む。
「……今の人、誰です?」
「第三師団の旦那は、生焼けに厳しくてなあ」
「そういう担当なんですか?」
「担当かどうかは知らんが、規則にはうるさい」
「なるほど……」
食中毒を考えれば正しい。
正しいのは分かる。
悠真は背中へ隠していた二本目の串を見た。
生焼けの方が、うまいのに。
屋台の並ぶ通りを抜けると、腰を下ろすのにちょうどいい低い石垣があった。
悠真は座ろうとして、その端に刻まれている印へ気づいた。
円に、斜めの線一本。
「ここもか」
ベルクの印。
昼間に見たものと同じだった。
悠真は石垣へ腰を下ろした。
鉄工区の屋根が見える。
太陽はほとんど沈み、空の赤みも薄くなっていた。工房の煙突は黒い影へ変わり、その向こうでは白い光石灯が一つずつ順番に灯っていく。
昨日、王都へ入った時には目を奪われた光景だった。
今日は少しだけ見慣れている。
まだ三日しか経っていないのに。
その事実に気づいた途端、胸の奥へ妙な寂しさが差し込んだ。
悠真はポケットへ手を入れた。
指先へ、スマートフォンの硬い感触が触れる。
電源は切ったままだった。
森の夜、ライトとして使ったあと、残量がほとんどないことは分かっている。
それでも、最後に一回だけ見たかった。
何を、と聞かれても答えられない。
日本から通知が来ているはずはない。
電波はずっと圏外だ。
地図も使えない。
それでも、画面だけは日本にいた時と同じものだった。
悠真は電源ボタンを長く押した。
一度では反応しない。
もう一度押す。
少し待ってから、黒い画面に光が戻った。
「ついた……」
残量一パーセント。
壁紙は買った時のまま。
特別な写真ではない。
通知は一件もない。
画面上部には圏外の表示。
その下に、日本の日付と時刻が残っていた。
18:52。
悠真はしばらく数字を見つめた。
三日前までは一日に何十回も見て、ほとんど意識すらしなかった表示だった。
今は、その数字だけが自分のいた場所につながる最後の物のように感じられる。
「新刊、結局、最後まで読めなかったな」
口から出たのは、そんな言葉だった。
もっと大事なことはいくらでもあるはずだった。
大学。
いつもの道。
コンビニ。
駅。
朝の電車。
なのに最初に浮かんだのは、徹夜して読んでいた本の続きだった。
悠真は少しだけ笑った。
笑ったつもりだった。
画面の数字が変わる。
18:53。
その直後、光が消えた。
「……あ」
電源ボタンを押す。
反応しない。
もう一度。
長く押す。
黒い画面へ、暮れかけた空と自分の顔が薄く映っているだけだった。
日本の時計が、止まった。
胸の奥で、それまで辛うじてつながっていた細い糸が切れたような感覚がした。
悠真は俯いた。
スマートフォンの黒い画面へ、一滴落ちた。
すぐに二滴目が続く。
涙は拭かなかった。
帰れないと決まったわけではない。
帰る方法が分からないだけだ。
日本そのものが消えたわけでもない。
それでも、いつでも見られた日本の時間がなくなっただけで、急に距離が広がった。
毎朝通っていた坂。
駅へ向かう人たち。
明るすぎるコンビニ。
読みかけの本。
くだらないと思っていた日常の細部ばかりが、勝手に浮かんでは消えていく。
鉄工区は何事もなかったように動き続けていた。
仕事を終えた男たちが笑いながら通りを歩く。
屋台から肉の焼ける匂いが流れてくる。
どこかの家で扉が閉まり、遠くではまだ金属を打つ音がする。
自分が泣いていても、この街の夕方は止まらない。
それが寂しかった。
同時に、少しだけありがたかった。
しばらくして涙が止まると、悠真は手に残っていた二本目の串を見た。
すっかり冷めている。
一口齧った。
焼きたてより肉は硬くなっている。
脂も少し重い。
それでもちゃんと味がした。
「……うまいな、これ」
泣いても腹は減る。
スマートフォンが止まっても、夜は来る。
明日も朝は来るし、生きるなら働かなければならない。
それでいいのかもしれない、とまでは思えなかった。
ただ、今はそれを続けるしかない。
「おい、鐘の坊主!」
下の通りから大声が飛んできた。
悠真は目元を拭かないまま、石垣の下を覗き込んだ。
ボリスが立っている。
「その呼び方、やめてもらえます?」
「明後日から白冠区だ。アルヴェイン侯爵家の庭の石組み。貴族の屋敷だ、粗相したら首が飛ぶぞ」
侯爵家。
貴族。
どちらも悠真の好きそうな単語ではなかった。
「……偉そうな人がいる所、いちばん苦手なんですけど」
ボリスが鼻を鳴らした。
「日当は倍だ」
「行きます」
即答だった。




