第6話後半 侯爵家の庭で、目を合わせてはいけない人を見た
最初に動いたのは、ヒルダではなかった。
石畳を踏む軽い足音が上段から近づき、淡い金色の髪が職人たちの視界を横切った。
朝、訓練場で剣を振っていた女だった。
まだ稽古着のままで、長い髪も一つに結んだままになっている。額には薄く汗が残り、急いで階段を下りてきたのか、呼吸もわずかに弾んでいた。
悠真は一瞬、朝の光景を思い出してしまい、すぐに視線を落とした。
目を合わせるな。
今度こそ、後頭部を叩かれる前に守る。
女は割れた皿へ目を向けなかった。
青ざめた侍女の前まで来ると、躊躇なく膝を折った。
「手、見せてください」
侍女が戸惑ったように自分の手を見る。
いつの間に切ったのか、右手の人差し指から細い血の筋が伸びていた。赤い雫が指先へ集まり、石畳へ落ちる寸前で震えている。
「で、ですが……お皿が……」
侍女の視線は床へ落ちていた。
割れた皿。
こぼしたスープ。
そして、完全に昼食としての役目を終えたパイ。
彼女が何を怖がっているのかは、悠真にも分かった。
けれど女はもう一度、静かに手を差し出した。
「手、見せてください」
同じ言葉だった。
責める響きはなかった。
だからなのか、侍女はおそるおそる傷ついた手を差し出した。
女は指先をそっと支え、傷の深さを確かめる。眉がわずかに寄ったが、出血がひどくないと分かると、表情から力が抜けた。
そこで初めて、後ろに立つヒルダを振り返る。
「何があったんですか」
「私が……」
侍女が声を震わせた。
「し、敷石が……」
視線の先には、一枚だけわずかに傾いた古い石がある。
女は立ち上がってそこまで歩くと、靴先ではなく、自分の足裏でそっと石を踏んだ。
かた、と小さく揺れた。
もう一度。
やはり動く。
女はその石を見下ろし、それから怯えた侍女へ顔を戻した。
「では、石のせいですね」
ほんの少し笑った。
侍女が瞬きをする。
ヒルダも何も言わない。
職人たちの間にも、しばらく声がなかった。
石のせい。
たったそれだけの言葉だった。
誰かが悪いと決めるより先に、何が起きたのかを見て、その原因を確かめた。それがあまりに自然だったので、悠真はむしろ言葉の意味を理解するのに少し時間がかかった。
女はそのまましゃがみ込む。
割れた皿へ手を伸ばした。
「お嬢様!!」
それまで冷静だったヒルダの声が、庭いっぱいに響いた。
職人たちの肩が一斉に跳ねる。
悠真まで反射的に背筋を伸ばした。
当の本人は、陶器の破片を一つ拾った姿勢のままヒルダを見上げている。
「危のうございます。お触りにならないでください」
「端を持てば大丈夫です」
「大丈夫かどうかを決める前に、手を離してくださいませ」
「でも、私が拾えば早く終わりますよ?」
「そういう問題ではございません」
女は手の中の破片とヒルダを交互に見た。
「……少しだけ」
「いけません」
残念そうだった。
叱られたからではない。
本気で片づけをしたかった人間の顔だった。
その様子を見ていた近くの使用人が、呆れたような、それでいて慣れているような声で囁く。
「またリディアお嬢様が……」
名前が、悠真の耳に残った。
リディア。
侯爵家の令嬢。
あの人が。
そう理解した瞬間、朝に感じた距離が形を持った気がした。
貴族どころか侯爵家の娘なら、植え込みの線一本どころではない。自分とは本当に住んでいる場所が違う人間だった。
けれど悠真が見ていたのは、身分ではなかった。
床に落ちた高価そうな皿ではなく、血の滲んだ指へ最初に伸びた手だった。
……皿より先に、手を見た。
胸の奥に、それだけが妙にはっきり残った。
リディアは結局ヒルダに破片を取り上げられ、怪我をした侍女も別の使用人に連れられていった。
緊張が解け始めたところで、先ほどから一言も発していなかった男が、おそるおそる両手を上げた。
そこにはスープを吸って重くなったパイが載っている。
「……石のせいか」
ボリスが真顔で頷いた。
「石のせいだな」
周囲の職人たちも深く頷いた。
本人だけが、どうにも納得しきれない顔でふやけた昼食を見下ろしていた。
*
午後になると、丘を渡る風が朝より強くなった。
植え込みの表面が波のように揺れ、木々の枝がざわざわと音を立てる。雲一つなかった空にも薄い筋雲が流れ始め、陽射しがときどき白く霞んだ。
作業は再開され、悠真も石積みに戻った。
午前中の失敗を繰り返さないよう、今度は表だけを整えるのではなく、その奥へ栗石を詰め、隙間ごとに間詰石を選んで差し込んでいく。
大きすぎれば入らない。
小さすぎれば支えにならない。
形の合う石を探し、向きを変え、奥へ噛ませる。
思っていたより手間のかかる作業だった。
しかも、小石を何個詰めても外からはほとんど見えない。
けれど試しに手で押すと、壁の感触が違った。
表面だけを並べたときにはどこか頼りなかった築石が、今は斜面そのものと一つになったように動かない。
ボリスの言葉を思い出す。
見えないところで、小さい石が支えている。
悠真は間詰石を一つ押し込み、掌についた砂を払った。
見えなくても、必要なものはあるらしい。
作業の合間、昼に侍女がつまずいた場所が目に入った。
傾いた敷石は、そのままだった。
皆が忙しく働いている間は触れなかったが、夕方になり、道具を片づける頃には周囲から人影が減っていた。
悠真は誰も見ていないことを確かめる。
視線を敷石へ向けた。
少し浮いている石が消え、次の瞬間にはわずかに位置を変えて収まった。
ほんの数センチだった。
念のため足で踏む。
動かない。
もう一度踏んでも、今度は何の音もしなかった。
「これでいいか」
誰に言うでもなく呟いて、その場を離れた。
別に褒められたいわけではない。
また誰かが転べば面倒だと思っただけだ。
そう自分には言い聞かせた。
*
陽が西へ傾き始めると、白い館の影が庭の中段まで長く伸びてきた。
空気も急に冷え始めている。
作業を終えた職人たちは道具をまとめ、肩を回したり、腰を叩いたりしながら門へ向かっていた。
ボリスも道具袋を担ぎ、悠真を振り返る。
「鐘の坊主、片づけとけ!」
声がでかい。
下段どころか、館の上の窓まで届いたのではないかと思うほどだった。
「分かりましたよ!」
悠真が返す頃には、ボリスはもう他の職人たちと一緒に坂を下り始めている。
置いていかれた道具を集め、縄を巻き、残った石屑を端へ寄せる。
作業を始めた頃には眩しかった太陽も、今は木々の枝の向こうへ沈みかけていた。黄金色の光が庭を横切り、浮いた砂埃の粒を細かく照らしている。
風はまだ強い。
ざあ、と頭上の枝が揺れた。
その直後、かすかな鳴き声が聞こえた。
悠真は手を止めた。
もう一度。
ぴい。
ぴい、ぴい。
鳥だ。
作業場の方ではない。
厨房庭へ続く東側の木々のあたりから聞こえる。
道具袋を肩にかけて近づくと、一本の庭木の根元に、枯れ草や細い枝で作られた小さな巣が落ちていた。
中では三羽の雛が、まだ羽毛の薄い身体を寄せ合っている。
首を伸ばし、黄色い嘴を大きく開けて鳴いていた。
頭上では親鳥らしい一羽が枝の周囲を飛び回っている。
落ち着きなく翼を打ち、悠真が近づくたびに鋭い声を上げた。
「俺が落としたんじゃないって」
言っても通じるわけがない。
午後からの風で落ちたのだろう。
悠真は庭木を見上げた。
二メートルどころではない。
巣があったらしい枝の股は、手を伸ばして届く高さではなかった。
木へ登ることも考えたが、枝は細く、下手に体重をかければ今度は枝ごと折りそうだった。
それに雛を手で持ち上げるのも少し怖い。
悠真は周囲を見る。
厨房口。
植え込み。
中段へ続く階段。
人影はない。
風の音と、雛の鳴き声だけだった。
「……まあ、これくらいなら」
枝の股へ目を向ける。
そこへ巣が戻る形を頭の中で思い描いた。
手を軽く上げる。
地面にあった巣が消えた。
次の瞬間、三羽の雛ごと枝の股へ収まっている。
鳴き声が、一瞬だけ止まった。
悠真は念のため位置を確認する。
傾いていない。
枝と枝の間へきちんと収まっている。
親鳥が旋回をやめた。
一度だけ悠真の頭上を低く飛び、それから巣の縁へ降り立つ。
雛たちが一斉に嘴を開いた。
さっきまで警戒するように鳴いていた親鳥が、今度は巣の中へ首を入れている。
悠真はそれを見届けてから、肩の道具袋を持ち直した。
「……もう落とすなよ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもよく分からなかった。
雛か。
親鳥か。
それとも風か。
返事はない。
悠真はそれ以上気にせず、門の方へ歩いていった。
夕陽に伸びた影が砂利道を横切り、足を進めるたび、しゃり、しゃり、と小さな音が遠ざかっていった。
◇
東翼の二階。
書斎から自室へ戻る途中だったリディアは、窓辺で足を止めていた。
たまたまだった。
廊下の窓が少し開いていて、午後から続いている強い風が薄いカーテンを揺らしていた。
閉めようと窓へ近づいたとき、庭木の下に人影が見えた。
朝、下段で働いていた黒髪の若い職人だった。
昼間、皿を落とした侍女の近くにもいた男。
リディアは最初、彼が何をしているのか分からなかった。
地面を見ていた。
その足元には巣があり、中では小さな雛が鳴いていた。
枝の上を親鳥が飛び回っている。
助けようとしているのだと気づいた。
けれど巣のあった場所は高い。
梯子もない。
男は木へ登ろうともしなかった。
ただ周囲を確認し、枝を見上げた。
片手を上げる。
次の瞬間だった。
地面から巣が消えた。
リディアの呼吸が止まる。
同じ巣が、枝の上にあった。
そこへ至る途中が存在しなかった。
跳ね上がったわけでもない。
風に運ばれたわけでもない。
光もない。
魔法陣もない。
詠唱もない。
魔力を練り上げたときに生じる揺らぎさえ、リディアには感じ取れなかった。
「今のは……何?」
声に出した途端、自分の声がひどく近く聞こえた。
彼女は窓枠へ手を置いたまま、庭を見つめる。
魔法には術式がある。
簡単な生活魔法であろうと、高度な攻撃魔法であろうと、現象を成立させるためには何らかの手順が必要になる。
詠唱。
魔法陣。
印。
あるいは、それらを短縮するために長い時間をかけて身体へ覚え込ませた術式。
形は違っても、何もなしに結果だけが生まれることはない。
少なくとも、リディアが学んできた魔法ではそうだった。
だが、今のものには何もなかった。
男が手を上げた。
それだけ。
地面の巣が、枝へ移った。
リディアは無意識に窓をもう少し開いた。
冷たい風が頬を撫で、ほどけかけた髪を揺らす。
下では親鳥が巣へ戻っていた。
黒髪の男はしばらくそれを見上げ、それから何かを小さく呟いた。
距離があって聞き取れない。
やがて道具袋を担ぎ、何事もなかったように歩き始める。
そこで、リディアの中に別の疑問が浮かんだ。
誰も見ていないところで、あの人は巣を戻した。
見せるためではない。
褒められるためでもない。
むしろ、周囲を確かめてからやった。
隠している。
なぜ?
そのとき、夕方の庭に響いた大声を思い出した。
『鐘の坊主、片づけとけ!』
リディアはゆっくり瞬きをした。
「……鐘の、坊主?」
変わった呼び名だった。
名前ではない。
彼がどこの誰なのかも分からない。
ただ、黒い髪の若い職人で、庭の下段にある擁壁を直していた。
そして、誰も見ていないと思った場所で、落ちた鳥の巣を戻した。
不可解な魔法で。
リディアは窓の外へ視線を戻した。
男の姿はすでに門へ続く道の向こうへ小さくなっていた。
呼べば、まだ届くかもしれない。
使用人へ命じれば、すぐに連れ戻すこともできるだろう。
けれどリディアは、口を開かなかった。
侯爵家の娘から突然呼び止められれば、相手は警戒する。
何をしたのか尋ねれば、身分の低い職人として答えようとするだろう。
それでは、たぶん意味がない。
あの不思議な力を隠しているのなら、理由がある。
今ここで問い詰めても、その理由まで話してくれるとは思えなかった。
「声をかければ、あの方はきっと、侯爵家の娘に向かって話す。本当のことは、話してくれない」
リディアは独り言のように呟いた。
ならば、もう少し見てみればいい。
何をする人なのか。
何を隠しているのか。
どういうときに、あの力を使うのか。
窓の外では、夕陽が白い館の壁を淡い橙色へ染めていた。
庭木の枝の上では三羽の雛が寄り添い、その傍らで親鳥が羽を畳んでいる。
昼間なら、きっと誰も気に留めなかった小さな巣だった。
けれどリディアには、その場所だけが妙に目に残った。
誰にも見られていない優しさを、ただ一人だけ見ていた人がいる。
*
その夜、リディア・アルヴェインは、人をこっそり見守るための計画を三つ立てた。
三つとも、植え込みに隠れる案だった。




