第9話後半 風のせいにしたら、令嬢が追いかけてくる
下がってよいと言われると、悠真はボリスたちより半歩早くその場を離れ、白い石造りの階段を下りながら、ようやく胸の奥に溜め込んでいた息を吐いた。
懐には銀貨が一枚増えている。
もっと大きな褒賞を断ったことについて後悔がないわけではなかったが、鉄工区の市場や安宿で金貨を取り出すたびに事情を説明する未来を考えれば、これくらいの方が自分には合っている。
それよりも、頭から離れないことがあった。
リディアは、父親へ何も話さなかった。
昨日、ワイバーンが消える瞬間を真正面から見ていたにもかかわらず、それが何だったのかを説明することも、悠真が何をしたのかを代わりに答えることもしなかった。
秘密にしてほしいと頼んだ覚えはない。
そもそも、まともな会話すらほとんどしていない。
それでも彼女は、自分が見たものを勝手に他人へ渡さなかった。
なぜそうしたのか、悠真には分からなかった。
分からないからこそ、妙に胸へ残った。
*
十日目の夕方、作業を終えた職人たちが門へ向かい始める頃には、昼間の陽気が嘘のように気温が下がっていた。
丘の上を抜ける風は冷たく、庭木の枝を揺らすたびに乾いた葉を何枚も落としていく。石畳の上には橙色の夕陽が長く差し込み、修復途中の擁壁にも細長い影が重なっていた。
悠真は最後に道具の数を確認し、肩へ袋を掛けようとしたところで、石材置き場の方から小さく鍵の触れ合う音を聞いた。
反射的にそちらを見る。
神棚の前に、ヒルダが一人で立っていた。
朝には使用人たちへ「迷信です」と言い切り、祈っていた者を全員仕事へ戻した本人である。
悠真は何となく声をかけることができず、道具小屋の陰から様子を見た。
ヒルダは周囲に人がいないことを確かめるように一度だけ庭を見渡すと、持っていた小さな包みを開いた。
中から出てきたのは、焼き色のついた菓子だった。
神棚の前へ丁寧に置く。
それから腰を折り、ごく小さく頭を下げた。
「……当家を、お守りくださって」
風で木の葉が擦れる音がなければ聞き逃していたかもしれないほど、小さな声だった。
悠真は道具小屋の陰で固まった。
数秒後、何事もなかったように背筋を伸ばしたヒルダが歩き去り、鍵束の音も館の方へ遠ざかっていく。
残された焼き菓子だけが、夕暮れの神棚に鎮座していた。
悠真はしばらくそれを見つめたあと、近づく。
パンなら食べた。
チーズも食べた。
パイも食べた。
それらは事情を知らなかった頃のことである。
しかし今は違う。
これが誰から誰へ向けられたものなのかを、はっきり知っている。
食べづらい。
手を伸ばしかけたところで止めた。
今日は無理だった。
悠真は菓子をそのまま残し、冷たい風の吹く坂を鉄工区へ下っていった。
*
十一日目の朝。
いつものように庭へ入った悠真は、神棚の前を通りかかったところで、昨日よりさらに重い罪悪感を覚えることになった。
パンは消えている。
小さく切られていた果物もない。
チーズも鳥につつかれたらしく、包んであった葉だけが残っていた。
その周囲には、鳥の細い足跡と羽毛がいくつか散らばっている。
ところが、ヒルダの焼き菓子だけは昨日とまったく同じ場所に残っていた。
鳥にも選り好みがあるらしい。
嫌な予感がした。
こういうときに限って、背後から聞き慣れた金属音が近づいてくる。
ちり、ちり、と鍵束が揺れる。
悠真は逃げることもできず、その場で振り返った。
ヒルダは神棚の前へ来ると、消えた供え物を順番に確認し、最後に自分の置いた焼き菓子へ視線を落とした。
何も言わない。
いつもと同じ無表情だった。
それなのに、沈黙だけが妙に長く感じられた。
「……精霊様は、わたくしのものは召し上がらないのですね」
その一言が、悠真の胸へ思った以上に深く刺さった。
ヒルダはそれ以上何も言わず、神棚へ背を向ける。
鍵束の音が遠ざかっていくのを聞きながら、悠真は残された焼き菓子を見た。
朝は耐えた。
午前中も何とか耐えた。
けれど作業の合間に神棚が視界へ入るたび、昨夜の小さな一礼と、今朝の「召し上がらないのですね」が頭へ蘇る。
昼になる頃には、まるで自分が誰かの善意だけをわざと無視しているような気分になっていた。
悠真は周囲を確認した。
ボリスたちは少し離れた場所で昼食を広げており、使用人の姿もない。
神棚へ近づく。
「……いただきます」
誰へ言っているのか分からないまま菓子を持ち上げ、一口齧った。
一晩置かれていたせいで表面は少し硬くなっていたものの、中にはまだ香ばしい甘みが残っている。
普通にうまい。
そう思って残りも口へ入れた、その瞬間だった。
ちり、と背後で鍵束が鳴り、続くはずの音が不自然に止まった。
悠真の顎も止まった。
嫌な予感しかしない。
頬に菓子を入れたまま、ゆっくり振り返る。
少し離れた石畳にヒルダが立っていた。
二人の目が合う。
悠真は口の中に菓子があるため、言い訳すらできない。
ヒルダも何も言わず、悠真の手元と空になった神棚を一度ずつ見た。
そのまま急ぐように背を向ける。
普段より少しだけ速い足取りだった。
一瞬だけ見えた横顔で、口の端がほんのわずかに上がっていた。
悠真は咀嚼することも忘れ、その背中を見送った。
*
その十一日目の午後から、別の問題が始まった。
リディアが明らかに悠真へ話しかけようとするようになったのである。
最初は、水だった。
擁壁の前で作業を続けていた悠真が一度腰を伸ばすと、上段からリディアが水差しと杯を手にして降りてくるのが見えた。
侍女に持たせているのではない。
本人が運んでいる。
しかも視線はこちらへ向いており、近くにいるほかの職人ではなく、どう考えても悠真のところへ来ようとしていた。
ワイバーンを飛ばしたことについて聞かれるのかもしれない。
父親には話さなかったが、自分では確認したいのかもしれない。
あるいは、ただ礼を言いたいだけという可能性だってある。
頭ではいくらでも考えられた。
ところが、実際に彼女が自分の方へ歩いてくる姿を見ると、考えたことが全部飛んだ。
「すみません、少し……」
「トイレに!」
口から出た言葉を、自分で止める暇もなかった。
悠真は手にしていた道具を置き、そのまま走り出した。
背後で誰かが驚いた気配がしたが、振り返れない。
数十歩走ってから、ようやく自分がどんな逃げ方をしたのか理解した。
最低である。
それでも戻る勇気はなかった。
*
十二日目の昼には、状況はさらに悪化していた。
昼休みになり、パンを持って石材置き場へ向かった悠真は、そこにリディアがいるのを遠目で確認した瞬間、何も考えず進路を変えた。
道具小屋の裏へ回り、壁へ手を掛ける。
少し出っ張った板へ足を置き、屋根へよじ登った。
途中で一度靴が滑り、危うく昼飯を落としかけた。
自分でも、令嬢と話したくないというだけで、なぜ小屋の屋根に登ってまで昼食を取らなければならないのか分からない。
けれど、一度登ってしまえば下からはほとんど見えない。
屋根の傾斜へ身体を低くし、音を立てないようパンを齧っていると、下からリディアの声が聞こえてきた。
「先ほどまで、こちらにいらした黒髪の方は……」
尋ねられたボリスは作業場を見回し、石材置き場から道具小屋の前まで順番に視線を動かした。
「……さっきまで、そこに」
屋根の上で悠真は息を殺した。
罪悪感は確実に増えている。
それでも降りる勇気は出なかった。
午後になると、ついに屋根まで使えなくなった。
移動するたびにリディアと鉢合わせしそうになり、悠真は最後の逃げ場として、中段にある植え込みの中へ身を滑り込ませた。
入ってみると外から見た以上に枝が密集しており、頬へ葉が当たり、袖には細い枝が引っかかるため、膝を曲げて身体を縮めなければ完全には隠れない。
どうして自分は侯爵家の庭で植え込みへ潜伏しているのだろう。
考え始めたら負ける気がした。
石畳から靴音が近づいてくる。
悠真は葉の隙間から外を覗いた。
リディアが歩いてくる。
思わず息を止めた。
数歩。
さらに数歩。
すぐ近くまで来る。
悠真は身体を小さくし、枝が揺れないよう気をつけた。
リディアは一度も植え込みを見なかった。
何かを探すように周囲へ視線を巡らせながら、そのまま前を通り過ぎていく。
悠真は胸の奥で安堵した。
助かった。
そう思った直後、真後ろから静かな声が落ちた。
「何をしているのですか」
悠真の肩が大きく跳ねた。
振り向くと、植え込みの反対側にヒルダが立っていた。
高い襟の上から、いつもの無表情でこちらを見下ろしている。
悠真は何か言おうとして口を開いたものの、植え込みの中へ身を潜めている状況をどう説明しても怪しくなることに気づき、結局まともな言葉が出てこなかった。
「いや、その……」
ヒルダは言い訳を待たなかった。
「お声がけには、必ずお返事を。それが当家の規則です」
初日に教えられた第二条だった。
これまで逃げる理由として都合よく利用してきた屋敷の規則が、とうとう逆向きに悠真を追い詰めてきた。
「……はい」
植え込みの中で、悠真は肩を落とした。
◇
その夜、リディアは自室の窓辺に座っていた。
机の上には読みかけの本が開かれているものの、頁はしばらく前から一度も動いていない。
昼間の暖かさが消えた窓硝子の向こうでは、風に揺れる庭木の影が光石灯の淡い明かりを横切り、誰もいない下段の庭が青白く浮かび上がっていた。
背後では、ポーラが静かに髪を整えている。
リディアは窓の外へ視線を向けたまま、ずっと胸の中に残っていた疑問を口にした。
「ポーラ。私、あの方に何か失礼なことをしたのでしょうか」
櫛を動かしていた手が止まった。
「はい?」
「話しかけると、逃げてしまわれるんです。……嫌われているのでしょうか」
ポーラはしばらく主人の横顔を見つめた。
やがて、何かに気づいたようにほんの少し目を見開く。
「お嬢様、それ、嫌われてるんじゃなくて——」
リディアが振り返った。
「?」
その顔を見たポーラは、言いかけた続きを飲み込んだ。
少しだけ口元を緩める。
「……いえ。何でもございません」
「そうですか?」
納得できないまま、リディアは再び窓へ視線を戻した。
水を持っていけば走り去り、昼に待っていればいつの間にか消え、今日は庭を探しても見つからなかった。
あれほど露骨に避けられれば、普通なら自分が何かしたのではないかと思う。
侯爵家の娘が話しかければ、困らせるだけなのかもしれない。
身分が違う。
職人たちが父や兄の前で急に言葉を選ぶ姿を見れば、それくらいは分かる。
自分から近づくことで相手を緊張させているのなら、無理に話しかけるべきではないのかもしれない。
けれど、聞きたいことは残っている。
不可解な魔法のことだけではなかった。
ワイバーンが消えたあと、帰還の鐘が鳴るたび、悠真は一つずつ数えていた。
数が増えるほど顔から血の気が引き、まるで遠くで死んだ知らない誰かのことまで自分の責任のように受け止めているように見えた。
なぜ、あんな顔をしたのだろう。
そして、もう一つ。
「鐘の坊主……」
以前、ボリスがそう呼んでいた。
変わった呼び名だった。
なぜ鐘なのか。
何があって、そう呼ばれるようになったのか。
窓の向こうの庭には、当然ながら黒髪の職人の姿はない。
知りたいことばかり増えているのに、本人へ近づけば逃げてしまう。
リディアは小さく息を吐き、閉じたままだった本へようやく手を伸ばした。
◇
十二日目の夕方。
悠真は擁壁の前へしゃがみ、使い終わった道具についた土を布で拭っていた。
斜めから差す夕陽は石の凹凸へ長い影を作り、作業を始めた頃には大きく崩れていた壁も、今ではほとんど完成した形へ戻っている。表へ見える築石は同じ角度でわずかに寝かされ、その隙間には間詰石がしっかりと噛み合い、あとは天端を整えれば終わるところまで来ていた。
庭を渡る風が草の穂を揺らし、黄色く色づいた葉を一枚だけ枝から剥がして、悠真の前を転がしていく。
ボリスは腰へ手を当てながら立ち上がり、端から端まで擁壁を眺めた。
「明日で終いだ」
悠真の手が止まった。
あと一日。
本来なら、安心するところだった。
令嬢から逃げ回る必要もなくなる。
転移のことを聞かれるのではないかと身構える必要もない。
昼飯を道具小屋の屋根で食べることも、植え込みの中へ隠れてヒルダに捕まることもなくなる。
仕事が終われば鉄工区へ戻り、また日雇いの仕事を探せばいい。
これまでと同じ生活へ戻るだけだった。
それでいい。
そう思いながら、悠真は何気なく上段へ続く階段を見た。
誰もいない。
少し前まで、あの淡い金色の髪がいつ現れるかと警戒していた場所だった。
今は、その姿が見えないことにほんの少しだけ物足りなさを感じている自分がいた。
気づいた途端、悠真は視線を擁壁へ戻した。
明日で終いだ、とボリスは言った。
明日で、もう、あの人を見ることもなくなる。——それでいい、と悠真は思った。思おうとした。




