第10話前半 さよならの代わりに、石の鳥を
最終日の朝、ヒルダはもう一度、全員の爪を検めた。
誰の爪も、白かった。
丘の東から昇り始めた太陽はまだ低く、アルヴェイン侯爵家の白い外壁を淡い蜂蜜色に染めながら、夜露の残る芝へ長い影を落としていた。朝の風が庭を渡るたび、草先に宿った無数の水滴が細かく光り、その向こうでは黄色く色づき始めた木の葉が静かに揺れている。
そんな穏やかな朝の庭で、職人たちは門の内側へ一列に並んでいた。
初日に同じ場所へ立たされたときとは、ずいぶん様子が違う。
借り物のシャツはきちんと洗われ、靴底には泥もほとんど残っておらず、全員が両手を身体の前へ差し出している。誰一人として笑っておらず、まるで仕事の最終検査ではなく、何か重大な判定でも待っているような緊張が漂っていた。
ヒルダが端から順番に爪を確認していく。
一人目の手を取り、指先を見ると、何も言わず次へ移る。
二人目。
三人目。
腰に下げた鍵束が、歩調に合わせて小さく鳴る。
やがてボリスの前で足を止めた。
最初の日には、爪の奥へ黒い土を詰め込んだまま堂々と手を出し、無言でブラシを渡された男である。
そのボリスが今日は胸を張り、太い指を大きく開いて両手を差し出していた。
ヒルダは一本ずつ確認し、最後に親指の爪を少し長く見つめた。
周囲の職人たちが息を止める。
ボリスの喉が、ごくりと動いた。
やがてヒルダは手を離した。
「……よろしい」
一瞬、誰も反応できなかった。
次の瞬間、庭へ歓声が弾けた。
「っしゃあ!」
オットーが両拳を上げ、その隣では別の男が仲間の肩を叩き、後ろにいた二人などは本当に戦いでも終えたかのように握手をしている。
ボリスはしばらく放心していたが、やがて鼻の下を片手で擦った。
「……爪で褒められたの、四十六年で初めてだ」
「泣くところじゃねえだろ」
オットーが笑いながら背中を叩く。
「泣いてねえ。朝だから鼻が出ただけだ」
「さっきまで出てなかったぞ」
悠真も思わず笑った。
最初の日には、ここで呼吸をしていいのかと本気で心配していた男たちが、最後の日には爪を褒められただけでこれほど喜んでいる。
慣れというものは恐ろしい。
ヒルダは浮かれる職人たちへ何も言わず、いつもの無表情で背を向けた。
腰の鍵束が、一度だけ鳴った。
拍手の代わりだったのかもしれない。
*
朝の検査が終われば、残っている仕事はわずかだった。
崩れていた下段の擁壁はほとんど形を取り戻しており、悠真たちは最後の天端石を置くため、上部の高さを揃える作業へ入っていた。
悠真は壁の前へ膝をつき、築石と築石の隙間へ手のひらほどの間詰石を押し込んだ。
最初の日なら、こんな小さな石は余り物としか思わなかった。
大きな築石を綺麗に並べれば壁になると考え、裏側が空洞のままでも気にしなかったほどだ。
けれど今は違う。
指先で石を押し、わずかな揺れを確かめる。
ほんの少し動いた。
いったん抜いて角度を変え、もう一度奥へ押し込むと、今度はぴたりと止まった。
「そこはそれでいい」
背後からボリスの声が飛んだ。
「次、上を合わせろ」
「はい」
悠真が立ち上がろうとしたとき、石材置き場の方から幼い声が届いた。
隠れて聞こうとしたわけではない。
神棚と作業場所がそれほど離れていないうえ、朝の庭は人の声がよく通る。
「せいれいさま。おにいちゃんたち、きょうでおわりなんだって」
悠真の手が止まった。
ペトラだった。
少女は小さな神棚の前へしゃがみ、両膝へ手を置いている。供え物の皿には今日もパンが一つ置かれ、その脇には野花が数本添えられていた。
以前より立派になった神棚は、もう簡単には片づけられそうにない。
「せいれいさまも、いなくなっちゃうの?」
責めるような声ではなかった。
ただ、本当に分からないから尋ねているだけだった。
その問いが妙に胸へ残った。
今日で仕事は終わる。
明日から自分は鉄工区へ戻り、また日雇いの仕事を探すことになる。
ここで石を動かすこともなくなるし、神棚へ供えられたものを食べることもない。
精霊がいるという噂も、自分が来なくなれば、そのうち別の話へ変わっていくだろう。
それで困ることはない。
むしろ、その方がいい。
なのに、父親への言葉を託したあの少女から、自分もいなくなるのかと尋ねられると、何も言わないまま消えるのは少し違うように思えた。
悠真は壁へ視線を戻した。
どう返せばいいのかは、まだ分からない。
……返事、しなきゃな。
それだけを心の中で決め、再び石へ手を伸ばした。
*
昼を少し回った頃、最後の天端石が置かれた。
石がゆっくりと所定の位置へ収まり、職人たちが周囲から高さを確認しながら木槌で細かく調整していく。
悠真も少し離れた場所へ立ち、完成した擁壁を眺めた。
初日に見た崩れた壁の面影は、ほとんど残っていない。
斜面の下へ散らばっていた築石はすべて積み直され、同じ角度で少しずつ内側へ寝かされている。それぞれ形も大きさも違う石の間には、さらに小さな間詰石が隙間なく噛み合い、上部には平らな天端石が一本の線を描くように並んでいた。
色も形も揃ってはいない。
それでも少し離れて見れば、一枚の壁として自然につながっている。
ボリスが端からゆっくり歩き始めた。
誰も口を開かない。
普段なら勝手なことを言っている職人たちまで黙り込み、その背中を目で追っている。
悠真も知らないうちに息を浅くしていた。
最初の日、自分が転移で表面だけを綺麗に並べた壁は、ボリスに蹴られた瞬間、空っぽの箱のような情けない音を返した。
今回は違う。
見えないところまで、小さな石が入っている。
ボリスが足を止めた。
片足を上げ、壁を蹴る。
ごっ、と低く重い音がした。
空洞の響きはない。
衝撃が石から石へ伝わり、そのまま地面の中へ吸い込まれていくような、芯の詰まった音だった。
ボリスはしばらく壁へ掌を当ててから、小さく頷いた。
「……いい壁だ」
それだけだった。
けれど、その一言を聞いた男たちの顔が一斉に緩んだ。
オットーが大きく息を吐き、別の男が腰へ手を当てて天を仰ぐ。
ボリスは壁全体を見渡したあと、わずかに口元を緩めた。
「ベルクの爺さんに見せたら、文句を三つは言うな」
「三つで済むんですか」
悠真が聞くと、職人たちの間から短い笑いが起こった。
「機嫌がよけりゃな」
「じゃあ五つだ」
「七つは言うだろ」
張りつめていた空気が解け、男たちは完成した壁を眺めながら好き勝手なことを言い始める。
悠真も笑いながら、もう一度擁壁へ目を向けた。
ここへ来た頃は、石を正しい場所へ置くことしか考えていなかった。
大きな石を一瞬で移せるなら、それだけで誰より上手く仕事ができると思っていた。
実際には、その大きな石が動かないために必要なのは、表からほとんど見えない小さな石だった。
そのことを今では身体で分かる。
悠真がそんなことを考えていると、上段から石段を下りる靴音が聞こえた。
職人たちの話し声が、自然と小さくなっていく。
悠真は振り返らなかった。
振り返らなくても、誰が来たのか分かった。
この数日で足音まで覚えてしまった自分が少し嫌だった。
リディアが下段へ降りてくる。
今日の淡い金色の髪は稽古のときのように結ばれておらず、背中へ自然に流されていた。風が吹くたび毛先が肩から離れ、昼の陽光を受けて金色よりもさらに淡い色へ透けて見える。
彼女は職人たちへ軽く会釈すると、完成した擁壁の前へ立った。
すぐには何も言わなかった。
端から端まで静かに眺めたあと、右手を伸ばし、築石と築石の継ぎ目へ掌を這わせていく。
悠真の背中へ嫌な汗が滲んだ。
まさか、転移で動かした石が分かるのだろうか。
途中からはボリスに教わりながらきちんと積み直し、裏側にも栗石を詰めているし、最初に転移で置いた石も今では普通の壁の一部になっている。
それでも、この女性には鳥の巣を移したところも、ワイバーンを飛ばしたところも見られている。
自分が知らないところで、ほかにも何か見られているかもしれない。
リディアはしばらく石の継ぎ目へ触れていた。
そして、静かに言った。
「……石が、最初からここにあったみたいですね」
悠真の身体が固まった。
聞いたことのある言葉だった。
石工の老人にも、よく似たことを言われた。
あのときは腕を認めてもらえたような気がして、少し嬉しかった。
今は同じ言葉が、まるで別の意味に聞こえる。
……バレてる?
背中を冷たい汗が一筋流れた。
リディアは何も追及しなかった。
壁から手を離すと、今度は悠真の方へ身体を向ける。
目が合いそうになり、悠真は反射的に逃げ道を探した。
左には完成した擁壁。
右にはボリスとオットー、それに職人たち。
後ろには石材置き場があり、そこへ逃げれば余計に目立つ。
さらに上段のテラスから、ちり、と聞き慣れた鍵束の音がした。
悠真は顔を上げた。
遠くにヒルダが立っている。
表情までは見えない。
それでも、前日に植え込みの中で言われた言葉だけは鮮明に蘇った。
『お声がけには、必ずお返事を。それが当家の規則です』
逃げられない。
リディアが悠真の前で足を止めた。
ワイバーンが消えた直後ほど近くはないものの、普通に会話をするには十分すぎる距離だった。
風が二人の間を抜け、積み終えた石の乾いた匂いと、庭に咲く花の淡い香りを運んでいく。
「お名前を、伺ってもいいですか」
予想していなかった質問だった。
転移魔法でもない。
ワイバーンのことでもない。
精霊のことでもない。
ただ、名前。
それだけだった。
悠真は一瞬、返事を忘れた。
リディアは急かさず、青緑の瞳で静かに待っている。
「……相馬、悠真です」
久しぶりに、自分の名前をきちんと口へ出した気がした。
リディアは、その異国の音を覚えようとするように、ゆっくり繰り返す。
「ソウマ、ユウマ……さん」
ほんの少し間を置く。
「悠真さん」
胸の奥が、不意に詰まった。
遠い岩場で聞いた、もう一人の声が蘇った。
この世界へ来て間もない頃、自分の名前を聞き返し、不慣れな音を確かめるように何度か呼んだ男。
その声は、もう聞けない。
この世界で名前を呼ばれるのは、二人目だった。




