第12話前半 鐘を三つ鳴らした人のこと
朝、廊下ですれ違ったヒルダの鍵束が、一度だけ鳴った。
それだけだった。ヒルダは何も言わず、リディアも何も聞かなかった。
高い窓から差し込む朝の光が、磨き込まれた床の上を斜めに伸びていた。夜の冷気はまだ石壁の奥に残っているものの、開け放たれた窓から入る風には昨日よりわずかに柔らかな温度があり、薄いカーテンが膨らむたび、その影が廊下をゆっくり横切っていく。
ヒルダはいつもと変わらない歩幅で、その光の中を通り過ぎた。
こちらを見ない。
足も止めない。
ただ、腰に下げた鍵束が一度だけ触れ合い、ちりん、と澄んだ音を立てた。
昨夜、外から施錠したはずの裏口。
開けられていた扉。
帰ってきた二人のために揃えられていた室内履きと、湯気の立つ牛乳。
リディアは遠ざかっていくヒルダの背中をしばらく見つめたが、声をかけることはしなかった。隣を歩いていたポーラも同じだったらしく、互いに目を合わせただけで、その小さな音が意味するものを言葉にはしないまま廊下を進んだ。
「行きましょう、ポーラ」
「本日も、ですか」
「昨日、聞けなかったことがありますから」
ポーラは何か言いたそうにしたものの、結局は小さく息を吐いただけだった。
◇
鉄工区へ着いたころには、朝の冷たい空気が炉の熱に押され始めていた。
工房の煙突から吐き出された灰色の煙は、屋根の上までは真っすぐ昇り、そこから風に崩されて西へ細長く流れている。大通りでは鉄棒を積んだ荷車が行き交い、革の前掛けをつけた職人たちが声を掛け合うたび、それを追い越すように槌の金属音が何重にも重なって響いていた。
昨日の経験を踏まえ、リディアの頭には今日は最初からポーラの襟巻きまで巻かれている。
淡い金髪は一本も外へ出ていない。
歩き方についても、「もう少し普通にしてください」と出発前から何度も念を押されたため、リディアなりに肩の力を抜き、すれ違う人全員へ挨拶することも我慢していた。
ただし、何をもって普通の歩幅とするのかは、まだよく分からない。
「昨日よりは目立っていませんか?」
「昨日と比較するのであれば、かなり」
褒められたのかどうか判断しにくい返答だった。
ポーラが周囲を確認しながら歩き、やがて石材置き場の奥を指さした。
大きな荷車の脇で、一人の老人が石を降ろしている。
年齢を感じさせる白髪は混じっているものの、身体つきは若い職人にも劣らないほど大きく、荷台から抱え下ろした石を地面へ置くたび、腰を痛める様子もなく次の石へ手を伸ばしていた。
傍らにつながれたラバは主人の仕事に興味を示さず、石材置き場の端から生えた草をゆっくり噛んでいる。
「あの方でしょうか」
「ボリスさんが教えてくださった特徴とは一致します」
二人で近づいていく。
老人は気づいているはずなのに、顔を上げなかった。
石を一つ抱え、地面へ置く。
ごとり、と腹の奥へ響く低い音がする。
さらにもう一つ降ろしたところで、こちらを見ないまま口を開いた。
「寄付ならよそへ行け。教会の連中に払う金はねえ」
「いえ、寄付では……」
リディアが答えると、ポーラは自分の服装を見下ろしてから、少し困った顔をした。
「私たち、そんなに教会っぽいですか」
「その喋り方は、教会か貴族だ。どっちにしろ面倒だ」
リディアは少し考えた。
「では、面倒な方で」
老人の手が止まった。
初めて顔が上がる。
日に焼けた顔に刻まれた深い皺の間から細い目がこちらを見て、頭巾と襟巻きで顔の大半を隠したリディア、続いてポーラを順番に眺めたあと、鼻を短く鳴らした。
「……変な嬢ちゃんだな」
追い払われる気配は薄れた。
リディアはそれを受け入れてもらえた合図と受け取り、わずかに頭を下げた。
「ガストンさんですね」
「だったら何だ」
「少し、お聞きしたいことがあります。『鐘の坊主』と呼ばれている、黒髪の方についてです」
ガストンの目つきが変わった。
怒ったわけではない。
しかし、それまでのぶっきらぼうな軽さが消えたことは分かった。
ラバが草を噛む音が、やけに大きく耳へ届く。
「……あいつのこと、どこで聞いた」
「少し前に、我が家で仕事をしていただきました」
嘘ではない。
けれど、そこで何が起きたのかまで話すつもりもなかった。
ガストンはしばらくリディアの顔を見ていたが、それ以上は問い詰めず、荷車の縁へ腰を下ろした。重い身体を受けて木板がぎしりと鳴り、その音が止むのを待ってから、低い声で話し始める。
「あいつに最初に会ったのは、石切り場から戻る途中だ。道の曲がり角でな」
リディアは黙って聞いた。
「血まみれの、ひょろい坊主が一人で歩いてきた。こっちは轍に岩を噛ませちまって、荷車が動かなくなってたんだが……目ぇ離したら、その岩が道端に転がってた」
ガストンは足元に転がっている石を見た。
「どう動いたのかは聞かなかった。あのとき俺は、『運がいいな、俺ら』って言っといた。……見なかったことにしたんだ」
リディアの表情は変わらなかった。
重い石が、人の目を離した隙に別の場所へ移る。
今の彼女には、そこから思い浮かぶものがある。
ガストンがこちらの反応をどう受け取ったのかは分からない。
「恩人の荷物を漁る趣味はねえ」
その一言だけが、リディアの胸に残った。
何かおかしいと気づいても、相手が隠したがっているなら無理に暴かない。
昨日までの自分なら、「なぜ聞かなかったのですか」と尋ねていたかもしれない。
今日は、その理由を聞く必要はない気がした。
「そのとき、悠真さんはどこから来たのでしょう」
「山の方だ。ガルムウルフが群れで出る辺りを、一晩越えてきたらしい」
ポーラがわずかに息を呑んだ。
リディアにも、その危険性は分かる。
夜の山で群れに出会えば、武器を持つ冒険者でさえ無事では済まないことがある。
「どうやって無事だったのかは?」
「聞いたさ」
ガストンの口元がわずかに歪んだ。
「『運が、よくて』だと」
その答えを想像しただけで、リディアはほんの少し目を伏せた。
あの人なら、言いそうだった。
危険な目に遭ったことよりも、無事だった結果だけを小さく見せるような言い方をする。
けれどガストンは笑わず、膝の上で節の太い指を組んだ。
「それから、あいつに聞いた言葉がある」
先ほどまで通り過ぎていた荷車の音が遠ざかり、代わりに隣の工房から鉄を水へ沈める激しい音がした。じゅう、と白い蒸気が上がり、風に押された煙が石材置き場の入口を横切っていく。
「『行方不明のままじゃ、待ってる奴は泣くこともできない』」
リディアの視線が上がった。
「……ハンスがそう言ってたって、あの坊主が教えてくれた。それで、俺は——」
ガストンの声が止まる。
顎がわずかに動いた。
何かを続けかけたのだと分かったが、リディアは待つだけにした。
少しして、ガストンは首を振る。
「いや。何でもねえ」
リディアも聞かなかった。
沈黙の中を、風が荷車の下から抜けていく。地面に落ちていた枯れ草の葉が二枚、石の間を転がり、ラバが耳を一度だけ動かした。
やがてガストンが立ち上がる。
「あいつのこと、あちこちで聞き回るなよ。……この街じゃ、変わった奴は、すぐ噂になる」
リディアは昨日の自分を思い返した。
ボリスたち。
串の屋台。
鉄工区で振り返った大勢の人間。
誰か一人へ尋ねるだけでも、それを見ている別の誰かがいる。
「……気をつけます」
知りたいことがあるからといって、誰にでも聞いていいわけではない。
少なくとも、昨日のように悠真の名前を追って人から人へ歩くことはやめた方がいい。
ガストンは返事を聞いても何も言わず、荷台へ手をかけた。
話は終わったのだろうとリディアが思い、ポーラとともに離れかけた、そのときだった。
「ロイの婆さんは、今でも亭主を待ってる」
リディアの足が止まる。
「ロイ……?」
「ハンスの親父だ。十一年前に仕事へ出たきり、帰ってねえ」
ガストンは石を一つ抱え上げた。
「……鐘が、鳴らなかったからな」
石が地面へ置かれる。
ごとり、と重い音がした。
昨日聞いた、三つの鐘。
帰ってきたことを知らせる鐘。
悠真が今も、その音を聞くたび手を止めるという鐘。
けれど。
鳴らなかった、鐘。
◇
昼前、悠真はボリスに頼まれ、午後に必要な切り石の数を伝えるため石材置き場へ向かっていた。
朝より高くなった太陽は煙越しに白く光り、石畳へ落ちる影も短くなっている。炉の熱が通りへ漏れているせいで、風は冷たいのに歩いていると額へ薄く汗が浮き、荷車が通るたび舞い上がる石粉がジーンズの裾へ白くついた。
石材置き場の角を曲がる直前、灰色の襟巻きをした二人の後ろ姿が見えた。
どちらも女性らしい。
一人はもう一人より少し前を歩き、角を曲がって姿を消す。
顔は見えなかった。
悠真は特に気に留めず、そのままガストンのいる荷車へ向かった。
「ガストンさん、ボリスさんが切り石をあと——」
「今の娘、お前のこと聞いてったぞ」
言葉が途中で止まった。
悠真はガストンを見る。
「……借金取りですか」
「お前、借金あるのか」
「ないです」
「じゃあ何で最初にそれが出てくる」
もっともだった。
「……に——いえ、故郷の、癖で」
危うく「日本では」と言いかけて、悠真は舌を止めた。
借金取りを警戒するのが日本人の習慣だった記憶はないが、そこまで含めて誤魔化すしかない。
幸い、ガストンはその不自然さを追及せず、荷台から石を降ろし始めた。
問題は別にある。
女の人が、自分のことを聞いていた。
その一文だけが頭の中へ残った。
誰だ。
何の用だ。
真っ先に疑うべきは、仕事関係だろう。
それなのに、なぜか別の顔が一瞬だけ浮かんだ。
淡い金色の髪。
青緑の瞳。
テラスで風に吹かれながら、同じところで笑った人。
悠真は即座に打ち消した。
……ないない。
侯爵令嬢が、わざわざ鉄工区で自分のことを聞いて歩く理由がない。仕事も終わっているし、名前を聞かれたのも雇い主として必要だっただけだと思えば、それで説明はつく。
それより現実的なのはギルドだった。
鎧熊の件。
三人の冒険者。
崖から落ちたことになっている熊。
自分ではうまく誤魔化したつもりでも、後から何か確認が必要になった可能性はある。
「どんな人でした?」
できるだけ何でもないように尋ねる。
ガストンは石を一つ持ち上げ、地面へ置いてから答えた。
「さあな。……綺麗な喋り方の娘だった」
悠真の手が一瞬止まった。
ほんの一瞬だけだった。
すぐに荷台の反対側へ回り、ガストンと一緒に次の石へ手をかける。
それからは何も聞かなかった。
ただ、石を積む速度だけが、いつもより少し速くなっていた。




