第12話後半 鐘を三つ鳴らした人のこと
◇
昼を少し回ったころ、リディアとポーラは鉄工区を離れ、ギルド区へ入っていた。
朝には白く薄かった雲が空の半分ほどまで広がり、陽射しは柔らかくなっていたものの、大通りの石畳にはまだ昼の熱が残っている。荷車の車輪が継ぎ目を踏むたび乾いた音を立て、軒先からは客を呼ぶ声が飛び、酒場の開いた扉からは煮込み料理と焼いた肉の匂いが風に混じって流れてきた。
ガストンの忠告は忘れていない。
悠真について、人から人へ聞いて回るのはやめる。
だから、ここで確かめようとしているのは噂ではなく、三つの鐘について残された記録だった。
ギルドの建物へ入ると、外とは違う熱気に包まれた。
受付前には何人もの冒険者が列を作り、泥の乾いた外套を着た者、革鎧を肩へ担いだ者、荷袋を足元へ置いて疲れた顔をしている者が、それぞれ自分の順番を待っている。酒場側からは木の杯が卓へ置かれる音や笑い声が聞こえ、そのすぐそばでは受付係のペンが忙しく紙の上を走っていた。
リディアはポーラとともに列へ並び、やがて見覚えのある女性の前へ進んだ。
髪をきっちりまとめ、袖を肘近くまでまくった受付係。
アンネットだった。
彼女は手元の書類を最後まで書き終えると、ようやく顔を上げた。
正確には、顔より先にリディアの右手を見た。
「……右手の薬指に、指輪の跡がございます」
リディアは反射的に手を背中へ隠した。
外出するとき、指輪そのものは外してきた。
けれど毎日つけていた細い輪の痕までは消えていない。
「次は、跡が消えてからお越しください」
叱るでも、笑うでもない。
ただ事実だけを告げる声だった。
隣でポーラが自分の仕事を見落としたことに気づいたように、そっと眉を寄せる。
「……跡までは、私も気づきませんでした」
リディアは隠した手を見てから、もう一度アンネットへ向き直った。
「変装していることは、お分かりだったのですね」
「この仕事をしておりますので」
それ以上の説明はなかった。
名前も、家名も聞かない。
知っていても、必要以上には踏み込まない。
リディアはそれをありがたく思いながら、声を少し落とした。
「三人の冒険者のために、三つの鐘が鳴ったことについて伺いたいのです」
アンネットのペン先が止まった。
ほんの一拍だけだった。
「記録の閲覧は、ご遺族と当事者に限られます」
「そうですか」
断られたのなら仕方がない。
リディアは素直に頭を下げ、離れようとした。
そのとき、アンネットの目だけがわずかに動いた。
受付横の掲示板。
そこへ視線が流れ、すぐ手元へ戻る。
リディアは何も尋ねず、掲示板へ向かった。
大小さまざまな紙が隙間なく貼られ、古い依頼書の上へ新しい公告が重ねられている。人の指で何度も触れられた紙は角が黒ずみ、雨に濡れたのか波打っているものもあった。
一枚ずつ目を追う。
やがて、下の方にある公告で視線が止まった。
北西街道、通行再開。
その下に続く短い文。
鎧熊一頭、転落死を確認。
リディアは「転落死」の文字を見つめた。
悠真が屋敷で見せたものを思い出す。
巨大なワイバーンが、一言のあとに消え、遥か北の空へ現れた。
今朝ガストンから聞いた、荷車の車輪を噛んでいた岩が、目を離した隙に道端へ移っていたという話もある。
だからといって、鎧熊にも同じことをしたとは断定できない。
自分は見ていない。
けれど、この一行だけでは何かが抜け落ちているように感じられた。
崖のせいにしたのですね。
そこで考えが止まる。
——あの方が。それとも、この紙が。
リディアは公告から目を離さなかった。
記録は、本当のことの全部ではない。
背後から、アンネットの声が聞こえた。
「……看取った方がいたことだけは、記録に残してあります」
振り返る。
アンネットは、もうこちらを見ていなかった。
次の客から書類を受け取り、何事もなかったようにペンを走らせている。
誰が看取ったのか。
誰を看取ったのか。
尋ねれば、おそらく答えない。
リディアは小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
返事はなく、紙をめくる乾いた音だけが聞こえた。
◇
ギルドを出たあと、二人は大通りから少し外れた道を歩いていた。
雲の切れ間から差し込んだ午後の光が建物の壁を明るく照らし、洗濯物を吊るした縄が風に揺れている。ギルド区の中心から離れるにつれて人の声は少なくなり、酒や革の匂いに代わって、小麦と薪の煙が鼻へ届くようになった。
リディアは一度だけ足を止めた。
「ポーラ」
「はい」
「ガストンさんが、パン屋の娘さんのことを話していましたね」
ハンスたちのことを尋ねたとき、ガストンが短く触れた話だった。
三つの鐘が鳴ったあと、パン屋の娘へ木の鳥が届けられた。
そこだけは、悠真について聞き回ることとは少し違う。
残された人が何を受け取ったのか。
その人が話したくないのであれば、すぐ帰るつもりだった。
「場所も聞いています」
ポーラは答えたあと、少し考えてから付け加えた。
「ただし、本当にお話を伺うだけにしてください」
「はい」
「それから、お買い物をなさる場合は、先に硬貨を私へ見せてください」
昨日の銀貨を思い出し、リディアは素直にうなずいた。
ギルド区の外れに、小さなパン屋があった。
窓辺には丸いパンや細長い黒パンが並べられ、扉を開けると控えめな鈴の音と一緒に、焼けた小麦の香りが身体を包んだ。
店内は暖かい。
奥の窯にはまだ火が残り、棚には粉を薄くまとったパンや、木の実を練り込んだものが整然と並んでいる。窓から差す光の中では細かな小麦粉が漂い、呼吸をするたびほのかに香ばしい匂いがした。
「いらっしゃい」
棚の向こうから、若い女性が顔を出した。
少し疲れたような目をしている。
いきなり話を聞くのもためらわれ、リディアは棚に並んだパンを一つ選んだ。
そして財布を開く。
昨日の反省はしていた。
銅貨を選ぶつもりだった。
ところが、最初に指へ触れた硬貨は金色だった。
取り出しかけたところで、ポーラが横から手を押さえた。
「お嬢様」
「まだ出していません」
「進歩いたしました」
「ありがとうございます」
銅貨を教えてもらい、今度こそ必要な額を支払った。
店の女性が二人のやり取りを見て、わずかに口元を緩める。
パンを包んでもらう間に、リディアは何気なく棚の端へ目を向けた。
そこに、一羽の小さな木の鳥が置かれている。
片方の翼には、細かな羽根が一本ずつ丁寧に彫られていた。
もう片方には、何もない。
作業が途中で終わっている。
視線に気づいたのか、女性の手が止まった。
「あの人ね、これを渡すとき、手が震えてたの」
リディアは木の鳥から女性へ視線を戻した。
「あの方が……?」
「黒い髪の若い人。名前は聞かなかった」
女性は木の鳥を見た。
「それから一度も、店に来ないのよ。……来づらいんだと思う」
責めるような声ではなかった。
リディアは黙って聞いた。
「あの人、何と……?」
女性が少しだけ困ったように笑う。
「『俺、そんな大したことしてないけど』って言ったのよ。あんな顔して」
リディアの口元にも、小さな笑いが浮かんだ。
「……言いそうです」
女性がこちらを見る。
「知り合い?」
「……お仕事を、お願いしたことがあります」
それ以上は言わなかった。
女性も、深くは聞かなかった。
しばらく窯の中で薪が爆ぜる音だけが続き、窓を揺らした風が鈴を小さく鳴らした。
女性は棚の鳥へ手を伸ばしかけ、途中でやめる。
「片っぽの羽、あたし、足さないことにしたの」
リディアは鳥を見る。
「あの子が彫ったとこまでで、いい」
短い言葉だった。
その言葉のあとに何かを尋ねることはできなかった。
リディアの目から、涙が一滴落ちた。
自分でも驚き、すぐ指で拭おうとしたが間に合わない。
「すみません。私が泣くなんて」
女性は何も言わず、使っていた布巾を差し出した。
リディアは一瞬迷ってから、それを受け取る。
柔らかな布には、窯の近くにあったためか、わずかな温かさが残っていた。
「ありがとうございます」
「いいのよ」
それだけだった。
リディアは目元を押さえ、落ち着くまで少し待った。
女性も急かさず、棚の鳥を眺めていた。
店を出たころには、午後の光が夕方の色へ変わり始めていた。
雲の切れ間から差す西日が屋根の縁を橙色に染め、通りを歩く人々の影を長く引き伸ばしている。
リディアは包んでもらったパンを両手で持ち、ポーラと並んで歩いた。
やがて、ギルドの方角から低い鐘が一つ響いた。
ごうん、と大気の底を震わせるような音だった。
通りを歩いていた男が足を止め、帽子を取る。
店先で荷を片づけていた者も手を休め、静かに頭を下げた。
誰も説明しない。
誰も騒がない。
ただ、鐘の余韻が消えるまで、その場にいる人々が音を聞いている。
リディアの脳裏に、屋敷の庭で空を見上げていた悠真の姿が浮かんだ。
一つずつ。
最後まで。
数えずにはいられなかった顔。
通りの人たちが、帽子を取った。
リディアは、自分の唇が勝手に動いたのに気づいた。——一つ。
あの人が数えずにいられない理由が、やっと分かった。




