第11話前半 令嬢、鉄工区に潜入する(全然潜めていない)
変装は完璧だった、とリディアは思った。
洗濯場から借りた灰色の服。髪は頭巾の中。指輪は外した。
鉄工区の門をくぐって三歩で、通りの全員がこちらを振り返った。
白冠区の丘を下りるころには朝の冷たさを残していた風も、鉄工区へ入るとまるで別のものになっていた。石炭の焦げた匂い、熱した鉄へ水を浴びせたときの湿った金属臭、荷車の車輪に削られた土の匂いが混ざり合い、通りの奥からは槌を振るう音が幾重にも重なって響いてくる。
甲高く澄んだ音もあれば、腹の底へ落ちるような鈍い音もある。その隙間を縫うように職人たちの声が飛び交い、軒先から垂れた布や縄は、煙を運ぶ乾いた風を受けて絶えず揺れていた。
屋敷の静かな廊下とは、何もかもが違う。
思わず目を向けたくなるものばかりだったが、今日は見物に来たわけではない。昨日まで侯爵家の庭にいた若い職人、相馬悠真が、なぜ「鐘の坊主」と呼ばれているのか。それを自分の耳で確かめるために来たのだ。
父や兄に頼めば、ボリスの居場所くらいすぐに分かるだろう。それどころか侯爵家の名を出した時点で、鉄工区の誰かが彼女の代わりに悠真を捜してくれるかもしれない。
だが、それでは意味がない。
侯爵家の令嬢が調べていると知られれば、話す側も身構えるだろうし、何より悠真本人の耳へ入ったとき、昨日よりもっと遠くへ逃げられてしまいそうな気がした。
だからこそ灰色の上着を借り、普段つけている指輪を外し、長い髪も一筋残らず頭巾の内側へ押し込んできた。鏡の前で見た限りでは、少なくともいつもの自分とはかなり違って見えていた。
その判断が正しかったのかどうか、門を入って三歩の時点で少しだけ怪しくなっていた。
向こうから鉄の棒を肩に担いだ男が歩いてきたので、リディアは邪魔にならないよう端へ寄り、すれ違うときに丁寧に頭を下げた。
「おはようございます」
男は足を止めなかったものの、二歩ほど通り過ぎてから首だけを回して振り返った。
その次に大きな籠を抱えた女とすれ違ったので、同じように挨拶をすると、女もやはり振り返る。荷車を押してきた若い男などは、リディアの顔を見たまま何か言いかけ、結局何も言えずに口を閉じた。
どうやら鉄工区の人々は、見知らぬ相手にもよく目を配るらしい。
屋敷なら、廊下を歩けば使用人たちが自然に道を空けてくれる。ここでは自分で周囲を見なければならないので、荷車や人の流れを邪魔しない位置を考えながら進んでいると、横から来た荷を引くラバの肩が袖へ軽くぶつかった。
硬い毛が腕をかすめ、革具についた金具がちゃり、と鳴る。
リディアはすぐに足を止めてラバへ向き直り、深く頭を下げた。
「失礼いたしました」
ラバは長い耳を一度だけ動かした。
手綱を持っていた男は何も言わず、口を半分開けたままリディアを見ている。少し離れた鍛冶場では、二人の職人が槌を止めてこちらを見ていたので、リディアはそちらにも小さく会釈を返した。
やはり皆、親切なのだろう。見知らぬ娘が一人で歩いているので、迷っているのではないかと気にしてくれているに違いない。
そう納得して進んでいくと、軒先に鉄鍋や刃物を並べた鍛冶屋が見えた。
開け放たれた戸口の奥では炉が橙色に燃え、火床から立ちのぼる熱で空気そのものが揺らいでいる。外は涼しいはずなのに、一歩近づいただけで頬がじんわりと温かくなり、煤と焼けた鉄の匂いが喉の奥へまとわりついた。
炉の前に立つ男の額からは汗が流れ、顎の先で一滴になって落ちた。
「すみません。声の大きい親方を探しております」
男が、手にしていた火箸を止める。
「声の大きい親方?」
「はい。とてもよく通るお声の方です」
男はほんの数秒だけ考え、それから納得したように鼻で笑った。
「ボリスか。声なら三本向こうまで聞こえてる」
その直後だった。
三本向こうどころか、こちらの建物の壁まで震わせそうな声が通りを突き抜けてきた。
「倒れたら自分で起きろ!」
リディアは声のした方へ顔を向け、それから鍛冶屋の男へ丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございます。分かりました」
歩き出した背後で男が何か呟いたようだったが、再び始まった槌音に紛れ、内容までは聞こえなかった。
鉄工区の方々は、とても親切です。皆さん、私を見てくださいます。
そんなことを考えながら声を頼りに通りを進むと、崩れた石壁の前に見覚えのある大きな背中が見えてきた。
ボリスは肩に白い石粉をつけたまま、数人の職人へ指示を飛ばしている。侯爵家の庭にいたころと変わらない太い腕と、通りの騒音にも負けない声で、積まれた石を指しながら手短に作業を割り振っていた。
少し離れた場所ではオットーが欠けた石を選り分けている。
リディアは声をかけようとして、一歩近づいた。
その気配に気づいたのか、ボリスがこちらを見る。
目が合ったのは、ほんの一瞬だった。
太い眉が上がり、口が半分開いた。
次の瞬間、ボリスはまるで背中を糸で引かれたように、くるりと身体を回して真正面の石壁へ向き直った。
隣にいた職人がそれを見る。
一人が壁を向き、もう一人も続き、少し遅れてオットーまで身体を回した。
崩れた壁の前に、五人の大男が横一列になって立った。
その誰一人として、リディアを見ていない。
石壁の上を風が撫で、目地に残っていた細かな砂をさらさらと落としていく中、リディアはしばらく五つの背中を眺めてから、おそるおそる声をかけた。
「あの……こちらを見ていただいても」
ボリスは壁を見つめたまま答えた。
「規則なんで」
「ここはお屋敷ではありませんけれど」
「体が覚えちまってんで」
屋敷で働いていた間、彼らがヒルダの決めたことをどれほど忠実に守っていたかは知っている。それが仕事を終えた翌日まで身体に染みついているのなら、無理に直してもらうこともないだろう。
「では、そのままで構いません」
五人の肩から、ほとんど同時に力が抜けた。
そうしてリディアと職人たちの会話は、全員が壁を向いたまま始まった。
「ボリスさん。少しお聞きしたいことがあります」
「俺に答えられることなら」
「悠真さんのことです」
その名前を出した途端、先ほどまでとは空気がわずかに変わった。
隣の鍛冶場では、一定の間隔で槌が振り下ろされていた。高い金属音が一度、二度と響き、三度目が来るはずだったところで、ふいに音が途切れる。
遠くの通りにはまだ大勢の声があり、荷車も動いている。それなのに、すぐそばの槌音が消えただけで、世界が急に広くなったような静けさが訪れた。
リディアは昨日まで何度も耳にした呼び名を、ゆっくり口にする。
「どうして、あの方は『鐘の坊主』と呼ばれているのでしょう」
ボリスはすぐには答えなかった。
目の前の石壁を見たまま、太い指で腰の革帯を一度押さえる。
普段なら通りの向こうまで届く声が、今度は同じ場所に立つ者にしか聞こえないほど低くなった。
「あいつは、ハンスたちの札を持って帰ってきた。三枚。……鐘を三つ、鳴らさせた坊主だ。だから、鐘の坊主だ」
リディアの指先が、灰色の袖の上で静かに止まった。
——鐘を、三つ。
あの日の悠真の顔が、記憶の中から鮮やかに浮かび上がった。
帰還の鐘が王都の空を渡るたび、彼は数を追っていた。二十七回の鐘が鳴り終わるまで、一度も目を逸らさず、最後には顔から血の気を失っていた。
あの青ざめた顔と、「鐘の坊主」という呼び名が、今になって初めて一つにつながった。
けれど、分かったのは由来だけだった。
なぜ彼が、あれほど鐘を気にしていたのか。
そこには、まだ手が届かない。
ボリスが低い声のまま続けた。
「あいつ、今でも鐘が鳴ると手が止まる。仕事の最中でもな」
その一言のあと、誰もすぐには口を開かなかった。
遠くで荷車の車輪が石を踏み、からん、と何かが落ちる音がした。屋根の上を渡った風が煤の匂いを運び、路地に吊られた布を大きく膨らませてから、息を吐くようにしぼませていく。
リディアは、知らなかった悠真の輪郭を、他人の言葉の中から少しずつ拾い上げているような気がした。
自分が見たのは、誰にも見られていないと思いながら、落ちた巣を枝へ戻す人だった。
大きな魔物を前にしても、自分の力を誇ろうとしない人だった。
昨日は、風の話をしただけで困ったように笑って、それから自分も笑った。
けれど、この街には、自分が見ていない悠真を知っている人たちがいる。
「悠真さんは、こちらでも……いつも、あのような方なのですか」
何を聞きたいのか自分でもうまく言葉にできず、少し曖昧な問いになった。
壁を向いていたオットーが、振り返りそうになってから途中で思い直し、顔だけは正面へ残したまま答える。
「あいつ、嘘は下手だけど、嫌な嘘はつかねえんです」
「嫌な嘘、ですか」
「自分が楽したいとか、面倒を避けたいとか、そういうのは普通に言うんですけどね。人を困らせるための嘘はつかねえっていうか」
ボリスが鼻を鳴らした。
「効率、とか抜かしやがってな」
リディアは昨日までの庭を思い出した。
人が何人も必要な石が、いつの間にか運びやすい位置へ置かれていたこと。誰にも気づかれないよう力を使ったあとも、悠真は何事もなかったように道具を持ち、汗を拭っていたこと。
理由を聞けば、きっと同じ言葉で済ませたのだろう。
効率がいいから、と。
あれほど不思議なことを、少し手間を省いただけのような顔で。
思わず口元が緩みかけた、そのときだった。
通りの向こうから、聞き慣れた声が突き刺さった。
「お嬢様ぁっ!!」
リディアが振り向くより早く、五人の職人が反射的にさらに壁へ寄った。
ごつん、と鈍い音が響く。
一番端の男が額を石壁へぶつけたらしい。しかし本人は額を押さえることすらせず、何事もなかったように壁を見つめ続けていた。
人の流れを縫うようにして駆けてきたポーラは、肩で大きく息をしながらリディアの前へたどり着くと、挨拶より先に自分の襟巻きを外した。
頬は走ってきたせいで赤く、額には細かな汗が浮いている。それでも手つきだけは侍女らしく正確で、ずれかけていた頭巾の上から、わずかに覗いていた淡い金髪を襟巻きごと覆い隠していく。
「お嬢様。変装というのは、目立たないためにするものです」
「目立っていましたか?」
ポーラはすぐには答えず、いったん目を閉じて呼吸を整えた。
「通りの全員が振り返っておりました」
リディアは、ここへ来るまでに見た人々の顔を順番に思い返した。
鉄棒を担いだ男。籠を抱えた女。荷車を押していた若者。ラバの手綱を持っていた男。それから、槌を止めていた職人たち。
「皆さん、親切なのだと……」
ポーラの眉が、わずかに下がった。
何か言おうとして唇を開き、それでも結局は口を閉じる。
リディアは襟巻きの端を軽く押さえ、もう一度ボリスたちへ向き直った。正確には、ボリスたちの背中へ向き直った。
「ボリスさん。お願いがあるのですが」
「なんでしょう」
「あの方には、内緒にしていただけますか」
ボリスは一拍だけ黙り、それから石壁を真正面に見つめたまま答えた。
「目ぇ合わせてねえんで、何も見てません」
隣の男が無言でうなずき、その隣も続いた。
オットーも、先ほど額をぶつけた男まで、五人そろって壁に向かったまま深くうなずく。
その直後、通りの向こうから、木の車輪が石を踏む軋んだ音が近づいてきた。




