第8話後半 今度は、本当に空から来た
同時に、リディアが踏み込んだ。
石畳を蹴った足元から細かな砂が弾け、結んでいない淡い金色の髪が背後へ大きく流れる。彼女は真正面から首を狙うのではなく、傷ついて動きの鈍くなった片翼の付け根へ身体を滑り込ませると、振り下ろした剣を鱗の継ぎ目へ正確に食い込ませた。
硬いものを断つ鈍い手応えとともに、翼を支えていた腱が切れる。
ワイバーンは喉の奥から金属を擦り合わせるような咆哮を上げ、痛みに任せて巨体を捻った。長い尾が地面すれすれを薙ぎ払い、折れた柵や散らばっていた木片をまとめて吹き飛ばしたが、リディアは大きく後ろへ逃げるのではなく、身体を深く沈めて頭上すれすれを通過させると、尾が振り切られるより早く獣の懐へ踏み込んだ。
道具小屋の隙間から見ていた悠真には、その動きがほとんど途切れて見えなかった。
ワイバーンが攻撃を終えてから次へ移るのではない。
相手が動き始めた時点で、もう次に立つべき場所を決めているようだった。
リディアの持つ剣へ淡い光がまとわりつく。
朝日を反射しただけではない。刃の輪郭そのものが白く浮き上がり、振るたびに薄い残光が空気の中へ線を残した。
ワイバーンが頭を下げ、大きく顎を開く。
並んだ牙の奥から生臭い息が吐き出された。
それでもリディアは退かなかった。
半歩だけ軸をずらして噛みつきを外し、そのまま一歩深く入り込むと、下から振り上げた剣を喉元へ突き込んだ。
刃が鱗の隙間へ沈む。
ワイバーンの咆哮が途中で潰れ、空気だけが喉の奥から漏れた。
リディアは剣を引き抜きながら身体を横へ抜き、倒れ込んでくる巨体の下から離れる。
次の瞬間、ワイバーンが石畳へ崩れ落ちた。
大きな衝撃が庭全体へ伝わり、道具小屋の壁に掛けられていた工具がかたかたと揺れる。
悠真は息をすることも忘れ、板の隙間からその姿を見つめていた。
訓練場で剣を振っていたときには、ただ綺麗だと思った。
同じ人間が今は、悠真なら近づくことさえためらう巨大な魔物の懐へ迷わず入り、必要な場所へ必要な一撃だけを入れて倒した。
派手に剣を振り回しているわけではない。
むしろ無駄がない分だけ、その正確さが怖かった。
だがリディアは、自分が倒したワイバーンを確認し続けることもなく、すぐに負傷した衛兵の方へ走った。
噛まれた腕を抱えて蹲っている男の横へ膝をつき、傷を一目見ると、腰に巻いていた帯を外して負傷箇所の上へきつく巻きつける。
衛兵が痛みに歯を食いしばった。
リディアは手を緩めない。
「治療師を!」
その声で、館の入口近くに立ち尽くしていた使用人が我に返り、弾かれたように屋内へ走っていった。
別の者が倒れているもう一人の衛兵へ向かおうとした、そのときだった。
頭上で、また翼が空気を打った。
今度は先ほどより近い。
悠真が空を見上げるより先に、庭へ大きな影が落ちた。
二体目のワイバーンが、白い館の屋根を越えて急降下してくる。
狙っている先には、厨房口へ逃げようとしていた侍女たちがいた。
悲鳴が上がる。
恐怖で足が止まり、数人が扉の手前で立ち尽くしていた。
リディアが立ち上がる。
距離がある。
剣だけでは間に合わない。
彼女は走りながら片手を前へ突き出した。
侍女たちの前で空気が揺らいだ。
何もないはずの場所へ透明な面が広がり、急降下してきたワイバーンの爪がそれをまともに叩く。
庭へ耳を塞ぎたくなるような衝撃音が響いた。
透明だった壁の表面へ細い光の亀裂が幾筋も走り、強い圧力を受けるたびに水面のように歪んでいく。
リディアの伸ばした腕まで、衝撃に合わせて大きく揺れた。
それでも障壁はすぐには崩れない。
侍女たちがようやく動き出し、互いの腕を引きながら厨房の中へ駆け込んでいく。
最後の一人が扉を越えたのを確認した瞬間、リディアが手を下ろした。
障壁が消える。
支えを失ったワイバーンの爪が空を切った。
リディアはその懐へ入っていた。
石畳を蹴り、低い位置から一気に身体を浮かせる。
狙ったのは首ではない。
片方の目だった。
剣先が眼球へ突き刺さり、黒い血が噴き出してリディアの頬と髪を濡らした。
ワイバーンが狂ったように首を振る。
翼が地面を叩き、石や土が周囲へ飛び散ったが、リディアは剣を手放さず、獣の動きへ逆らうのではなく、その勢いに合わせて身体の位置を変え続けた。
やがて動きが鈍くなる。
大きく持ち上がった頭が下がり、片翼が力を失って地面へ落ちる。
最後に長い尾が石畳を擦り、黒い血を引きずるような跡を残したあと、ワイバーンは動かなくなった。
警鐘はまだ鳴り続けている。
それなのに、庭にいる人間からは声一つ上がらなかった。
侍女も、衛兵も、小屋の中の職人たちも、ただ血のついた剣を下げて立っているリディアを見ている。
彼女は大きく息を吸い、時間をかけて吐いた。
肩が上下している。
頬から顎へ流れた黒い血に汗が混じり、一滴ずつ石畳へ落ちていた。
それでも表情を崩さず、屋敷の方へ向かって静かに告げる。
「……大丈夫です。皆さん、中へ」
その声に押されるように、まだ庭に残っていた使用人たちが建物へ動き始めた。
リディアは剣を握る右手を、そっと身体の後ろへ回した。
ほんの一瞬の仕草だった。
おそらく、少し離れた場所から見ている者には分からない。
けれど道具小屋の隙間から彼女を見ていた悠真には、その手が細かく震えているのが見えた。
朝、訓練場で剣を振っていたときには一度もぶれなかった手だった。
二体のワイバーンへ向かっていった最中にも、あれほど迷いなく動いていた手が、すべて終わった今になって震えている。
悠真の胸へ、剣技とは別の驚きが落ちた。
怖くなかったわけではない。
怖くても、あそこへ行ったのだ。
その事実が、巨大な魔物を二体倒したこと以上に強く残った。
次の瞬間、小屋の外から幼い声が聞こえた。
「せいれいさま……」
悠真の背筋が冷えた。
声の方向へ目を向ける。
神棚の前に、ペトラが立っていた。
警鐘が鳴った直後、子どもは先に屋内へ入れられたはずだった。
それなのに、どうやって抜け出してきたのか、少女は小さな神棚の前で両手を胸元へ組み、必死な顔で祈っている。
厨房口から女性の悲鳴が飛んだ。
「ペトラ!」
少女が振り返った。
「精霊様に、みんなを守ってってお願いするの!」
その言葉を聞いた瞬間、悠真の心臓が大きく鳴った。
同時に、神棚の周囲から光が消えた。
巨大な影が落ちている。
三体目だった。
前の二体より、一回り大きい。
太陽を背負うほどの高さから翼を畳み、ほとんど落下するような速度で庭へ向かってくる。
ペトラは気づいていない。
厨房口の女性が叫ぶ。
リディアが走った。
今度は倒したワイバーンも負傷した衛兵も見ず、ペトラへ向かって一直線に石畳を蹴る。
少女の身体を抱えて逃げるだけの時間はない。
リディアはペトラの前へ滑り込み、背中でかばうように立つと、両手で剣を構えて空を見上げた。
悠真にも分かった。
あれは止められない。
魔物そのものの重さだけではない。
高い空から落ちてくる勢いまで加わっている。
先ほどのように剣を当てても、障壁で受けても、衝撃ごと押し潰される。
リディア自身にも分かっているはずだった。
それでも、彼女は退かなかった。
背中に子どもがいるから。
悠真は、自分がいつ道具小屋の扉を開けたのか覚えていなかった。
気づいたときには外へ飛び出していた。
「鐘の坊主!」
背後でボリスが叫んでいる。
声は聞こえた。
けれど足を止めるという考えは浮かばなかった。
三体目のワイバーンが迫ってくる。
巨大な翼の膜が風を孕み、落下する身体が視界の中で急速に大きくなっていく。
リディアは動かない。
ペトラもその背中にいる。
飛ばせ。
頭に浮かんだのはそれだった。
けれど、どこへ。
適当な場所では駄目だ。
街のどこかへ飛ばせば、別の人間が襲われる。
近くの山へ飛ばしても、人がいないとは限らない。
空へ放り出すという考えが一瞬浮かび、すぐに消えた。
上はだめだ。
飛ぶ奴だ。戻ってくる。
下は、街だ。
悠真は走りながら、ワイバーンの向こうへ視線を飛ばした。
丘の上からなら、王都の外まで見える。
北には山々が連なり、そのさらに奥には白い雪をかぶった高い峰が青空の下へ浮かんでいた。
あいつらが来た方向。
ならば、戻せばいい。
少なくとも今ここからは遠ざけられる。
悠真は片手を上げた。
リディアの剣先の向こう。
ペトラへ届く寸前まで迫った巨体だけを見た。
失敗したらどうなる。
ほんの一瞬、考えた。
それでも手は下ろさなかった。
「——帰れ」
ワイバーンが消えた。
リディアの頭上、体一つ分ほどのところまで迫っていた巨大な身体が、前触れもなく空から消失した。
落下の衝撃は来なかった。
ただ、羽ばたきが作っていた風の名残だけが庭へ叩きつけられ、花壇の花びらや乾いた葉、それに神棚の前へ置かれていた紙やリボンを一斉に舞い上げた。
リディアの長い髪が大きく広がり、ペトラの服の裾も激しく揺れる。
そして、急に静かになった。
警鐘は鳴り続けているはずなのに、その瞬間だけは遠くへ押しやられたように感じられた。
リディアは剣を構えた姿勢のまま、しばらく空を見上げていた。
そこには何もいない。
青い空だけが広がっている。
ゆっくりと振り返る。
少し離れた場所に、悠真が立っていた。
片手を上げたまま、肩を大きく上下させている。
走ったせいだけではない。
顔色は悪く、上げた手の指先も震えていた。
二人の視線が合った。
悠真は、逃げなかった。
逃げることを忘れていた。
庭へ来た初日に言われた第一条も、目を合わせるなという決まりも、その瞬間には頭から完全に消えていた。
青緑の瞳が、自分をまっすぐ見ている。
リディアの目がわずかに見開かれた。
悠真が今考えられるのは、自分の力を真正面から見られたということだけだった。
どう誤魔化す。
何と説明する。
そもそも、あれほど巨大な魔物が目の前から消えたのに、何もなかったことにできるのか。
喉が動いたものの、言葉は出てこなかった。
そのとき、白い館の窓が開いた。
「……消えた」
震えた声が落ちてくる。
別の窓も開いた。
「精霊様だ」
悠真の顔が引きつった。
さらに別のところから、今度は泣き声の混じった声が響く。
「精霊様が守ってくださった!」
違う、と反射的に言いかけたが、声にはならなかった。
今さら何を言っても、状況が状況である。
神棚の前ではペトラが空と悠真を交互に見ており、リディアもこちらから目を離さない。
そのとき、遠くから低い鐘の音が聞こえた。
ごうん、と腹の底へ沈むような一音。
警鐘とはまるで違う。
間を置いて、もう一度鳴る。
悠真の身体が固まった。
ギルド区の方角。
聞いたことがある。
帰還の鐘だった。
街を守るために出ていき、帰ってこなかった者のために鳴る鐘。
一つ……二つ……。
悠真の唇が、無意識に数を刻んだ。
三つ目が鳴る。
四つ目が続く。
目の前では、ペトラもリディアも生きている。
間に合った。
自分の力で、あの一体だけは遠ざけることができた。
けれど王都全体を見れば、自分が守った場所などほんの一角に過ぎない。
丘の下で崩れた屋根を思い出した。
北から三十、と叫んでいた騎士の声を思い出す。
悠真がここから見ていた間にも、別の場所では同じようにワイバーンが降り、誰かが戦っていた。
五つ。
六つ。
鐘が増えるたび、胸の奥が冷えていく。
リディアは、悠真の表情が変わったことに気づいた。
理由は分からない。
なぜ彼が鐘の数を一つずつ追っているのかも知らない。
ただ、先ほどまで自分たちを救うために走っていた青年の顔から、鐘が鳴るたびに血の気が引いていくのだけは分かった。
七つ。
八つ。
九つ。
リディアは一度だけ背後を振り返った。
ペトラのもとへ使用人が駆け寄り、その肩を抱いている。
少女は無事だった。
それを確かめると、リディアは剣先をゆっくり下げ、悠真の方へ歩き始めた。
十。
十一。
十二。
悠真は気づかない。
自分へ近づいてくる靴音も、風に揺れる淡い金色の髪も、もう耳へ入っていなかった。
ただ鐘だけを聞いていた。
鐘は、まだ鳴っていた。
十三、十四——数えるのをやめられない悠真の前に、誰かが立った。
淡い金色の髪から、黒い血が一滴落ちた。
「……ありがとうございました」




