第10話後半 さよならの代わりに、石の鳥を
たったそれだけのことなのに、胸の奥へ不意に重いものが落ちてきたような感覚があり、悠真はすぐに返事をすることができなかった。
異世界へ来て間もない頃、血に濡れた岩場でハンスが不慣れな音を確かめるように「ソウマ、ユウマ」と呼び、それから「ユウマ」と笑ったことを、普段はなるべく思い出さないようにしている。思い出せば、そのあとに続いた光景まで一緒に戻ってくるからだ。
けれど今、目の前のリディアが同じように異国の響きを一度口の中で確かめ、そのあと迷わず「悠真さん」と呼んだことで、押し込めていた記憶の蓋がほんの少しだけ開いた。
その変化に気づいたのかどうか、リディアは理由を尋ねなかった。
青緑の瞳で悠真を見つめ、彼が言葉を返せるようになるまで静かに待ったあと、少しだけ迷うように視線を伏せる。
「また、お会いできますか」
今度こそ、悠真は完全に答えを失った。
この屋敷での仕事は今日で終わる。
明日になれば自分は鉄工区へ戻り、その日に雇ってくれる相手を探しながら、宿代と食費を計算して暮らす生活へ戻る。一方、目の前にいるのは丘の上の白い館で暮らす侯爵家の令嬢であり、門一枚を隔てているだけに見えても、二人の生活は最初からまったく違う場所にあった。
しかも、彼女は自分の力を見ている。
鳥の巣を戻したところまで知られているとは悠真には想像もできなかったが、少なくともワイバーンを消した瞬間だけは真正面から見られ、それでもリディアは父親へ何も話さず、「本人に聞いてください」と秘密を自分の手元へ残してくれた。
ありがたいと思う。
それと同時に、だからこそ下手に近づいてはいけないような気もした。
自分が何者なのか、悠真自身にも分からない。
この世界の魔法とは違うらしい力を持っているだけの、帰る場所さえ見つけられていない人間である。
そんな自分が侯爵令嬢ともう一度会う理由など、どこにあるのだろう。
「……俺みたいなのが、また来る理由なんて、ないですよ」
口から出た瞬間、別の答えもあったのではないかと思った。
また会えたら、とでも言えばよかったのかもしれない。
仕事があれば、と濁すことだってできた。
けれど言葉はもう戻らない。
リディアは少しだけ目を伏せたあと、悠真の答えを否定することも、無理に理由を作ることもせず、小さく微笑んだ。
「……そうですか」
その笑みが寂しいものだったのか、悠真には判断できなかった。
二人はまだ互いの名前を知ったばかりで、相手の表情から何を考えているのか読み取れるほど長く話したこともない。
ただ、侍女が皿を割った日に見せた柔らかな笑顔より少し静かで、口にしかけた何かを胸の内へ戻したようには見えた。
沈黙が落ちる。
完成した擁壁の向こうでは、ボリスたちが道具を片づける音を立てている。木箱へ槌を入れる乾いた音や、石の上を靴が擦る音、遠くから聞こえる使用人たちの声があるのに、悠真には自分たちの周囲だけが妙に静かになったように感じられた。
これ以上ここに立っていると、何か余計なことまで口にしてしまいそうだった。
悠真は軽く頭を下げ、その場から離れようと身体を向ける。
そのとき、丘の上から強い風が吹き下ろしてきた。
上段の庭木が一斉にざわめき、刈り込まれた植え込みの表面を波のように撫でながら、乾いた葉を何枚も石畳へ舞い上げる。風は完成した擁壁の上を抜け、積み終えた石の隙間で低い音を鳴らしたあと、二人の間を通り過ぎていった。
結ばずに下ろしたリディアの淡い金色の髪が大きく持ち上がり、陽光を透かしながら肩の向こうへ流れていく。
リディアは片手で髪を押さえた。
そのまま、去りかけていた悠真を見る。
「……今日は、いい風ですね」
悠真の足が止まった。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
けれどリディアの口元へ、ごく小さな笑みが浮かんでいるのを見た瞬間、意味がつながった。
ワイバーンを北へ飛ばしたとき。
侯爵に方法を聞かれたとき。
自分は何度も、すべて風のせいにした。
どう考えても通用するはずのない言い訳を繰り返し、彼女はそれを全部聞いていた。
それでも暴こうとはせず、今になって同じ言葉だけを悠真へ返してきた。
笑うつもりなどなかったのに、喉の奥から小さな息が漏れた。
そのまま堪えきれなくなり、悠真は短く笑った。
緊張で固くなっていた胸の内側から、ようやく空気が抜けていくような笑いだった。
リディアもつられるように笑った。
何かを説明するためでも、失敗をごまかすためでもない。
二人が初めて、同じことを分かって笑った。
丘を抜けた風はそのまま下段の向こうへ流れていき、擁壁の天端石へ落ちた一枚の枯れ葉をくるくると転がしながら、庭の外へ運んでいった。
*
日が西へ傾く頃には、道具の片づけもほとんど終わっていた。
朝からどこか浮ついていたボリス組の男たちは、最後の日当を受け取ると、ようやく本当に仕事が終わったのだと実感したらしく、互いの肩を叩いたり完成した壁を振り返ったりしながら、普段より大きな声で話している。
悠真もボリスから最後の日当を受け取り、きちんと懐へしまった。
この世界へ来たばかりの頃は、銅貨が数枚減るだけでも、その先に食べられなくなる日が見えてくるようで不安だった。
今はしばらく宿代にも食事にも困らないだけの金がある。
仕事を覚えた。
鉄工区で顔を知る人間も増えた。
そう考えれば、この屋敷で過ごした日々は十分すぎるほど実りのあるものだったはずなのに、門へ向かおうとすると、胸の奥へ小さな引っかかりが残った。
「行くぞ、鐘の坊主!」
坂道の方からボリスが呼ぶ。
「はい」
返事をして数歩進んだところで、悠真は立ち止まった。
朝に聞いたペトラの声を思い出した。
『せいれいさまも、いなくなっちゃうの?』
返事をする、と決めていた。
「すみません。道具、忘れました」
前を歩いていたボリスが振り返る。
「何忘れた」
「ちょっと確認してきます」
「早くしろよ!」
追及される前に悠真は踵を返し、職人たちとは反対方向へ歩き出した。
もちろん、忘れた道具などない。
男たちの話し声が坂の下へ遠ざかっていくのを確認してから、石材置き場へ向かう。
夕暮れの庭は、昼間までの賑やかさが嘘のように静かだった。
斜めから差し込む橙色の光が完成した擁壁の凹凸へ長い影を落とし、職人たちが何日も休憩に使っていた場所には、誰もいない。道具を引きずる音もボリスの怒鳴り声も消え、風が草を擦る音と、遠い厨房から聞こえる食器の触れ合う音だけが残っている。
悠真は神棚の前へ立った。
供え物の皿には、昼間に置かれたパンの欠片と、小さな野花が残っていた。
少し離れた石材置き場を見る。
擁壁に使わなかった小石の中へ、白く平たいものがいくつか混じっている。
悠真はその一つへ視線を向け、次に供え物の皿を見る。
白い小石が皿の上へ移った。
もう一つ。
さらに一つ。
大きさも形も違う石を一つずつ選びながら皿へ移し、中央に少し丸みのある石を置いて身体を作り、小さな石を頭に見立て、その左右へ細長い石を広げていく。
最初は何を作っているのか自分でも分からない形だったが、向きを少し変え、位置を整えるうち、どうにか鳥らしく見えるようになった。
悠真はしゃがんだまま、しばらくそれを見つめた。
左右へ広げた翼がある。
両方とも欠けていない。
ペトラへ直接別れを告げれば、精霊ではないと説明することになる。
だからといって、何も残さずいなくなるのも違う気がした。
少女がこれを見て何を思うかは分からない。
ただ、昨日までいたものが、黙って消えたわけではないことくらいは伝わるかもしれない。
「……じゃあな」
声は風へ溶け、誰にも届かなかった。
悠真は立ち上がると、今度こそ神棚へ背を向けた。
誰も見ていない。
少なくとも、悠真はそう思っていた。
*
丘を下り始める頃には、王都の光石灯が一つずつ灯り始めていた。
白冠区の整えられた通りへ淡い光が並び、石畳の継ぎ目まで見えるほど均等に夜を照らしている。坂を下るにつれて館の塀は低くなり、建物の間隔も狭まり、遠くから鉄を打つ音や夕食を売る屋台の声が混じり始めた。
同じ王都の中なのに、丘を一つ下りるだけで空気が変わっていく。
途中で、悠真は一度だけ足を止めた。
振り返る。
丘の上には、白い侯爵家の館が見えている。
夕闇の中、いくつもの窓が橙色に灯り、昼間とは別の建物のように浮かび上がっていた。
どの窓がリディアの部屋なのかは知らない。
知る必要もない。
名前を知った。
少し話した。
一緒に笑った。
それだけでも、この数日前には考えられなかったことだ。
住む世界が違う。……分かってる。
悠真は前を向いた。
そのまま、鉄工区へ続く坂を下りていった。
◇
十四日目の朝、リディアは庭の上段を歩いていた。
仕事が終わった翌朝の庭は、驚くほど静かだった。
崩れていた擁壁はきれいに直り、下段に積まれていた大量の石もほとんど姿を消し、何日も庭を埋めていた職人たちの道具や荷物もなくなっている。風が庭木を揺らす音も、靴の下で芝が擦れる感触も昨日までと変わらないはずなのに、槌の音や男たちの笑い声が消えただけで、庭そのものが一回り広くなったように感じられた。
リディアは自然と下段へ視線を向けた。
昨日までなら、黒髪の青年がどこかにいた。
擁壁の前へしゃがんでいることもあれば、ボリスに何かを言われて困った顔をしていることもあった。
こちらが近づけば逃げた。
水を持っていっただけで走り去り、昼休みには姿を消し、最後にはどこへ隠れたのかさえ分からなかった。
今日は探す必要すらない。
もう、いない。
「おじょうさま!」
下段から弾むような声が聞こえた。
リディアが顔を向けると、ペトラがこちらへ駆けてくる。
小さな足で石段を上がり、途中で一度つまずきそうになりながら、それでも止まらず両手を大きく振っていた。
「おじょうさま! せいれいさまが、さよならって!」
「さよなら?」
息を切らすペトラに手を引かれ、リディアは一緒に下段へ降りた。
少女が真っすぐ向かったのは神棚だった。
供え物の皿を見た瞬間、リディアには何が起きたのか分かった。
白い小石がいくつも並べられている。
中央には胴体。
その先に頭。
左右には細長い石が伸び、翼のような形を作っていた。
上手とは言い難い。
けれど鳥だと分かる。
ペトラは皿の前へしゃがみ込み、嬉しそうに指を差した。
「とりさん、りょうほうの羽があるね」
「そうですね」
リディアは微笑んだ。
誰が作ったのかは尋ねなかった。
尋ねる必要がなかった。
誰も見ていないと思った場所で、落ちた鳥の巣を元へ戻した人。
小さな少女の願いを聞いて泣き、それでも何もできないままにはせず、遠くの花壇から白い花を一輪届けた人。
自分の力を隠したがっているのに、困っているものを見れば、結局使わずにはいられない人。
あの人以外に考えられなかった。
ペトラは石の鳥へ何度も手を振り、「またね」と言ってから、厨房の方へ走っていった。
リディアは一人、神棚の前へ残った。
朝の風が吹き、完成した擁壁の上を抜けていく。
昨日まで職人たちが休憩していた石の上には薄く朝露が残り、石材置き場だった場所には土の色だけが周囲と少し違って見える。
静かすぎる、とリディアは思った。
ほんの数日前まで、黒髪の職人について何も知らなかった。
今だって、知っていることは多くない。
名前は相馬悠真。
ボリスからは「鐘の坊主」と呼ばれている。
鉄工区で働いているらしい。
誰も知らない魔法を使い、それを人に見られたくないと思っている。
そして帰還の鐘が鳴るたび、一つずつ数えながら顔を青ざめさせた。
それだけだった。
昨日、また会えるかと尋ねた。
悠真は「来る理由なんてない」と答えた。
そのとき、自分は「そうですか」としか言えなかった。
また来てください、と言えばよかったのかもしれない。
けれど侯爵家の娘である自分がそう言えば、願いではなく命令として受け取られる可能性がある。そう考えた瞬間、言葉を口へ出せなくなった。
それでも一晩経った今なら、別の言葉があったことが分かる。
昨日と今日が同じとは限りません。明日だって。——そう言えばよかった。
理由が昨日までなかったからといって、明日もないとは限らない。
少なくともリディアは昨日まで彼の名前さえ知らなかったのに、今日はその名前を知っている。
ほんの一日でも、知っていることは変わる。
ならば、これから先まで今と同じだと決めつける理由もない。
リディアは皿の上の石の鳥へ目を落とした。
このまま待っていれば、また偶然仕事に来るかもしれない。
来ないかもしれない。
父に頼めば探すことは難しくないだろう。
兄でもいい。
ボリスを通じれば、鉄工区で働く黒髪の青年一人を見つけるのに、それほど時間はかからないはずだった。
そこまで考えて、リディアは首を横へ振った。
侯爵家が探していると知ったら、あの方はきっと、もっと遠くへ逃げてしまう。
水を渡そうとしただけで全力で走り去った人なのだ。
家から正式に人を出せば、どこまで逃げてしまうか分からない。
それなら、自分で探せばいい。
そう考えた瞬間、胸の中にあった迷いが驚くほど簡単に形を変えた。
分からないなら、確かめればいい。
あの力が何なのか。
なぜ鐘を数えるのか。
なぜ「鐘の坊主」と呼ばれているのか。
それに、まだ聞いていないことはいくらでもある。
リディアは顔を上げた。
丘の下には、朝の王都が広がっている。
屋根の間から細い煙が何本も上がり、通りにはすでに荷車が行き交い、さらに向こうには鉄工区の煙突が淡い霞の中へ並んでいた。
場所は分かる。
手がかりもある。
相馬悠真という名前。
鉄工区。
そして「鐘の坊主」という妙な呼び名。
待っているだけでは、何も分からない。
裏口の鍵の在りかを、リディアは十年前から知っていた。使うのは、今日が初めてだった。
行き先は鉄工区。あの人が「鐘の坊主」と呼ばれる理由を、確かめに。




