第9話前半 風のせいにしたら、令嬢が追いかけてくる
鐘が鳴り止んだのは、二十七を数えたあとだった。
最後の低い余韻が王都の空へ溶けていくまで、悠真はその場から動けなかった。
ほんの少し前、淡い金色の髪を黒い血で濡らしたリディアが目の前まで来て、「ありがとうございました」と告げた。けれど、その声を聞いたあとも帰還の鐘は止まらず、十五、十六と数が増えていくたび、悠真の意識は彼女ではなく、丘の向こうで起きているはずの出来事へ引き戻されていた。
二十七。
そこでようやく、静かになった。
警鐘もすでに止まり、あれほど激しく翼と悲鳴が飛び交っていた庭へ、秋風が枝葉を揺らす音だけが戻ってくる。
静かになった庭で、リディアはまず、背中にかばった子どもの前に膝をついた。
ペトラは神棚の脇に立ち尽くしたまま、声も出せずにいた。
精霊に皆を守ってもらうのだと外へ飛び出したときには、怖さよりも願いの方が強かったのだろう。けれど、目の前まで巨大なワイバーンが迫り、その巨体が突然消え、周囲の大人たちが慌ただしく負傷者を運び始めた今になって、身体の方が遅れて恐怖を理解したらしい。
小さな肩が細かく震えていた。
リディアは自分の手を一度見た。
剣を握っていた右手には黒い血が付着している。
そちらではなく、比較的汚れていない左手をペトラへ差し出した。
「怖かったですね。……泣いていいんですよ」
その一言で、ペトラの顔がくしゃりと歪んだ。
それまで必死に堪えていたものが切れたようにリディアへ飛びつき、胸元へ顔を埋める。
「こ、こわかった……っ」
泣き声は綺麗なものではなかった。
何度もしゃくり上げ、うまく息が吸えなくなって言葉を詰まらせ、ときどき母親を呼ぶ。
それでもリディアは何も言い足さず、小さな背中へ静かに腕を回し、ペトラ自身が泣き止むまで急かそうとはしなかった。
少し離れた場所で、悠真はその姿を見ていた。
自分の右手には、まだ感覚がおかしなところがある。
指を曲げると、ごく小さく震えた。
自分がやったのだ。
あれほど巨大なワイバーンを、目の前から消した。
その事実を実感するより先に、悠真の視線はペトラへ向かっていた。
泣いている。
声を上げて泣いている。
リディアも、その子を抱いたままそこにいる。
どちらも生きている。
胸の奥へ張りついていた何かが、少しずつ剥がれていった。
やがてペトラの母親らしい女性が駆け寄ってくると、何度も頭を下げながら娘を抱き取った。
リディアは少女の髪を最後に一度だけ撫で、それから立ち上がった。
そして、悠真の方へ歩いてくる。
その姿を見た瞬間、さっきまでとは別の意味で悠真の身体が硬くなった。
逃げたい。
だが今ここで逃げるのは、さすがに人として何かを間違えている気がする。
しかも庭へ来た初日に聞かされた第二条が、最悪のタイミングで頭へ蘇った。
家族から声をかけられたなら、必ず返事をすること。
数歩の距離が縮まる。
近くへ来ると、鉄と汗、それに踏み潰された花を混ぜたような匂いがした。
黒い血の跡が残る頬とは対照的に、青緑の瞳は静かだった。
「……ありがとうございました。あの子も、私も、あなたに助けられました」
今度の声は鐘に邪魔されなかった。
真正面から礼を言われ、悠真の頭が真っ白になる。
転移のことを聞かれる。
何をしたのか尋ねられる。
そう身構えていたはずなのに、出てきたのはただの感謝だった。
だからこそ、余計にどう返せばいいのか分からない。
「……風です」
リディアが瞬きをした。
「風、ですか」
「風です。すごい風が。北に。……失礼します!」
言い切ると同時に頭を下げ、そのまま踵を返した。
自分でも、ひどい言い訳だとは分かっている。
けれど、一度口から出してしまった以上、立ち止まって説明を増やせば増やすほど悪化する未来しか見えなかった。
悠真は石材置き場を抜け、道具小屋の裏まで一気に走った。
人の姿が見えなくなったところでようやく足を止め、乾いた木壁へ背中を預けた途端、今まで身体を支えていた力が抜ける。
そのままずるずると腰を落とした。
呼吸が荒いのは、走ったせいだけではなかった。
握った手を開く。
右手だけではなく、左手まで震えている。
悠真はしばらくその手を見つめたあと、目を閉じた。
暗くなった視界へ、血に濡れた別の手が浮かぶ。
『お前は、ちゃんと帰れよ』
ハンスの声だった。
続いて、夜明けの庭で聞いた幼い声が蘇る。
『とうさんに会ったら……ペトラは、げんきだよって、つたえてください』
あのとき、自分には何も届けられなかった。
今だって、できることなど大して増えていない。
それでも今日は、ペトラが自分の足で母親のところへ戻った。
リディアも生きて、自分の前まで歩いてきた。
……生きてる。
胸の奥から、熱いものが込み上げてきた。
……助けられた。今度は。
悠真は両手のひらで目を覆った。
我慢しようとしたのかどうか、自分でも分からない。
指の隙間から涙が滲み、頬を伝った。
声だけは出さなかった。
日の当たらない小屋の裏はひんやりとしていて、遠くからはすでに庭の片づけを始める音が聞こえている。
箒が石畳を擦る音。
折れた柵を運ぶ足音。
負傷者を呼ぶ声。
世界はもう次へ動き始めているのに、悠真だけがそこへ座り込んでいた。
どれほど経ったのか分からない。
不意に、自分の顔へ落ちていた光が遮られた。
誰かの影だった。
悠真は慌てて両手を下ろした。
ボリスが立っている。
腕を組み、何とも言えない表情でこちらを見下ろしていた。
「……泣いてんのか」
悠真は袖で目元を乱暴に拭った。
「……石が、目に入って」
ボリスは何も言わず、悠真の足元と小屋の壁、その周囲を一度見回した。
目へ入るような石粉など、どこにもない。
しばらく沈黙したあと、それでも追及はしなかった。
「……目、洗ってこい」
それだけ言って背を向ける。
隣へ座ることも、何があったのか尋ねることもなく、いつもの重い足取りで作業場へ戻っていった。
悠真はその背中を見送った。
「……はい」
今度は普通に返事ができた。
*
十日目の朝、神棚はさらに大きくなっていた。
悠真は石材置き場へ向かいながら、昨日より明らかに広がっている石の列を見つけ、嫌な予感とともに歩みを緩めた。
最初は三段だった小石の祭壇が左右へ拡張され、周囲には新しい花が増え、細い蝋燭まで何本か立てられている。
中央には使用人が書いたらしい木札も置かれていた。
そこへ何と書かれているのかを確かめる前に、近くを歩いていた二人の侍女の会話が耳へ入った。
「精霊様が大風を起こして、ワイバーンを追い払ってくださったんですって」
「厨房の子が見たそうよ。お嬢様のすぐ前まで来ていたのに、急に消えたって」
「前から石を動かしてくださっていたのも、きっとお屋敷を守ってくださっていたのね」
話が順調に育っている。
しかも、悪い方向へではなく、信仰として。
悠真は神棚からそっと視線を逸らした。
そこへ門の方から馬蹄の音が聞こえ、庭にいた使用人たちが一斉に顔を向けた。
昨日と同じ騎士の伝令が、門番と短く言葉を交わしている。
騎士は庭に集まった視線へ気づくと、聞こえるように声を張った。
「逃れた一体は、北へ去った。手負いである」
庭がざわめいた。
「やっぱり精霊様が……」
「北へお返しになったんだわ」
「殺さずに?」
「慈悲深い……」
悠真は何も言えなかった。
殺さなかったというより、どうすればいいのか分からず来た場所へ戻しただけなのだが、すでに訂正できる雰囲気ではない。
そのとき、ちり、と鍵束が鳴った。
ヒルダが使用人たちの前へ立つ。
「迷信です。お勤めに戻りなさい」
低くも強くもない声だったが、それだけで集まっていた者たちは蜘蛛の子を散らすように持ち場へ戻っていった。
悠真は少しだけ肩の力を抜いた。
少なくともヒルダは、この騒ぎに流されてはいないらしい。
*
午後になり、襲撃で荒れた庭の片づけがひとまず落ち着くと、ボリスたちはヒルダに呼ばれ、上段のテラスへ通された。
普段なら土と石粉にまみれて働いている男たちが白い石造りの階段を上がっていくにつれ、さっきまでの話し声が不自然なほど小さくなっていく。
磨き上げられた床には泥の跡一つなく、白い柱の間を抜ける秋風が薄いカーテンを静かに揺らし、銀の茶器から立つ湯気には庭とは違う淡い香りが混じっていた。
正面には侯爵がいる。
その傍らに奥様と若様が座り、少し離れた席にはリディアもいた。
悠真は彼女の姿を認めた途端、反射的に視線を下げた。
昨日は真正面から目を合わせ、その前ではワイバーンまで消しているのだから、いまさら第一条を厳守したところで何になるのかという話ではある。
それでも、普通に見るのは落ち着かなかった。
隣ではボリスが普段では考えられないほど背筋を伸ばし、オットーなどは帽子を両手で握り締めすぎて形を変えかけている。
侯爵は職人たちを順に見渡したあと、襲撃の際、道具小屋へ避難する途中で使用人を一緒にかくまったことについて礼を述べた。
悠真はあのとき周囲を見るだけで精一杯だったので、ボリスたちが何人かを小屋へ連れ込んでいたことまでは知らなかった。
「い、いや……そりゃ、近くにいたんで……」
いつもなら庭の端まで響くボリスの声が、今日は妙に小さい。
丁寧に話そうとしているせいで、かえって普段よりぎこちなかった。
奥様が扇の陰で小さく笑った。
そこで侯爵の視線が悠真へ向いた。
「……娘を助けてくれたそうだな」
背中が固まった。
来る。
嫌な予感を覚えた直後、侯爵が続けた。
「どうやって」
やはり、その質問だった。
何と答えるべきか。
転移だと言って通じるのか。
説明したところで、ではどういう魔法なのかと聞かれても自分にも分からない。
悠真が答えを探していると、その前にリディアの声が入った。
「……それは、ご本人にお聞きください」
侯爵が娘を見る。
悠真も思わず顔を上げた。
リディアはそれ以上何も付け足さず、静かにこちらを見ていた。
その瞬間、悠真はようやく気づいた。
彼女は見ている。
自分が片手を上げ、その直後にワイバーンが消えたところを真正面から見ていた。
それなのに、父親へは何も話していない。
何を見たのかも、悠真が何をしたのかも、勝手に説明してはいなかった。
秘密にしてほしいと頼んだことなどない。
まともに話したことすらほとんどない。
それでも彼女は、自分の知っていることを自分のものとして口にしなかった。
理由は分からない。
ただ、それだけで胸の中に張っていた糸が少し緩んだ。
もっとも、侯爵の質問自体が消えたわけではない。
視線が再びこちらへ戻ってくる。
悠真は数秒だけ悩み、結局、前日と同じ言葉を選んだ。
「……風です」
テラスへ沈黙が落ちた。
まるで狙ったかのように本物の風が白い柱の間を抜け、薄いカーテンをふわりと膨らませる。
「風か」
侯爵が言った。
「風ですね」
若様も続いた。
奥様は扇を持ち上げ、口元を隠した。
肩がわずかに揺れている。
誰も信じていない。
悠真にも、それくらいは分かった。
それでも追及されなかっただけで十分だった。
やがて家令が進み出て、両手で持っていた盆を悠真の前へ差し出した。
そこに載っているものを見た瞬間、悠真は目を見開いた。
金貨だった。
この世界の貨幣価値をすべて把握したわけではない。
それでも、普段は銅貨何枚という単位で飯や宿を考えている自分が、気軽に扱える金額ではないことくらいは分かる。
「受け取れ。働きへの礼だ」
侯爵に促されたものの、悠真はすぐに手を伸ばせなかった。
金貨を見る。
それから自分の土埃の染みついた服を見る。
鉄工区の安宿や市場で、こんなものを突然差し出す自分を想像した。
どう考えても面倒なことになる。
「こ、こんなの鉄工区で出したら、盗んだと思われます」
隣でボリスが咳き込んだ。
言い方を間違えた気がしたが、いまさら引っ込められない。
悠真は少し考えてから、現実的に使える方を口にした。
「……今日の日当を、倍にしていただけたら」
しばらく、侯爵は何も言わなかった。
怒らせたのかもしれない、と胃のあたりが重くなり始めた頃、その表情がほんのわずかに緩む。
「……面白い男だ」
家令が金貨を盆から下げ、代わりに銀貨を一枚置いた。
悠真は今度こそ頭を下げ、それを受け取った。
「謙虚ではなく、合理的ですね」
若様が静かに評すると、奥様が楽しそうに笑った。
「ふふ」
つられて顔を上げた悠真は、リディアも笑っていることに気づいた。
皿を割った侍女へ向けた穏やかな笑みとも違い、何かを我慢している様子もない。
本当におかしくて笑っている顔だった。
悠真はすぐに目を逸らした。
下がってよいと言われると、ボリスたちより半歩早くその場を離れた。




