第13話後半 この国に、転移という魔法は存在しない
◇
同じころ、侯爵家の稽古場では、乾いた木剣の音が夕暮れの庭へ響いていた。
西へ傾いた太陽は高い塀の向こうまで沈みかけており、稽古場を覆う芝の半分だけが橙色の光を受けている。昼間まで吹いていた風は少し弱まり、周囲の木々も、枝先の葉をときおり揺らす程度に静まっていた。
リディアは木剣を両手で構え、その正面にいる青年の動きを見ていた。
ルシアン・ヴァレル。
幼いころから剣を合わせてきた相手であり、今日もいつものように屋敷を訪れていた。握った木剣から覗く手には長年の稽古でできた硬い剣だこがあり、普段から真面目そうに見える眉は、構えを取るとさらに険しくなる。
「行くよ」
「どうぞ」
ルシアンが踏み込んだ。
芝を蹴る音と同時に、木剣が上段から振り下ろされる。
リディアは真正面から受けず、半歩だけ身体を外して刃筋を流した。木と木がぶつかる高い音が一度響き、返す剣をルシアンが横から受ける。
二手。
間を置かず三手目。
リディアの剣先がわずかに沈み、それを見たルシアンが上から押さえようとした瞬間、軌道を変えた木剣が下から跳ね上がった。
乾いた音とともに、ルシアンの木剣が手を離れる。
芝の上へ落ち、二度ほど転がって止まった。
ルシアンは空になった右手を眺め、それからリディアを見る。
「……考え事をしている君に、また一本も取れなかった」
「すみません」
「謝られると余計につらいな」
口調には呆れが混じっていたが、不機嫌ではなかった。
ルシアンは落ちた木剣を拾い上げ、表面についた草を手で払う。
「今日は特に上の空だった。何かあったのか?」
「少し、調べたいことがありまして」
「調べもの?」
「はい。これから王立書庫へ行こうと思っています」
ルシアンが空を見上げた。
太陽はすでに屋根の高さ近くまで下がり、東側の庭には薄い影が広がり始めている。
「今から?」
「閉館までには間に合うと思います」
ルシアンは少し考えたあと、木剣を脇へ置いた。
「僕も行こう」
「ですが、お時間は」
「このあと予定はない。それに王立書庫なら、帰る方向も同じだ」
押しつけるような言い方ではなかった。
幼いころから変わらない、必要ならそうするのが当然だという調子だった。
「ありがとうございます」
リディアも木剣を片づける。
二人が稽古場を離れるころには、庭を渡る風が少し冷たくなっていた。
◇
白冠区へ続く道には、夕方の長い影が伸びていた。
鉄工区のような煤煙も、ギルド区のような喧騒もなく、道の両側には石造りの屋敷と高い塀が並んでいる。街路樹の枝葉が風に擦れ、整えられた植え込みの縁だけが斜めから差す夕日に細く照らされていた。
リディアとルシアンは並んで歩いた。
初めのうちは、先ほどの稽古について話していた。
三手目でどこを見落としたのかとルシアンが尋ね、リディアが剣先ではなく肩の動きを見ていたと答える。そこで話が一区切りつくと、二人の間には自然な沈黙が落ちた。
昔からの付き合いなので、無理に言葉を続ける必要はなかった。
しばらくして、ルシアンの視線が一度だけ下へ落ちた。
リディアの靴だった。
「何かついていますか?」
「いや」
答えたあとも、ルシアンはすぐには続けなかった。
数歩歩き、言葉を選んでから口を開く。
「リディア」
「はい」
「下の街に行っているなら、やめた方がいい」
責めるような声ではなかった。
それでも冗談ではないことは分かった。
「……どうして、そう思ったのですか?」
「今日の靴だけじゃない。最近の君は、屋敷の外のことを以前より気にしている。それに、君の家なら使用人へ任せられるようなことまで、自分で確かめに行っているように見える」
リディアは黙って聞いた。
ルシアンは前を向いたまま続ける。
「何をしているのか聞くつもりはないし、意味もなく動いているとも思っていない。ただ、君は侯爵家の娘だ。それを忘れるなという話だ」
夕方の風が二人の間を抜け、道端の草を一斉に同じ方向へ傾けた。
リディアは以前なら、その言葉へ少なからず反発したかもしれない。
身分によって行動を制限されることを、窮屈だと思ったはずだ。
けれど今は、ガストンから言われたことが胸へ残っている。
変わった人間は、すぐ噂になる。
自分が誰かについて尋ねれば、その行動そのものを見ている人もいる。
「リディア。下の街に行っているなら、やめた方がいい。……君に何かあれば、君の家だけじゃない。相手も困る」
その一言で、リディアは返す言葉を失った。
相手。
誰のことなのか、ルシアンは知らない。
それでも、自分が一人だけの問題ではなくなっている可能性を指摘している。
もし侯爵家の娘が何かの事件へ巻き込まれれば、その近くにいた者も調べられる。
本人が望んでいなくても。
何も悪いことをしていなくても。
その可能性を、自分は十分に考えていなかった。
「……ありがとうございます、ルシアン」
言い返さなかった。
ルシアンも、それ以上は何も言わなかった。
二人の靴音だけが、夕暮れの石畳へ一定の間隔で響いていった。
◇
王立書庫へ着いたとき、閉館の鐘まではあと半刻ほどしか残っていなかった。
重い扉を抜けると、外を吹いていた風の音が一気に遠のく。
高い天井の下には何列もの本棚が続き、夕日の届かない奥では壁際に灯された明かりが静かに揺れている。古い紙と革装丁、乾いた木材の匂いが混じった独特の空気が館内へ染みつき、誰かが頁をめくる音さえ遠くまで届きそうな静けさだった。
リディアは迷わず魔術関係の棚へ向かった。
「探す本は決めているのか?」
ルシアンが声を落として尋ねる。
「まずは基礎書から確認します」
「専門書ではなく?」
「先に、一般にどう説明されているのかを知っておきたいので」
棚から取り出したのは、王立学院で長く使われている『魔術原論』の改訂版だった。
リディア自身も学んだことのある本で、魔力の性質、術式の組み方、属性ごとの基本的な現象などが整理されている。
近くの閲覧机へ運び、目次を追う。
探している言葉そのものは見つからない。
そこで対象を広げ、物体、距離、空間と項目を拾っていくうちに、指が一つの見出しで止まった。
「空間を越える術について」
リディアは頁を開いた。
記述は驚くほど短かった。
わずか一段落。
その最後に、こう書かれていた。
空間を越えて物体を移す術は、理論上存在しない。
リディアは文章を読み直した。
もう一度。
意味は変わらない。
「何かあった?」
向かい側に座ったルシアンが尋ねる。
「……まだ分かりません」
存在しない。
それなら、それで終わっているはずだった。
けれどリディアには、何かが欠けているように感じられた。
なぜ存在しないのか。
過去に研究されたことがあるのか。
何が障壁になるのか。
説明が何も続いていない。
次の頁をめくる。
そこで手が止まった。
現在の頁番号は二一二。
次は二一九。
リディアは一度戻り、もう一度めくる。
数字は変わらない。
「……六頁」
「何?」
「六頁、ありません」
乱暴に破り取られた跡はない。
紙の端が残っているわけでもなく、最初からその部分だけを抜いて綴じ直したように見える。
リディアは本を傾け、綴じ目へ目を近づけた。
そこに、小さな印が押されている。
目立たない。
普通に読むだけなら見過ごしてしまう程度の大きさだった。
「王命により削除」
指先が止まった。
背後のどこかで、本が一冊閉じられた。
ぱたん、という小さな音が、静かな書庫の中で妙に大きく聞こえる。
存在しないと書かれた術。
そのすぐあとから、六頁が消されている。
偶然とは思えなかった。
「すみません」
近くを通った司書を呼び止める。
「この本について伺ってもよろしいでしょうか」
司書は差し出された本を受け取り、削除の印へ目を落とした。
表情はほとんど変わらない。
「何でしょう」
「改訂される前の版を確認したいのです。こちらに所蔵されていますか?」
司書はすぐには答えず、背表紙、奥付、版数を順番に確認した。
「その本の旧版は、回収されました。……私が来る前のことです」
「回収?」
「はい」
「一冊も残っていないのですか?」
「所蔵目録上はございません」
それ以上を知っている様子はなかった。
あるいは、答えられないのかもしれない。
どちらなのか判断する材料はない。
「ありがとうございます」
司書が離れてから、リディアは再び本へ視線を落とした。
隣からルシアンの低い声が聞こえる。
「王命の印がある本には、触らない方がいい」
「……そうですね」
返事をしながら、奥付を開く。
発行元。
版。
改訂年。
そこに記された年を現在から数え、リディアはもう一度確認した。
十一年前。
その数字を見た瞬間、昼間まで別々だったものが、薄い糸でつながりかけた気がした。
理論上、存在しない。
けれどリディアは実際に見ている。
地面へ落ちた鳥の巣が、誰の手にも触れられないまま枝へ戻った。
コップが別の場所へ移った。
花が飛んだ。
そして、巨大なワイバーンが悠真の一言で消え、遥か北の空へ現れた。
その現象を何と呼ぶのかは、まだ分からない。
悠真自身がどこまで理解しているのかも知らない。
ただ、存在しないと断じられたものについて、その直後の六頁を王の命令で削らなければならなかった理由がある。
そこだけは、どうしても引っかかった。
閉館を知らせる鐘が鳴った。
厚い壁を通した低い音が、書庫の静かな空気をわずかに震わせる。
リディアは本を閉じた。
表紙の上へ置いた指先が、いつの間にか冷えていた。
存在しないはずの魔法について書かれた頁が、十一年前に消されていた。
十一年前。——その年に何があったのか、この国で知らない者はいない。




