第13話前半 この国に、転移という魔法は存在しない
「お嬢様、湯が灰色です」
ポーラが、泡立てた布を持ったまま言った。
侯爵家の浴室は、夜の静けさに包まれていた。磨き込まれた石壁にはいくつもの灯りが柔らかく映り込み、湯気に滲んだ炎が水面の揺れに合わせて細く伸びたり縮んだりしている。高い位置に設けられた換気窓からは夜の冷えた空気が入り込み、天井近くへ溜まった湯気をゆっくり押し流していた。
その穏やかな光景の中で、浴槽の湯だけが普段とは明らかに違う色をしている。
リディアは自分の腕から流れ落ちる湯を眺めた。
薄い灰色だった。
「そんなに汚れていましたか?」
「首まで鉄工区です」
ポーラは泡のついた布をすすぎながら、諦めたように息を吐いた。
二日続けて煤と石粉の舞う場所を歩き回ったのだから、当然といえば当然だった。頭巾や襟巻きで髪を隠していたぶん、首筋や服の隙間には細かな煤が入り込み、洗うたびに白い布が薄黒く染まっていく。
けれどリディアは嫌そうな顔をするどころか、すすいだ水がさらに灰色になる様子を興味深そうに見ていた。
「鉄工区の煤は、落ちにくいんですね」
「喜ぶところではございません」
「そうでしょうか」
「そうでございます」
迷いのない返事に、リディアは小さく笑った。
肩まで湯へ沈むと、二日間慣れない街を歩き続けた疲れが、熱にほどかれるように少しずつ抜けていった。頭巾の中へ押し込めていた淡い金色の髪も解かれ、水面へゆるやかに広がっている。灯りを受けた髪が細い金糸のように揺れるのを眺めているうちに、昼間から胸の中へ積み重なっていたものが、ひとつずつ形を持って浮かび上がってきた。
三つの鐘。
鎧熊の「転落死」という記録。
片方の翼だけが彫られた木の鳥。
そして、どの出来事の奥にもいる悠真。
落ちた鳥の巣を、触れることなく枝へ戻した。
コップも、花も。
屋敷を襲った巨大なワイバーンさえ、一言のあとに姿を消し、遥か北の空へ移してみせた。
剣術ではない。
リディア自身が知る一般的な攻撃魔法とも違う。
風の魔法なら、彼女自身が使うからこそ分かる。少なくとも、あの日に見た現象を風だけで説明することはできなかった。
幼いころから魔術の教本は数え切れないほど読んできた。基礎書だけでなく、屋敷にある専門書にも目を通した記憶がある。それでも、悠真が使ったものと同じ現象について読んだ覚えはなかった。
怖い、とは思わない。
むしろ胸の奥へ残っているのは、それとは反対の感情だった。
分からないままにしておくことへの落ち着かなさ。
そして、答えがどこかにあるのなら、自分の目で確かめたいという気持ち。
知らないことがあるなら、調べればいい。
その結論に至ると、迷いは思ったより早く消えた。
「ポーラ」
「はい」
「明日、書庫へ行こうと思います」
髪をすすいでいたポーラの手が止まる。
「どちらの書庫でしょうか」
「王立書庫です」
数秒の沈黙があった。
「……鉄工区ではないのですね」
「今回は違います」
それを聞いて安心したのか、それとも別の不安が増えたのか、ポーラは何も言わなかった。ただ、リディアの髪をすすぐ手つきだけが、先ほどよりわずかに丁寧になった。
◇
翌朝、侯爵家の朝食の間には、銀器が触れ合う小さな音と紙をめくる乾いた音だけが流れていた。
大きな窓の向こうでは、夜露を含んだ庭木の葉が朝風に揺れ、まだ低い太陽の光が芝生の上で白く瞬いている。少し開けた窓から入る冷たい風が、薄いカーテンの裾をときおり持ち上げ、そのたびに紅茶の湯気が細く傾いた。
父は新聞を読んでいる。
兄は食事の傍らへ置いた書類に目を落とし、母は紅茶を口へ運びながら穏やかに庭を眺めていた。
リディアはパンへ薄くジャムを塗りながら、できれば何事もなく朝食が終わってほしいと思っていた。
だが、兄が書類から目を上げた。
「昨日、刺繍の糸を買いに行ったそうだな」
リディアのナイフが、パンの上でわずかに止まった。
「……はい」
嘘ではない。
少なくとも、屋敷を出るときにはそういうことになっていた。
兄は妹の顔を見てから、淡々と続けた。
「鉄工区に、刺繍糸の店があるとは知らなかった」
食卓へ、妙に深い沈黙が落ちた。
庭で鳥が一度鳴き、離れた廊下のどこかでは使用人が扉を閉める音がした。そのどちらも、普段なら意識するほどの音ではないのに、今だけはやけに鮮明に聞こえる。
返答を探していたリディアより先に、母が紅茶のカップを受け皿へ戻した。
「あるのよ。私も昔、行ったもの」
兄の眉がわずかに動く。
「……母上」
母は何事もなかったように紅茶を口へ運んだ。
助けられたのだろうか。
それとも話がさらに複雑になったのだろうか。
判断できないまま父を見ると、父は新聞を下ろしていなかった。
こちらを見てもいない。
ならば気づいていないのかもしれない、と考えかけたところで、新聞の向こうから低い声がした。
「靴の底に、鉄粉がついている」
リディアの背筋が自然に伸びた。
昨日帰宅したあとで服は着替え、靴も表面の汚れは落としたつもりだった。しかし靴底の細い溝に入り込んだ鉄粉までは、完全に取れていなかったらしい。
無意識に足を椅子の下へ引いたところで、もう遅い。
兄も何も言わない。
母はカップの縁越しに娘を見ている。
父は相変わらず新聞を読んでいた。
沈黙そのものは数秒だったはずなのに、自分の呼吸がやけに大きく感じられるほど長く思えた。
「ふふ」
母が笑った。
その小さな声で、張りつめていた空気がわずかに緩む。
父はようやく新聞を半分に畳み、そこから娘を一度見た。
怒ってはいなかった。
問い詰める様子もない。
ただ、何をしているのか分かったうえで見ているような目だった。
「……夕食までには戻れ」
リディアは一瞬、その言葉の意味を取り損ねた。
鉄工区へ行くな、とは言われない。
なぜ行ったのかとも、誰に会ったのかとも聞かれない。
帰る時刻だけを告げられた。
「……はい」
答えると、父は再び新聞を開いた。
兄は深く息を吐き、母はどこか楽しそうな微笑みを残したまま紅茶へ口をつける。
それ以上、誰も昨日の外出には触れなかった。
朝食を終えて廊下へ出ると、後ろを歩いていたポーラが少しだけ距離を詰めてきた。
「お嬢様、旦那様はもしかして——」
そこで言葉を止める。
リディアが振り返った。
「何ですか?」
ポーラは父のいる食堂の扉を一度だけ見て、それから首を横へ振った。
「いえ、何でもございません」
最近、その言葉を聞く回数が増えている気がした。
◇
同じ日の夕刻、鉄工区の酒場には、一日の仕事を終えた職人たちの声が満ちていた。
陽が落ちるにつれて外気は急速に冷え始めていたが、店の中には炉と人の熱が籠もり、扉が開くたび床近くへ流れ込んだ冷たい空気も、酒と煮込み料理の匂いにすぐ飲み込まれていく。
悠真はボリスたちと同じ卓に座り、薄めたエールを少しずつ口へ運んでいた。
隣ではオットーがすでに頬を赤くし、ボリスは大きな手でジョッキを握ったまま、周囲の会話へときおり短い相槌を返している。
悠真が煮込みの豆を匙ですくったとき、隣の卓から聞き覚えのある場所の名前が耳へ入った。
「聞いたか。白冠区の侯爵家に、精霊が出たんだとよ」
匙を運ぶ手がわずかに止まる。
「大風で、ワイバーンを北へ吹っ飛ばしたってな」
悠真は顔を上げず、そのまま食べるふりをした。
「王都を守った精霊だってんで、屋敷の塀の外まで拝みに行く奴が出てるらしい」
「ぶっ……!」
完全に失敗した。
口へ入れたエールが気管へ入り、悠真は口元を押さえて激しく咳き込んだ。
向かいのボリスが眉をひそめる。
「何やってんだ」
「いや……ちょっと、変なところに入って」
咳を堪えながら視線を卓へ落とす。
庭の精霊。
鳥の巣を戻したのも、コップを移したのも、花を動かしたのも、ワイバーンを北の空へ飛ばしたのも、全部自分だった。
それが数日も経たないうちに、王都を守った精霊として拝まれているらしい。
精霊、出世してる。
本人は相変わらず日雇いで石を積んでいるというのに、噂の中の自分だけが別の生き物になりつつある。
「そういや、昨日、侯爵家のお嬢——」
オットーの言葉が途中で途切れた。
卓の下から鈍い音が響く。
「いってぇ!」
オットーが膝を押さえた。
ボリスは何食わぬ顔で酒を飲んでいる。
「——お嬢さん方の間じゃ、精霊が流行りらしいな」
無理のある続きだった。
悠真は二人を見比べる。
「……?」
オットーは痛そうに足をさすりながら視線を逸らし、ボリスは正面を向いたまま何も言わない。
昨日、石材置き場でガストンから「お前のことを聞いていた娘がいた」と聞いたことが、ふと頭をよぎった。
何か関係があるのかもしれない。
しかし、追及する前にボリスがジョッキを卓へ置いた。
どん、と重い音が響き、それだけで卓の空気が少し変わった。
「来週から、仕事は半分だ。冬は石が凍る。無理に積んでも、春に割れる」
悠真は眉を寄せた。
「半分……」
「この時期から外仕事は減る。今までと同じだけ稼げると思うなよ」
頭の中で、勝手に数字が動き始めた。
いまの日当が半分になれば、一日の宿代三十銅にすら届かない。
食費まで含めれば、働いても手持ちは確実に減っていく。
すぐに困るわけではない。
いくらか貯えはある。
ただ、冬がどれほど続くのか分からない以上、それだけに頼って暮らし続けるのは危うかった。
「冬でもできる仕事って、ありますか?」
悠真が尋ねると、少し離れた席にいたガストンが杯を置いた。
「ギルドの荷運びなら、冬でも仕事がある。倉庫から倉庫へ、街の中だけのもな」
ギルド、という言葉を聞いた瞬間、悠真の中に別の記憶が差し込んだ。
三枚の札を握って入った夜。
受付の奥へ伸びていた太い綱。
胸の骨まで震わせた三つの鐘。
「……冒険者は、無理です」
「運ぶだけでもか」
ガストンの声に、からかう響きはなかった。
悠真はすぐには答えず、自分の手のひらへ視線を落とした。
この手で持てないほど重いものでも、移すことだけならできる。
石も、荷物も。
戦うわけではない。
魔物と向き合う必要もない。
運ぶだけなら——
そこで考えるのを止めた。




