第7話前半 庭に精霊がいるらしい(たぶん俺)
六日目の朝、リディアは中段の植え込みに身を沈めた。
完璧に隠れた、と思った。
「お嬢様」と、後ろで侍女のポーラが囁いた。「光ってます」
「……何がですか?」
リディアが振り返ろうとすると、頬へ細い枝が触れ、夜露を含んだ葉がさらさらと擦れ合った。
丘の東から昇ったばかりの太陽はまだ低く、白い館の壁や芝生を淡い金色に染めている。庭へ残った朝露は光を細かく砕き、風が通るたび、草の先から先へ小さな波のような輝きが走っていた。
そして、その朝日の中でひときわ目立っているものがある。
植え込みから頭半分ほど突き出した、リディアの淡い金髪だった。
ポーラは主人の髪を見てから、東の空を見た。
「その……お髪が、かなり」
「髪?」
リディアは自分の頭へ手を触れたものの、なぜそれが問題なのか分からないらしく、困ったように首を傾げた。
昨夜、彼女が立てた計画は単純だった。
庭で働く黒髪の若い職人を、相手に気づかれないよう観察する。
そのためには身を隠す必要があり、庭で人が隠れられる場所といえば植え込みしか思いつかなかった。
少なくとも、本人の中では筋が通っている。
リディアは枝葉の隙間からそっと庭を見渡した。
下段では、昨日と同じ職人たちがすでに作業を始めている。朝日がまだ届かない擁壁の石肌は青みを帯び、男たちが石を動かすたび、湿った土の匂いと、ごろりという低い音が斜面を上がってきた。
そのとき、中段の道を一人の庭師が歩いてきた。
腰には剪定鋏。
片手には切った枝を入れる籠を持っている。
庭師は植え込みの前まで来たところで、ぴたりと足を止めた。
朝日に輝く金髪。
葉の間から覗いている青緑の瞳。
「…………」
しばらく見つめる。
何も言わない。
そして、ゆっくり顔を正面へ戻すと、何も見なかった人間の歩き方で通り過ぎていった。
リディアは満足そうに小さく頷いた。
うまく隠れられている。
次に、洗った布を抱えた二人の侍女がやって来た。
一人がこちらに気づく。
すぐに隣の侍女の袖を引いた。
二人で植え込みを見る。
目を丸くする。
やがて片方が口元を押さえ、肩を震わせながら足早に去っていった。
それでもリディアは疑わなかった。
誰も声をかけてこない。
ならば、まだ気づかれていないのだろう。
下段からボリスたちが上がってきたときも、状況はほとんど同じだった。
先頭の男が植え込みを見た瞬間、ぎょっと目を見開き、首が痛くなりそうな勢いで反対側へ顔を向けた。
その後ろの男も見る。
逸らす。
さらに後ろも、またその後ろも、同じように顔を背けていく。
最後には一列全員が、植え込みとは逆方向だけを見ながら歩いていた。
皆さん、今朝はお行儀がいいですね。
リディアは感心した。
少し離れた石畳では、ヒルダもこちらを見ていた。
侍女頭は一度だけ植え込みを確認すると、ゆっくり目を閉じた。
眉間へ二本の皺が寄る。
腰の鍵束を握り、痛みでも堪えているかのように長く息を吐いた。
「ヒルダはどうしたのでしょう」
「さ、さあ……」
背後にいるポーラの返事が妙に掠れていた。
リディアがさらに下段へ目を向けると、ようやく探していた黒髪が見つかった。
若い職人は擁壁の前にしゃがみ込み、大小いくつもの石から形の合うものを選んでは、築石の隙間へ押し込んでいる。
昨日、落ちた鳥の巣を戻した人。
誰も見ていないことを確かめたあと、地面の巣を一瞬で高い枝へ移した人。
詠唱もなかった。
魔法陣もなかった。
光さえ見えなかった。
それなのに、巣は確かに移動していた。
今日は、その正体をもう少しよく見たかった。
できれば、もっと近くから。
リディアは枝の間から少しだけ顔を前へ出す。
ところが、黒髪の職人だけは一度もこちらを見なかった。
他の職人たちは何かの拍子に植え込みを見ては、慌てたように顔を逸らしている。それなのに彼だけは、最初から壁と足元しか見ておらず、家族がいそうな方向へ顔を向けること自体を避けているようだった。
気づかれていない。完璧です。
リディアは心の中で頷いた。
ちょうどその頃、ボリスが黒髪の職人へ近づいていった。
声を抑えているつもりなのだろうが、朝の静かな庭では十分こちらまで届いてくる。
「……おい。植え込み」
悠真は壁へ向いたまま答えた。
「植え込みがどうかしました?」
ボリスが口を開く。
植え込みを見る。
朝日を受けて輝いている侯爵令嬢を見る。
その後ろで、もう止めることを諦めたような顔をしているポーラを見る。
さらに遠くでは、ヒルダが目を閉じたまま立っている。
ボリスはたっぷりと時間をかけてから、悠真へ視線を戻した。
「……いや。なんでもねえ」
「そうですか」
悠真は本当にそれだけで納得し、石へ向き直った。
リディアは首を傾げた。
植え込み……? 何のお話でしょう。
ポーラが背後で口を押さえている。
笑っているようにも見えたが、リディアには理由が分からなかった。
それからしばらくして、悠真は作業を中断し、木陰へ移動した。
午前とはいえ、重い石を運んでいれば汗もかく。額を袖で拭い、置いてあった水差しから木の杯へ水を注ぐと、立ったまま半分ほど飲んだ。
その頭上を、小鳥が勢いよく飛び抜けた。
ばさばさっ、と突然翼が鳴る。
悠真の肩が跳ねた。
指から杯が滑る。
「あっ」
リディアは息を止めた。
木の杯が水をこぼしながら地面へ落ちていく。
けれど、石畳へ当たる直前だった。
杯が消えた。
次の瞬間には、悠真の右手の中へ戻っていた。
杯の中では水面だけが激しく揺れ、数滴の水が縁を越えて指の間へ流れている。
悠真本人は手元を一度見た。
ほんの少し不思議そうな顔をしたものの、落とさずに済んだこと以上は気にしていないらしく、そのまま残った水を飲んでいる。
リディアの目が大きく開いた。
昨日と同じ。
いや、今回はずっと近かった。
詠唱はない。
魔法陣もない。
何かを描いた様子も、光が走った気配もない。
しかも、今の動きは意識して使ったようにさえ見えなかった。
考えるより早く、リディアの身体が前へ出た。
がさっ、と植え込み全体が大きく揺れる。
「ん?」
下段で悠真が顔を上げた。
まずい。
そう思った瞬間、ポーラの両手が後ろから伸びてきて、リディアの口を塞いだ。
「むぐっ」
「お、お静かに」
耳元で必死に囁かれ、リディアはようやく身体を引いた。
悠真は植え込みの方をしばらく気にしていたが、ボリスから作業を急かされると、それ以上確かめることなく再び壁へ向き直った。
ポーラの手が離れる。
リディアは小さく息を吐いた。
「もう少し近くで見た方がよさそうですね」
「まだやるんですか?」
「もちろんです」
リディアは当然のように植え込みを出た。
今度は石畳を横切り、中段に置かれた大理石の彫像の陰へ移動する。
成人男性ほどの高さがあり、横幅も十分ある。
これなら身体全体を隠せる。
今度こそ完璧だった。
ポーラが何かを言いたそうにしている。
「どうしました?」
「お嬢様、影が……」
「影?」
朝日は東から差している。
彫像の西側には人の形をした長い影が伸びており、その脇から、一本の長い髪束の影だけが明らかにはみ出していた。
風が吹くたび、地面の上でそれが左右へ揺れている。
リディアは影を見る。
自分の髪を触る。
それでもまだ少し考えていた。
遠くで、ヒルダの長いため息が聞こえた。
◇
同じ六日目の朝。
リディアが植え込みへ潜り込むより、少し前のことだった。
悠真は誰より早く侯爵家の庭へ来ていた。
この屋敷の仕事は普段の日雇いより条件がよかったが、だからといって金を好きに使えるほど余裕があるわけではない。次の仕事がすぐ見つかる保証もない以上、削れる出費は削っておいた方がいい。
そのため朝食は抜いた。
昼まで我慢すればいい。
そう思って門をくぐり、石材置き場へ向かったところで、普段は何もない場所に白い布が敷かれていることへ気づいた。
その上には、丸く焼かれた小さなパンが一つ載っている。
周囲には手のひらに収まるほどの小石が、妙に丁寧な円を描いて並べられていた。
「差し入れ?」
悠真は足を止め、周囲を見渡した。
職人たちはまだ来ていない。
遠くに庭師らしき姿はあるものの、こちらを見ている人はいなかった。
昨日も作業の途中、誰も見ていない隙に石をいくつか移動させた。
それを目撃した者はいないはずだが、使用人たちからすれば「さっきまで別の場所にあった石が、気づけば移動している」ということは何度か起きていた。
そんなことから庭で妙な噂が出始めているなど、当然ながら悠真は知らない。
職人への差し入れだと思って、パンを手に取った。
まだ柔らかい。
一口齧ると、小麦の香ばしさとほのかな塩気が口へ広がった。
宿で出される固いパンより、明らかにうまい。
この屋敷、差し入れ豪華すぎないか。
空腹だったこともあり、悠真はありがたく最後まで食べると、布だけ元の場所へ戻して仕事へ向かった。
少し離れた厨房口では、数人の使用人がその様子を見ていた。
一人が布の上を指す。
「……なくなってる」
「本当に?」
「見て。パンがない」
ざわり、と小さな声が広がった。
誰かが胸元で手を組む。
「召し上がった!」
その言葉が誰を指しているのか、悠真は知る由もなかった。
*
七日目の朝。
悠真は石材置き場へ近づいたところで、足を止めた。
昨日パンが置いてあった布の上に、今日はチーズがある。
その隣には小さなパイがあり、野の花まで添えられている。
さらに、端には子どもの描いたらしい一枚の絵が置かれていた。
悠真は絵を持ち上げた。
丸い顔。
大きな笑顔。
棒のように伸びた手足。
その人物が、自分の身体ほどもある大きな石を両腕で抱えている。
頭の周囲には、何本もの線まで描かれていた。
「太陽……ではないよな」
何を表しているのかは分からない。
ただ、描いた子どもが楽しんだことだけは伝わってくる。
悠真は絵を元の場所へ戻し、チーズを摘んだ。
少し硬いが、塩気がちょうどいい。
続いてパイも一口食べる。
これもうまかった。
朝飯を節約できたことを素直にありがたく思いながら、残りも食べる。
その頃、中段では、リディアが前日に続いて植え込みの中へ身を潜めていた。
今日は昨日の失敗を踏まえ、朝日の向きまで考えて頭を低くしている。
隣のポーラは前日より明らかに疲れた顔をしていたが、主人を説得することはもう諦めたらしい。
悠真はそんな二人の存在などまったく知らないまま、いつものように仕事を始めた。
午前中、石材の山から親指ほどもある黒い甲虫が這い出してきた。
つやのある背中へ朝日を反射させながら、石の上をゆっくり進んでいく。
悠真はしゃがんだ姿勢のまま目で追った。
甲虫は石から地面へ降り、そのまま中段の植え込みへ向かっていく。
別に害があるようにも見えない。
放っておこうとした、そのときだった。
「きゃっ!」
若い女性の声が、植え込みの中から上がった。
悠真の手が止まる。
甲虫も止まった。
葉が大きく揺れた。
すると枝葉の隙間から、白い手だけがすっと伸びてきた。
細い指が甲虫の背を左右から軽く挟み、そのまま持ち上げる。
悠真は瞬きも忘れて見ていた。
白い手は甲虫を近くの木の幹へ移し、そっと指を離した。虫が樹皮を登り始めるのを確認するように少し待ってから、何事もなかったように植え込みの中へ引っ込んでいく。
葉が閉じた。
静かになる。
そこにはもう誰もいない。
風だけが細い枝を揺らしている。
悠真はしばらくその場から動けなかった。
……植え込みから、手が。
昨日から、妙な気配がするとは思っていた。
ときどき葉が不自然に揺れる。
人の声らしきものも聞こえる。
そして今日は、とうとう手が出てきた。
この世界には魔法がある。
巨大な魔物だっている。
それなら、庭の植え込みに何かが住んでいたとしても、絶対にないとは言い切れない。
幽霊の類なら、かなり嫌だ。
悠真は植え込みから静かに顔を背け、身体ごと擁壁の方へ向き直った。
見なかったことにしよう。
その方がいい。
昼近く、悠真が間詰石を選んでいると、少し離れた場所で二人の庭師が話し始めた。
「今朝も供え物がなくなったらしいぞ」
「本当にいるのかねえ。庭の精霊ってやつ」
「この数日、誰も運んでないのに石の場所が変わってることがあるだろ。目ぇ離した隙に、積まれてたりよ」
悠真の指が止まった。
「料理場の子がさ、精霊様なら食べてくれるかもしれないって、昨日パンを置いたんだと」
「それが朝には消えてたもんだから大騒ぎだ。今日はみんなで供え物を増やしたらしい」
悠真はゆっくり顔を上げた。
石材置き場を見る。
今朝、自分がチーズとパイを食べた場所。
そこには、丸い笑顔の何かが大きな石を抱えている子どもの絵だけが残っていた。
背中に冷たい汗が流れた。
精霊って……俺か。




