第11話後半 令嬢、鉄工区に潜入する(全然潜めていない)
木の車輪が石を踏む軋んだ音は、少しずつ大きくなり、やがて荷車の輪郭が通りの向こうから現れた。
積まれているのは、角を落とした切り石だった。荷台の縁ぎりぎりまで重ねられた石は一つ一つが人の胴ほどもあり、車輪が路面のくぼみを越えるたび、荷全体が低く軋んでいる。
そして、その後ろから荷車を押している黒髪の青年を見つけた瞬間、リディアは息を止めた。
悠真だった。
「お嬢様」
耳元で囁いたポーラの声にも、リディアはすぐに返事ができなかった。
昨日まで庭にいた彼が、今日は鉄工区の埃っぽい通りを歩いている。ただそれだけのことなのに、ずいぶん久しぶりに姿を見たように感じた。
けれど今、見つかるわけにはいかない。
リディアより先に状況を理解したポーラが、彼女の腕を掴んだ。
「こちらへ」
二人は道端に置かれた大きな水樽の陰へ滑り込んだ。
灰色の服の裾が地面を擦り、乾いた砂が小さく舞う。樽の脇には使い込まれた桶や縄が積まれ、日陰に残った水の匂いへ、鉄と石粉の匂いが混じっていた。
リディアは樽の端から、ほんの少しだけ顔を出す。
「お嬢様」
「見ているだけです」
「それを隠れてするから問題なのです」
ポーラが小声で返しながら、リディアの頭巾を直した。
その手元で、朝から何度も押し込んでいた淡い金色の髪が一房だけ滑り出した。夕方へ傾き始めた光を受け、それは煤と灰色に染まった鉄工区の一角で、場違いなほど明るく輝いた。
近くにいた子どもが、すぐに気づいた。
「おねえちゃん、ひかってる」
ポーラの顔色が変わった。
金色の髪は、次の瞬間には襟巻きの中へ消えていた。
◇
石材置き場に人がいないことを確認してから、悠真は重い切り石だけを荷台へ移していた。
力を使うたびに音も光も出ない。それでも誰かに見られるのは避けたかったので、最後の数個だけは普通に手で位置を整え、それから何事もなかったような顔で荷車を押して戻ってきた。
もっとも、頭の中は仕事に完全には戻っていなかった。
『……今日は、いい風ですね』
昨日の声が、なぜか何度も蘇る。
あれほど逃げ回っていた相手と、結局最後には一緒に笑ってしまった。
しかも、自分が必死に誤魔化すため使い続けた「風」を、その本人に拾われたのである。
侯爵令嬢に何を覚えられているんだ、俺は。
そう思うのに、嫌な感じはしなかった。
むしろ思い出すたび、どうしても口元が少し緩む。
それが妙に恥ずかしくなり、悠真は誰も見ていないのを確かめてから、わざと咳払いを一つした。
角を曲がり、ボリスたちの現場へ戻る。
そこで悠真は足を止めた。
職人たちが全員、壁を向いていた。
ボリスも、オットーも、その隣の男たちも、横一列になり、まるで壁の模様に重大な欠陥でも見つけたかのような真剣さで石積みを凝視している。
「……何してるんですか」
ボリスが振り返らずに答えた。
「壁の検査だ」
悠真は荷車から壁へ目をやった。
朝から何度も見ている壁である。
少なくとも五人並んで無言で凝視しなければならないほどの問題が生じていた記憶はない。
とはいえ、石工には石工にしか分からない何かがあるのかもしれない。
荷車を所定の位置まで押そうとしたところで、近くにいた子どもの声が聞こえた。
「おねえちゃん、ひかってる」
悠真は反射的に声の方へ目を向けかけた。
通りの端に、大きな水樽がある。
その陰で、淡い色の何かが一瞬だけ光った。
金色にも見えた。
しかし、それはすぐに引っ込み、見えなくなる。
悠真の手が、荷車の取っ手の上で止まった。
脳裏に蘇ったのは、侯爵家の庭だった。
植え込み。
葉の間から伸びていた白い手。
こちらを見ていたらしい何者か。
そして、結局最後まで正体の分からなかった気配。
「……ついてきた、のか?」
口には出さなかったものの、背筋に冷たいものが走った。
庭にいた何かが、鉄工区まで。
いや、そんな馬鹿な。
悠真自身が「庭の精霊」として勘違いされていたことは、もう分かっている。しかし、だからといって植え込みから伸びていた手まで自分だったことにはならない。
あれは誰だったのか。
考えれば考えるほど、答えが遠ざかる。
悠真は樽の方を見ないことに決めた。
石を下ろすため荷車へ背を向ける。
正確には、樽へ背を向ける形になった。
ボリスたちは壁を向いている。
悠真は樽に背を向けている。
鉄工区の一角で、大人たちが揃って何かから顔を背けていた。
事情を何も知らない子どもだけが、不思議そうに全員を見回している。
やがて、その小さな手が悠真のシャツの裾を引いた。
「おにいちゃん」
「ん?」
「あのおねえちゃん、だれ?」
悠真は振り返らなかった。
「……見ちゃだめなやつだ」
子どもは目を丸くしたあと、何やら重大な秘密を教えられたような真剣な顔でうなずいた。
そして両手で自分の目を塞いだ。
その律儀さだけは、なぜか少し懐かしかった。
◇
結局、ポーラはリディアの腕を掴んだまま、半ば引きずるように路地まで退避した。
鍛冶場の並ぶ大通りから一本外れただけで、音の密度が薄くなる。槌の響きは建物の壁を越えて遠くなり、代わりに夕餉の支度を始めた店先から、焼いた肉や香辛料の匂いが細い風に乗って流れてきた。
西へ傾いた太陽は屋根と屋根の隙間に挟まり、煙で白く霞んだ空を赤く染めていた。仕事を終えた職人たちが通りへ出始め、靴底についた石粉を払いながら、それぞれ酒場や家路へ向かっている。
ポーラは人影の少ないところまで来ると、ようやくリディアの腕を放した。
「危ないところでした」
「悠真さんには、気づかれていないでしょうか」
「おそらくは」
そう答えたポーラの声には、わずかに疲労がにじんでいた。
「ただし、次に同じことをなさったら分かりません。髪もそうですが、お嬢様は立っているだけで妙に姿勢が良すぎます」
「姿勢を悪くすればよいのですか?」
「そういう問題でもございません」
リディアは少し考えたが、適切な解決策を思いつけなかった。
そのとき、鼻先を香ばしい匂いが通り過ぎた。
路地の出口近くに小さな屋台があり、炭火の上で串に刺した肉が焼かれている。脂が赤い炭へ落ちるたび、じゅっと音を立てて白い煙が上がり、塩と香辛料の混じった匂いが辺りへ広がった。
リディアの視線が、自然とそちらへ向く。
「ポーラ」
「はい」
「あれは、いただいてもよいものですか?」
ポーラが屋台を見て、リディアを見た。
「もちろん食べ物ですので」
「食べてみたいです」
声には、先ほどまで悠真を調べていたときとは別の種類の真剣さがあった。
二人で屋台へ近づくと、主人が焼き上がった串を裏返しながら顔を上げた。
「一本か?」
「はい、お願いします」
リディアは財布を取り出し、そこから一枚を選んで差し出した。
主人の手が止まる。
大きな指先の上で、銀貨が夕日の最後の光を返した。
「銀貨ぁ? 釣りがねえよ」
「足りませんか?」
主人の眉が跳ね上がった。
隣でポーラが額に手を当てる。
「お嬢様、それは銀貨です」
リディアは銀貨と屋台の串を見比べた。
「では、多すぎるのですね」
「はい」
「すみません」
銀貨をしまい直し、今度はポーラに教えられながら銅貨を数えて渡す。
受け取った串は、思っていたより熱かった。
炭火で焼かれた表面には薄く焦げ目がつき、噛むと肉汁と塩気が舌の上へ広がる。香辛料は屋敷の料理より粗く、煙の香りも強い。それなのに、不思議なくらい後を引いた。
リディアはもう一口かじり、目をわずかに見開いた。
「……おいしい」
屋台の主人が満足そうに鼻を鳴らした。
「だろ。黒髪の坊主も、それが好きでな。『うまいな、これ』って、毎回同じこと言いやがる」
噛もうとしていたリディアの動きが、ほんの少しだけゆっくりになった。
「悠真さんも?」
「名前までは知らねえけど、たぶんあんたらが探してる坊主だろ。ひょろっとしてて、変な服着てたやつ」
リディアは串を見つめた。
彼が食べたものを、自分も今食べている。
それだけのことなのに、先ほどまでただ美味しいと思っていた味が、少し違って感じられた。
もう一口。
今度は先ほどよりゆっくり噛む。
隣から、ポーラの視線を感じた。
「お嬢様、それは——」
途中まで言って、ポーラは言葉を飲み込んだ。
「何ですか?」
「いえ、何でもございません」
屋台の主人は二人のやり取りなど気にする様子もなく、次の串を炭の上へ並べている。
「そういや、あの坊主、毎朝、妙なとこで立ち止まって——」
そのとき、王都の中央から大きな鐘の音が響いた。
ごうん、と最初の一打が建物の壁を震わせ、遅れて低い余韻が路地へ流れ込んでくる。仕事を終える者たちがその音に顔を上げ、遠くの空を鳥が数羽、黒い影になって横切った。
もう一度、鐘が鳴る。
ポーラの表情が変わった。
「お嬢様、日が暮れます。ヒルダさんに気づかれたら……」
「ですが、今の続きを」
「それは明日にしてください」
珍しく強い声だった。
リディアは屋台の主人を振り返ったが、三度目の鐘に重なるように客が二人入ってきて、主人はすでにそちらの注文へ応じ始めていた。
毎朝、妙なところで立ち止まる。
どこで。
何のために。
新しい疑問が一つ増えた。
けれどポーラの言うことも正しい。これ以上遅くなれば、調査どころか屋敷中を巻き込む騒ぎになりかねない。
リディアは残った串を食べ終え、主人へ頭を下げた。
「ありがとうございました。また参ります」
「今度は銅貨持ってこいよ」
「はい」
路地を離れ、鉄工区の門へ向かう。
夕暮れは早く、建物の影はすでに通りの半分以上を覆っていた。昼間は火と槌の音で満たされていた工房も、一軒、また一軒と戸を閉め始め、炉の赤い光だけが細い隙間から漏れている。
門が近づいたころだった。
リディアは、ふと足を止めた。
「お嬢様?」
背中に視線を感じた。
振り返る。
夕闇の沈み始めた路地には、誰もいなかった。
軒下に積まれた木箱。閉じた工房の扉。風に揺れる古い布。遠ざかっていく職人の背中。
それだけだった。
しかし、つい先ほどまで誰かが立っていたような感覚だけが残っている。
風が路地の奥から流れてくる。
煤。
鉄。
焼けた油。
それらに混じって、鉄工区には似つかわしくない匂いが、一瞬だけ鼻をかすめた。
路地の奥に、インクの匂いが残っていた。
リディアは数秒そこを見つめたが、ポーラがそっと袖を引いた。
「参りましょう」
「……はい」
二人は門を出た。
振り返ったときには、その匂いももう分からなくなっていた。
◇
侯爵家へ戻ったころには、空はすっかり暗くなっていた。
正門から戻ることはできないので、朝と同じ裏口へ回る。
白冠区の夜は鉄工区より静かで、丘を渡る風が木々の葉を細く揺らす音まで聞こえた。遠くでは時計塔の鐘が余韻を失い、代わりに夜虫の声が芝生の向こうから途切れ途切れに届いている。
リディアは裏口の前で足を止めた。
「……ポーラ」
「はい」
「朝、ここはどうしましたか?」
ポーラも扉を見た。
「外から鍵をおかけになりました」
「そうですよね」
その扉が、わずかに開いていた。
風のせいではない。
鍵そのものが開けられている。
リディアは音を立てないよう慎重に扉を押した。
蝶番が小さく鳴る。
暗いはずの使用人棟の裏廊下に、小さな灯りが置かれていた。
床には室内履きが二足。
脱いだ靴をそのまま入れ替えられるよう、きれいに向きを揃えてある。
さらにその横には、小さな盆。
二つのカップ。
そこから白い湯気が細く立ちのぼっていた。
温かい牛乳だった。
誰もいない。
声もない。
扉を開けた人物の姿も見えない。
けれど、つい先ほどまでここに誰かがいたことだけは分かった。
ポーラも何も言わなかった。
リディアは暗い廊下の奥を見つめる。
朝、自分たちがここから出ていったことを知っている。
戻ってくると分かっていた。
そして、咎めるのではなく、鍵を開け、履物を揃え、冷えた身体のために牛乳を温めていた。
裏口の鍵は、開いていた。
小さな灯りと、揃えて置かれた室内履き。温かい牛乳が、まだ湯気を立てていた。
——知っている人がいる。この家の中に。




