第7話後半 庭に精霊がいるらしい(たぶん俺)
◇
植え込みの奥からその一部始終を見ていたリディアは、黒髪の若い職人が自分の食べたものの正体にようやく気づき、石材置き場の前で固まっている姿を見つめながら、両手でそっと口元を覆った。
朝、布の上に並べられたチーズとパイを見つけたときの彼には、警戒する様子などまるでなかった。誰かから職人たちへの差し入れだと疑いもせず、むしろ空腹を満たせたことを素直に喜んでいるように見えたのに、庭師たちの会話から事情を知った今は、子どもの絵と空になった布を何度も見比べ、どうすればいいのか本気で悩んでいる。
一昨日には、誰も見ていないところで落ちた鳥の巣を枝へ戻した。
昨日は、手から滑った杯を地面へ落ちる前に一瞬で取り戻した。
そして今日は、自分が精霊への供え物だとも知らず、差し入れだと思って食べてしまったらしい。
不可解な魔法を使う人なのに、その力を見られたことではなく、小さな子どもの食べ物を勝手に食べてしまったことの方で青ざめている。
そこまで考えたところで、とうとうリディアの肩が揺れた。
声を出してしまえば、今度こそ見つかる。
そう分かっているため必死に堪えているのだが、一度おかしくなってしまうと、困り切った彼の顔を見るだけで笑いが込み上げてきた。
……面白い方ですね。
「お嬢様?」
隣からポーラが小声で呼びかける。
リディアは返事をせず、指の隙間からもう一度下段を覗いた。
悠真はまだ供え物のあった場所を見つめている。
笑っているわけではない。
誰かに見つかったことを恐れているわけでもない。
本当に申し訳なさそうな顔をしていた。
昨日までリディアが知りたかったのは、あの不可解な現象の正体だった。
術式も詠唱もなく物が移動する理由。
どこまで届くのか。
何を条件としているのか。
どういう系統の魔法なのか。
けれど今は、それと同じくらい、あの人自身が気になっていた。
◇
その頃、庭を見下ろす上段の東屋では、侯爵夫人が扇を片手に茶を楽しんでいた。
白い柱の間から吹き込む午後の風は穏やかで、卓上に置かれた茶器から昇る細い湯気をゆっくり横へ流し、庭で咲く秋の花の匂いを時折混ぜていく。
向かいには息子が座っていたが、せっかく用意された茶よりも手元の書類の方が重要らしく、頁をめくる手をほとんど止めない。
夫人が何気なく中段へ目を向けた。
「あら。リディアが植え込みにいるわ」
息子は書類から目を上げた。
庭を見る。
確かに植え込みの中から淡い金色の頭が出ている。
「……いますね」
「何を見ているのかしら」
息子が妹の視線を辿る。
その先では、黒髪の若い職人が石材置き場の前で立ち尽くしていた。
「石工の見習いですね。黒髪の」
「まあ」
夫人の口元がゆるみ、扇がすっと持ち上がった。
それを横目で見た息子は、もう一度庭へ視線を戻す。
妹はどうやら植え込みに隠れているつもりらしい。
だが、近くを通る使用人はことごとく気づいている。庭師は見ないふりをして通り過ぎ、侍女たちは笑いを堪え、少し離れたところにいるヒルダは今日だけで何度目になるのか分からないため息をついている。
「政治的には最悪です」
息子が言った。
「政治の話は、していないわ」
夫人は楽しそうだった。
ちょうどそこへ夫が通りかかり、妻と息子が揃って同じ方向を見ていることに気づいて足を止めた。
視線を追う。
植え込み。
娘。
さらに、その先にいる黒髪の若い職人。
夫の眉間へ皺が寄った。
「……どこの誰だ」
「今それを、母上が調べる顔をなさっています」
「人聞きの悪い言い方をしないでちょうだい」
そう答えながらも、夫人は庭から目を離さない。
植え込みの中では、リディアがまた少し前へ身を乗り出していた。
「あの子、たぶん自分では気づいていないわね」
「何にです?」
夫人は扇の向こうで笑った。
「ふふ」
◇
八日目の夜明け、アルヴェイン侯爵家の庭には薄い霧が残っていた。
朝日はまだ丘の向こうから完全には顔を出しておらず、白い館も庭木も輪郭だけが淡く浮かび、芝には夜露がびっしりとついている。悠真が歩くたび、濡れた草が靴先へ触れ、冷たい雫がジーンズの裾へ細かく跳ねた。
いつもより早く来た理由は、朝飯を浮かせるためではなかった。
二日続けて精霊への供え物を食べてしまったことが、昨日からずっと胸へ引っかかっている。
知らなかったとはいえ、誰かが何かを願って置いたものを自分が食べたのは事実だった。
誰が置いているのかだけでも分かれば、何か返せるかもしれない。
そう考え、石材置き場から少し離れた場所で待っていると、霧の向こうから軽い足音が近づいてきた。
悠真は咄嗟に大きな石材の陰へ身体を隠した。
現れたのは小さな少女だった。
両手で丸いパンを抱え、その脇には一枚の紙を大事そうに挟んでいる。
昨日の絵を描いた子なのだろう。
少女は石材置き場まで来ると、いつもの布へパンを載せ、その横へ新しい絵を置いた。
前より線が増えていた。
丸い顔の精霊らしきものが花を持ち、その隣には小さな女の子が描かれている。
少女は布の前へしゃがみ込んだ。
周囲に誰もいないことを確かめる様子もない。
本当にそこに見えない誰かがいると思っているように、自然な声で話し始めた。
「せいれいさま。パン、きのうも食べてくれて、ありがとう」
石の陰で、悠真の胸がきゅっと縮んだ。
昨日食べたパンも、やはりこの子が置いたものだったらしい。
出ていこうかと思った。
本当は精霊なんていなくて、自分が勝手に食べただけだと謝うべきなのかもしれない。
けれど、悠真が立ち上がるより先に、少女が続けた。
「あのね。とうさん、きょねんの冬に、ねつで死んじゃったの。まほうでも、なおらなかったの」
悠真の身体から動きが消えた。
霧の奥で小鳥が一羽鳴いている。
遠くの厨房から薪を割る乾いた音が一度響き、それが消えると、朝の庭には少女の声と自分の呼吸しか残らなかった。
「せいれいさまは、死んだひとのところにも行ける?」
喉が詰まった。
この世界へ来て間もない頃、自分の力を試そうとした石のことを思い出す。
行き先も分からない場所へ移そうとして、ほんの一ミリも動かなかった石。
それと重なるように、別の声が蘇った。
『お前は、ちゃんと帰れよ』
ハンス。
帰れと言われた。
なのに、自分はいまだに日本がどこにあるのかも分からず、この世界で日当をもらいながら暮らしている。
そんな自分を精霊だと信じている少女が、死んだ父親へ言葉を届けてほしいと頼んでいる。
「とうさんに会ったら……ペトラは、げんきだよって、つたえてください」
初めて知った少女の名前が、静かな朝の庭へ落ちた。
ペトラ。
父親へ届けたい言葉は長くなかった。
元気だよ。
それだけだった。
だからこそ、胸に刺さった。
届けられない。俺には、どこにも。
視界が滲んだ。
悠真は声が出ないよう片手で口を覆い、冷たい石へ背中を預けた。
今出ていけば、精霊ではないことを伝えられる。
けれど、それでこの子の願いに応えられるわけではない。
できもしないことをできると言えば、もっと残酷になる。
何も言えなかった。
頬を伝った涙が顎から落ち、湿った土へ小さな丸い染みを作った。
しばらく待っても返事がないことを確認したペトラは、少しだけ肩を落とし、ゆっくり立ち上がった。
パンをもう一度見てから、背を向ける。
霧の中へ小さな身体が遠ざかっていく。
悠真は袖で目元を拭った。
何もできない。
死んだ人のところへ行けない。
言葉も届けられない。
それでも、このまま何も返さず帰らせるのは嫌だった。
周囲へ目を向ける。
少し離れた花壇に、朝露をまとった白い花が一輪咲いていた。
悠真は花を見る。
次に、供え物の皿へ視線を移す。
花が消えた。
次の瞬間、パンの横に白い花が現れた。
細い茎についた水滴が、昇り始めた朝日を受けて光る。
数歩進んでいたペトラが足を止めた。
振り返る。
皿の上の花を見る。
大きな目がさらに開いた。
「……へんじ、くれた」
その声は、泣き出しそうなのに笑っていた。
ペトラは皿へ駆け戻ることはせず、胸の前で小さな両手を握り、何度も何度も頷いた。
それから勢いよく身を翻す。
「かあさん!」
少女の声と軽い足音が朝霧の向こうへ消えていった。
悠真は石の陰へ座ったまま、しばらく立ち上がれなかった。
◇
上段の訓練場で朝稽古をしていたリディアは、いつの間にか剣を下ろしていた。
冷えた空気の中でも額には薄く汗が浮かび、呼吸をするたび、唇の前へ白い息がほどけていく。
それでも彼女の視線は下段から動かなかった。
最初から見ていた。
少女がパンを持ってきたこと。
布の前へしゃがみ、何かを話していたこと。
石の陰へ隠れていた黒髪の職人が、その声を聞きながら動かなくなったこと。
そして、彼が泣いたこと。
ここからでは少女の言葉までは届かなかった。
何を願ったのかも分からない。
それでも、悠真が片手で口を押さえ、長い間そこから動けなくなっていたのははっきり見えた。
やがて少女が立ち去ろうとすると、離れた花壇から白い花が消え、供え物の皿へ現れた。
少女はそれを見て、嬉しそうに走っていった。
昨日までなら、リディアはまず魔法について考えただろう。
どれほど離れた物を動かせるのか。
距離に制限はあるのか。
術式はどこに存在するのか。
魔力の流れをなぜ感じ取れないのか。
だが今、頭に浮かんだのは違う問いだった。
あの方は、なぜ、泣いていたんでしょう。
剣を握った手に、わずかに力が入った。
あの不可解な力を知りたいという気持ちは、まだある。
けれど、もうそれだけではなかった。
*
八日目の午後になると、朝の霧は跡形もなく消え、乾いた秋風が丘の下から吹き上がっていた。
リディアがテラスへ出たとき、庭木の葉がざわざわと大きく揺れ、その向こうを走る大通りから、激しい馬蹄の音が聞こえてきた。
一頭ではない。
複数の馬が、石畳を叩きながら同じ方向へ急いでいる。
欄干へ近づくと、騎士の一隊が北へ向かって駆けていくのが見えた。
誰一人として速度を落とさない。
隊列も崩さず、街路にいる人々を避けながら北門の方へ消えていく。
少し遅れて、遠くから角笛が聞こえた。
低く長い音だった。
丘まで届く頃には風に削られ、かすかに震える響きへ変わっている。
庭にいた使用人たちも仕事の手を止めた。
何人かが北を見た。
けれど、何が起きているのか分からないため、しばらくすると一人、また一人と仕事へ戻っていった。
リディアだけは、しばらく大通りの先を見ていた。
胸の奥へ小さな違和感が残った。
夕方になる頃には、騎士の姿も角笛の音も消えていた。
太陽が西へ傾き、庭を照らしていた橙色の光も次第に弱くなっていく。白い石は灰色へ戻り、芝生には庭木の長い影が重なり始めていた。
リディアはテラスに残った。
昼間から続く風が長い髪を揺らし、何度か頬へかかるのを手で払う。
何気なく北の空を見上げた。
山並みの向こうには、夕暮れの最後の明るさが残っている。
その中に、小さな影が見えた。
一つ。
少し離れて、もう一つ。
さらに、その後ろにもう一つ。
最初は鳥だと思った。
だが影は、風に流される鳥よりもずっとゆっくり、確実に輪郭を大きくしながら近づいてくる。
リディアは目を細めた。
北の空に、黒い点が三つ浮かんでいた。
鳥にしては、大きすぎた。




