第8話前半 今度は、本当に空から来た
九日目の朝、石材置き場に神棚ができていた。
余った小石を三段に積んだ、手のひらほどの神棚だった。
門をくぐって下段へ向かっていた悠真は、それを見つけたところで思わず足を止め、自分がまだ寝ぼけているのではないかと疑うように何度か瞬きをしたものの、目の前の小さな石造りの祭壇が消えることはなかった。
昨日の夕方に漂っていた不穏な気配が嘘のように、朝の庭は穏やかだった。夜の冷え込みで芝にはまだ薄く露が残り、東から差し込む朝日を受けた水滴が一本一本の草先で細かく輝き、白い館の屋根では数羽の小鳥が身を寄せ合って羽を整えている。乾いた秋風が庭木を撫でるたび、黄色くなった葉が枝から離れ、石畳の上を軽い音を立てながら転がっていった。
そんな静かな庭の一角で、昨日まで存在しなかったものだけが妙に堂々と鎮座している。
小石を几帳面に三段へ積み上げ、その中央には平たい石を立て、周囲へ野花を飾り、手前にはパンとチーズだけでなく赤いリボンまで供えられていた。
さらに、その脇には見覚えのある子どもの絵が置いてある。
丸い顔に大きな笑顔、棒のように伸びた手足を持つ何かが両手で白い花を抱え、その隣では小さな女の子が笑っている。八日目の朝、父親への言葉を届けてほしいと願ったペトラへ、悠真が返事の代わりとして供え物の皿へ移した花を描いたものなのだろう。
昨日までは、布の上へ食べ物が置かれているだけだったはずなのに、一晩経っただけで石が積まれ、花が飾られ、誰が見ても何かを祀るための形へ進化している。
「……神棚、できてる」
声に出してしまったことで、かえって現実味が増した。
進展が速い。
あまりにも速すぎる。
悠真がどうしたものかと神棚を眺めていると、厨房側から水桶を持った使用人が歩いてきた。
男は悠真の横を通り過ぎると、小さな神棚の前で自然に足を止め、持っていた桶を地面へ静かに置いてから両手を合わせ、まるで毎朝そうしているかのように深く頭を下げた。
しばらくその姿勢を保ったあと、何事もなかったように桶を持ち直して去っていく。
悠真が唖然としてその背中を見送っていると、今度は若い侍女が通りかかり、同じように足を止めて頭を下げ、その次に来た庭師などはわざわざ帽子まで取って礼をした。
「いやいやいや……」
額へ手を当てたくなる。
昨日までは、まだ子ども一人の可愛らしい思い込みとして済ませられたものが、いつの間にか屋敷の大人たちまで巻き込んだ立派な信仰になっている。
何より困るのは、その精霊とやらの正体がほぼ間違いなく自分だということだった。
知らないうちに石が移動しているのも、供え物が消えるのも、花が突然現れるのも、全部悠真がやったことである。
だからといって今ここで「精霊なんていません」と断言すれば、ではどうしてそこまで言い切れるのかと聞かれかねない。
結局、何もできず神棚の前で立ち尽くしているところへ、背後から聞き慣れた太い声が飛んできた。
「何やってんだ、鐘の坊主」
振り返れば、ボリスを先頭に職人たちが門から入ってくるところだった。
彼らも石材置き場の前にできた神棚へ気づくと、一人ずつ歩調を乱し、最後には全員が悠真の横へ並ぶようにして、小さな石の祭壇を黙って見下ろした。
腕を組んだボリスが、しばらく真剣な顔で眺めてから口を開く。
「……昨日より立派になってねえか」
「俺に聞かないでください」
「お前、朝早いだろ。誰が作ったか見なかったのか」
「来たときには、もうありましたよ」
嘘ではない。
ただし、これが作られる原因について誰より詳しいだけだった。
ボリスは顎を撫でながら供えられたパンとチーズを見つめ、何かを考えるように少し黙ったあと、突然ごく普通の調子で言った。
「……拝んどくか?」
「なんでそうなるんですか」
悠真が止めるより早く、後ろにいた一人の男が前へ出た。
これまで何度かパイに災難を受けてきた、あの男だった。
男は神棚の正面へ立つと、両手を合わせて目まで閉じ、冗談ではなく本気で深々と頭を下げた。
その様子を見たボリスが妙に納得したように頷く。
「オットーが拝むなら、俺も拝む」
「オットーって名前だったんですね」
「今そこか?」
ボリスまで神棚の前へ並ぶと、後ろにいた男たちも何となく流れに乗るように続き、あっという間に朝の庭へ、精霊へ頭を下げる職人たちの列ができあがった。
悠真だけが少し離れたところで固まっている。
「お前も来い」
「いや、俺は別に……」
「昨日から世話になってんだろ」
誰に、とは聞けなかった。
次の瞬間、ボリスの分厚い手が悠真の後頭部へ乗り、そのまま有無を言わせず押し下げる。
「ちょっ……」
目の前へ地面と小さな神棚が入り込んできた。
自分が動かした石を材料にして作られた、自分を祀るための祭壇。
その前で、本人が頭を下げている。
悠真は、自分に頭を下げた。
「皆さん、何をしているのですか」
背後から落ちた声に、職人たちの身体が一斉に固まった。
悠真も頭を下げたまま、誰が来たのかすぐに理解した。
ちり、と腰の鍵束が小さく鳴る。
恐る恐る顔を上げると、石畳の上にヒルダが立っていた。
神棚。
供え物。
それへ向かって拝む職人たち。
ヒルダはそれらを順番に見渡したあと、表情を変えることなく一言だけ告げた。
「迷信です」
それ以上は何も言わず、踵を返す。
「仕事へお戻りください」
鍵束を鳴らしながら館へ向かって歩き出したものの、数歩進んだところで、その音が一度だけ止まった。
ヒルダの横顔がほんの少し神棚の方へ向いたように見えたが、次の瞬間には再び何事もなかったように歩き出し、そのまま白い館の方へ消えていった。
ボリスは立ち上がると、すぐに仕事道具を肩へ担いだ。
「ほら、仕事すんぞ。精霊様も見てるかもしれねえからな」
「やめてください」
悠真は本気で頼んだ。
*
午前の作業が本格的に始まる頃には、空は雲一つない青へ変わっていた。
陽射しそのものは秋らしく柔らかいものの、石を持ち上げ、土を掘り、何度も立ったりしゃがんだりしている男たちの背中には少しずつ汗が滲み始め、下段には乾いた土の匂いと人の体温を含んだ空気が漂っている。
擁壁の修復は、初日に比べればかなり進んでいた。
悠真ももう、大きな築石を正しい場所へ置くことだけを仕事だとは思っていない。
手のひらほどの間詰石を一つ選び、築石と築石の隙間へ押し込んでから、身体を寄せて揺れを確かめると、ほんのわずかに動いた。
「そこ、もうちょい奥だ」
横からボリスの声が飛ぶ。
「これ以上ですか?」
「表だけ見んな。後ろが空いてる」
言われた通り一度石を抜き、角度を変えて奥へ押し込むと、今度は築石がほとんど動かなくなった。
初日なら、どうせ外から見えない場所なのだから適当でいいと思ったかもしれない。
今は、少しだけ分かる。
外から見える大きな石ほど、自分一つの力だけで立っているわけではなく、目立たない小さな石や、そのさらに裏側へ詰めた石に支えられている。
そんなことを考えながら次の間詰石へ手を伸ばした、そのときだった。
鐘が鳴った。
最初の一打を聞いた瞬間、悠真の手が途中で止まった。
普段聞こえてくる時刻を知らせる鐘とはまるで違い、高く鋭い音が耳の奥へ直接突き刺さり、その余韻が消えるより早く二打目、三打目、四打目と続いていく。
鐘はまったく止まる気配を見せず、見張り塔の方角から金属そのものを叩き壊そうとしているような連打が押し寄せ、広い庭の空気まで震わせ始めた。
作業をしていた者たちは、誰に言われるでもなく動きを止めた。
槌を持っていた職人も、水桶を運んでいた使用人も、洗濯物を抱えた侍女も、その場で顔を上げたまま固まり、風に揺れる木々と鳴り続ける鐘だけが、取り残されたように動いていた。
「なんだ、これ……」
悠真が漏らした声は、けたたましい鐘の音へすぐに飲み込まれた。
少し離れた石畳で、ヒルダが勢いよく振り返る。
朝まで神棚を「迷信です」と一言で片づけていた侍女頭の顔から、穏やかなものが一瞬ですべて消えていた。
「——警鐘です。皆さん、建物の中へ。子どもを先に」
大声ではなかった。
けれど、その一言で庭にいた全員が動いた。
侍女が厨房へ走り、庭師が近くにいた子どもの手を取り、別の使用人が館の大扉を大きく開ける。
ヒルダ自身は走ることなく、庭全体を見渡しながら、誰がまだ外に残っているのかを確認するように次々と指示を飛ばしていった。
その瞬間、庭へ差していた陽射しが不意に翳った。
雲が出たわけではない。
悠真が反射的に顔を上げると、巨大な影が太陽の前を横切っていた。
一拍遅れて頭上から落ちてきた鳴き声は、鳥の声などとはまるで似ておらず、薄い金属板を力任せに引き裂いたような甲高い音が、耳ではなく胸の奥まで震わせた。
丘の下で何かが崩れた。
顔を向けると、遠くの屋根が一つ、突然白い粉塵の中へ沈み、茶色い瓦が空へ弾け飛んだあと、風に乗って人々の悲鳴が丘まで届いてくる。
さらに、大通りの方から激しい蹄の音が近づいてきた。
一騎の馬が坂道を駆け上がり、口から白い泡を飛ばしながら庭の前を通過する。
その背にいる騎士も兜を被ったまま、喉が裂けそうな声で周囲へ叫んでいた。
「ワイバーンだ! 北から三十! 屋内へ!」
三十という数字が、すぐには頭の中で意味を持たなかった。
悠真は空を見上げた。
青空の中には、すでに黒い影がいくつも見えていた。
高いところを旋回しているものもいれば、建物の向こうへ急速に高度を下げていくものもあり、どれがどれなのか数えようという気にすらなれなかった。
「小屋だ! 全員、道具小屋に入れ!」
ボリスの怒鳴り声で、悠真の身体もようやく動き始めた。
職人たちが一斉に道具小屋へ向かって走り出す。
「オットー、行け!」
「お、おう!」
悠真も近くにいたオットーの背中を押して先へ行かせ、その後ろから狭い入口へ向かった。
普段なら重い身体を揺らしながら歩いている男たちが、今は互いの肩がぶつかることすら気にせず、土を蹴り上げながら必死に走っている。
悠真は最後尾につきながら、それでも何度か後ろを振り返った。
誰かが取り残されていないか。
動けずにいる人はいないか。
自分だって怖いはずなのに、そんなことを確認しているうち、握りしめた右手が小刻みに震えていることへ気づいた。
力を入れて拳を作っても、その震えは止まらない。
喉はひどく乾き、ついさっきまで石を運んで汗をかいていたはずなのに、背中だけは冷たい水でも流し込まれたように冷えていた。
怖いのは当然だった。
悠真の身体は普通の人間だ。
噛まれれば痛いし、爪で裂かれれば怪我をする。
死ぬのだって、もちろん嫌だった。
英雄になりたいと思ったこともなければ、こういう状況で格好よく危険へ飛び込めるような性格でもない。
「入れ!」
ボリスに肩を掴まれ、悠真は道具小屋の中へ押し込まれた。
扉が閉じられる。
昼間とは思えないほど暗い小屋の中へ、鍬や槌、縄や予備の工具と一緒に大勢の男たちが詰め込まれ、乾いた木材と土、鉄、それに汗の匂いが一気に濃くなった。
誰も喋らない。
聞こえるのは近くにいる男たちの荒い呼吸と、板壁の向こうで鳴り続ける警鐘だけだった。
やがて、その中へ遠くの悲鳴が混じった。
さらに少し遅れて、巨大な翼が空気を叩く低い音が近づいてくる。
悠真は壁際へ身体を寄せた。
板と板の間には指一本ほどの隙間があり、そこから庭の一部だけが見えている。
「見るな」
ボリスが低い声で言った。
悠真は返事をしなかった。
視線を外すことができなかった。
空から何かが落ちてくる。
最初は巨大な黒い布が風に煽られているようにしか見えなかったが、近づくにつれて輪郭がはっきりし、広げた翼と長い尾、前へ突き出した頭を持つ生き物だと分かった。
身体には何本もの矢が刺さっている。
片方の翼はうまく動かず、飛んでいるというより墜ちながら必死に姿勢を保っているように見えた。
それでも完全な落下ではなく、地面へ激突する直前まで無理やり飛ぼうとしていた。
ワイバーンは白い館の屋根をかすめ、そのまま厨房庭へ突っ込んだ。
腹の底へ響くような衝撃が地面を伝い、小屋の壁に掛けられていた金属製の道具が一斉に鳴った。
香草畑は巨体の下へ押し潰され、緑の葉と湿った土がまとめて空へ舞い上がる。
少し遅れて、強烈な匂いが板壁の隙間から小屋の中へ入り込んできた。
踏み潰された香草の青臭さ。
掘り返された湿った土。
そこへ、傷ついた獣の生臭い匂いが混じる。
馬小屋から甲高い嘶きが上がり、何頭もの馬が一斉に暴れ始め、蹄が床を激しく蹴る音が庭へ重なった。
地面へ半身を沈めていたワイバーンが、ゆっくり身体を起こす。
傷ついた片翼を引きずりながら長い首を左右へ振り、身体へ刺さった矢の周囲から流れる黒い血を石畳へ点々と落としていった。
厨房から逃げ遅れた使用人たちが悲鳴を上げる。
屋敷の衛兵が二人、槍を構えて走ってきた。
悠真は板壁の隙間へ顔を寄せたまま、無意識に息を止めていた。
ワイバーンが馬小屋へ頭を向ける。
怯えた馬の匂いに気づいたのか、次の瞬間には地面を強く蹴っていた。
巨体からは想像できない速さで柵へ突っ込み、太い木材をまとめてへし折りながら中へ入っていく。
一頭の馬が恐怖に駆られて後ろ脚を跳ね上げたものの、その直後にワイバーンの前肢が振り下ろされ、馬の悲鳴は途中から湿った音へ変わった。
小屋の中で誰かが息を呑んだ。
衛兵の一人が横から槍を突き出し、その穂先がワイバーンの肩へ刺さる。
獣は痛みに首を振るどころか、一瞬で相手の方へ顔を向け、長い顎を大きく開いた。
槍を引き戻すより早く、並んだ牙が衛兵の前腕へ食い込んだ。
鈍い音がして、握っていた槍が石畳へ落ちる。
男の悲鳴が庭いっぱいに響いた。
もう一人の衛兵が助けようと横から踏み込むと、ワイバーンは身体を捻りながら長い尾を振り抜き、その一撃をまともに受けた男は地面から浮き上がって数歩先まで飛ばされた。
小屋の中では、誰も声を出さなかった。
警鐘の連打。
馬の嘶き。
負傷した衛兵の呻き声。
鋭い爪が石畳を削る音。
それらすべてが薄い板壁一枚を隔てた向こう側から、逃げ場のない音として押し寄せてくる。
そのとき、上段から誰かが走り下りてきた。
朝の光を受けた淡い金色の長い髪が、背後へ大きく流れている。
いつもの稽古のときのように結んではいない。
片手に抜き身の剣を握り、階段を二段ずつ飛ばすような勢いで下りながら、倒れている衛兵とワイバーンの位置を一瞬で見極めている。
リディアだった。
ワイバーンが接近する気配へ気づき、傷ついた首を持ち上げる。
それでもリディアは足を緩めず、倒れている衛兵の前まで一気に距離を詰めた。
「伏せて!」
衛兵が反射的に身体を縮める。
同時に、リディアが踏み込んだ。




