第6話前半 侯爵家の庭で、目を合わせてはいけない人を見た
白冠区の門をくぐった瞬間、ボリスの声が半分になった。
「……おい、鐘の坊主。ここ、息していいのか」
「たぶん、していいと思います。たぶん」
悠真が答えると、すぐ後ろを歩いていた男たちまで妙に呼吸を浅くした。
王都のほかの区画とは、空気そのものが違って見える。
丘の上へ続く石畳には泥一つなく、その両脇には高さを揃えて刈り込まれた低木が伸び、朝露を残した葉が斜めから差す陽光を受けて細かく光っている。坂の上には白い石造りの大きな館があり、その前へ広がる庭は斜面に沿って三段に分かれていた。
中段を囲う植え込みなど、枝葉ではなく巨大な刃物で輪郭を切り出したのではないかと思えるほど線がまっすぐだった。
そんな場所を歩いているのが、普段は鉄工区の土と煤にまみれて働く男たちである。
今日だけは全員、できる限り綺麗なシャツを借りてきていた。
「靴の裏、拭いたか」
列の途中にいた男が、小声で隣へ確認する。
「門の外で拭いただろ」
「もう一回見ろ。泥ついてたら俺は知らねえぞ」
本人も落ち着かないらしく、自分の靴底を何度も気にしていた。
ボリスまで普段より背筋を伸ばしている。
「いいか。勝手なことすんなよ。今日は石だけ見てろ」
「それ、俺に言ってます?」
「お前以外に誰がいる」
悠真が返事をする前に、館の方から規則正しい足音が近づいてきた。
硬い靴底が石畳を打つ音へ、ちり、ちり、と金属の触れ合う澄んだ音が重なる。
現れた女性は高い襟の服を隙なく整え、腰にはいくつもの鍵を束ねて下げていた。歩くたびにその鍵が小さく鳴り、並んでいた男たちの視線が自然とそこへ集まる。
女性は列の前で止まると、ほとんど瞬きもせず、一人ずつ職人たちの顔を見た。
「侍女頭のヒルダと申します」
誰も声を出さなかった。
ヒルダは挨拶への返答を求める様子もなく、一番端にいた男の前へ立つと、片手を差し出すよう視線だけで促した。
男が恐る恐る両手を出す。
爪を見る。
次の男へ移る。
悠真はようやく何を確認されているのか理解した。
自分の番を無事に通過し、最後にボリスのところでヒルダの足が止まる。
ボリスの太い指の爪には、昨日までの仕事で入り込んだ黒い汚れがしっかり残っていた。
ヒルダはそれを見る。
次にボリスを見る。
何も言わないまま、近くの使用人から小さなブラシを受け取ると、それを差し出した。
ボリスも無言で受け取った。
背後で誰かが咳払いをした。
笑えば自分も同じ目に遭うと全員分かっているらしい。
ボリスが少し離れた水場で爪を洗って戻ってくると、ヒルダはようやく全員を見渡した。
「当家のお庭で働かれる方に、守っていただくことは四つです」
男たちの背筋が揃って伸びる。
「一つ。ご家族のお姿を見かけても、目を合わせないこと」
悠真は心の中で頷いた。
貴族相手なら、そういうものなのだろう。
「二つ。ご家族からお声がけがない限り、口を開かないこと。お声がけがあれば、必ずお返事をすること」
こちらも分かる。
「三つ。植え込みの線より内側に入らないこと」
刃物で切ったような植え込みを見る。
分かる。
「四つ。においを出さないこと」
分からなかった。
列の中で空気が止まった。
誰かが自分の服へ鼻を近づけ、別の男が脇の下を気にする。
ボリスが眉を寄せた。
「……においは、どうやって出さねえんだ」
ヒルダは一度も表情を変えなかった。
「出さないでください」
男たちは互いの顔を見た。
誰一人として正解を知らない顔だった。
ちり、と鍵束が一度だけ鳴り、ヒルダはそのまま館の方へ戻っていった。
背中が十分遠ざかってから、ようやく誰かが息を吐いた。
「……息もにおいに入るか?」
「知らねえよ」
「朝、にんにく食った」
「お前、今日しゃべんな」
小さな声があちこちから上がり始める。
ボリスは額を押さえたあと、全員を下段へ連れていった。
仕事場は、三段に分かれた庭の一番下だった。
春の長雨で斜面を支える擁壁の一部が崩れ、大きな石がいくつも地面へ転がっている。その周囲には補修用の石材も積まれ、土の掘り返された匂いが朝の冷たい空気へ混じっていた。
ようやく見慣れた仕事場らしい景色へ来たせいか、男たちの肩から少し力が抜ける。
ボリスは崩れた壁を指差した。
「根石を据えて、築石を寝かせて積んで、裏に栗石を詰める。隙間は間詰石。てっぺんに天端石。勾配をつけて、少し寝かせろ」
悠真は半分ほどしか理解できなかった。
「要するに、元に戻せばいいんですよね」
「今の説明のどこ聞いてた」
「だいたいです」
「だいたいで壁積むな」
それでも仕事そのものは分かる。
石を運び、積む。
それなら自分の転移は相性がいい。
*
午前の作業が始まってしばらくすると、悠真は周囲の視線を確認しながら、少しずつ転移を使い始めた。
大きな築石を人力で動かせば何人も必要になるが、一瞬だけ誰にも見られない時間があれば、自分にとっては重さなど関係ない。
地面に置かれていた石を見る。
次に壁の空いている場所を見る。
そこへ置く。
詠唱も光もなく、石はただ消えて、そこに現れる。
石の向きを見て微調整する。
思ったより簡単だった。
昼前には、悠真の担当した一角だけ妙に綺麗に積み上がっていた。
我ながら悪くない。
表面の線も揃っているし、大きな隙間もない。
これならボリスも何も言わないだろう。
そう思ったところへ、本人が歩いてきた。
ボリスは完成した部分を眺めた。
腕を組む。
横から見る。
悠真は少しだけ胸を張った。
次の瞬間、ボリスが石壁を蹴った。
ぼこん。
立派な見た目からは想像できない、空っぽの箱を叩いたような音がした。
「……中身がねえ」
「中身?」
ボリスは壁の裏側へ回り、悠真が積んだ石の後ろを指した。
そこには空間が残っていた。
悠真は表面の大きな石だけを綺麗に並べ、裏側へ詰める石のことを完全に忘れていた。
「石はな、見えねえとこで小せえ石が支えてんだ。間詰めを舐めんな」
ボリスは足元の小石を一つ拾い、築石の隙間へ押し込んだ。
外から見ればほとんど目立たない。
それでも石の揺れは確かに減った。
見えないとこ、か。
悠真は壁を眺めた。
大きな石だけあれば壁になると思っていた。
実際には、その間に挟まる小さな石や、裏側へ詰められた石がなければ形を保てない。
ボリスはその横顔を一度見たあと、別の作業場所へ向かいながら低く呟いた。
「……効率か」
悠真は何も返さなかった。
作った壁をいったん崩し、今度は小さな石まで確かめながら積み直し始めた。
その途中だった。
上段から、澄んだ金属音が聞こえた。
石や槌がぶつかる重い音ではない。
もっと薄く、鋭い音だった。
顔を上げると、庭の上段に設けられた訓練場で、一人の女性が剣を振っていた。
淡い金色の長い髪を一つに結び、朝の光が差すたび、揺れる髪の表面へ細い金の筋が走る。踏み込みに迷いはなく、剣を振り抜くたびに切っ先が空気を切り、銀色の軌跡だけが一瞬残って消えていった。
周囲の音が少し遠く感じられた。
誰かが石を運ぶ掛け声も、槌の音も聞こえているはずなのに、不思議と意識へ入ってこない。
一度剣を止めた女性が、手の甲で首筋の汗を拭った。
その拍子に結びきれなかった一筋の髪が頬へ貼りついた。
——きれいだ。
考えてから、自分が何をしているのか気づいた。
見てはいけない人だ、と頭のどこかが言った。
同時に後頭部へ衝撃が来た。
「痛っ!」
振り向けば、ボリスが手を下ろしたところだった。
「目。合わせんなって言われたろ」
「合わせてません。……見てただけです」
「それを合わせてるって言うんだよ」
悠真は慌てて壁へ向き直った。
寿命が三年縮んだ。
それでも数秒後には、視線だけがまた上段へ行きそうになり、今度は自分で壁へ戻した。
*
昼になると、若い侍女が大きな盆を持って下段へやってきた。
湯気の立つスープとパンが載っている。
香草の匂いが風へ混じった瞬間、職人たちの動きが揃って止まった。
第四条。
においを出さないこと。
誰が最初に始めたのか分からない。
ボリスが口を閉じ、隣の男も呼吸を浅くし、気づけば全員が妙に真剣な顔で息を止めていた。
悠真もつられて呼吸を浅くする。
いや、この匂いを出しているのは俺たちじゃないだろう、と頭では思ったが、ヒルダの「出さないでください」という声を思い出すと、口にする勇気がなくなった。
侍女は、揃って息を止めている男たちを不思議そうに見ながら歩いてくる。
あと数歩というところで、その右足がわずかに浮いた古い敷石の端へ乗り、身体が傾くのと同時に腕から盆が滑り落ちた。
「あっ……」
いくつもの皿が宙へ浮き、白い縁が陽光を反射した直後、甲高い破砕音が庭いっぱいに響いた。
熱いスープが石畳へ広がり、その大半が、朝から何度も靴の裏を気にしていた男の昼食へ見事に降りかかる。
男は両手に持っていたパイを見下ろした。
表面からスープが滴っている。
一秒。
二秒。
「俺の昼飯ぃ!」
悲鳴が白い館の壁に反響した。
その直後、ちり、ちり、ちり、ちり、と鍵束の音が、朝とは比較にならない速さで近づいてきた。
男たちの顔から笑いが消える。
皿を落とした侍女は、割れた陶器の前で立ち尽くしている。指先が震え、頬からみるみる血の気が引いていった。
「——何事ですか」
ヒルダの声が落ちた。
ほんの少し前まで聞こえていた鳥の声まで遠のいたような静寂の中、誰もすぐには口を開けなかった。




